けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

パジェス「日本切支丹宗門史」から(43)

2006年12月04日 | Weblog
 1642-1643年(寛永19-20年) - オランダ人は出島で監視を受け、ポルトガル人より、さらにひどい取り扱いを受けていた。島中や船上で宗教的勤行を行うことは禁止された。1642年八月二 十一日、アントニオ・ルビノ神父、ディエゴ・モラレス神父、ペトロ・マルケス神父、アントニオ・カペチュー神父、アルベルト・メチンスキー神父、それに神 父たちの伴侶である俗人のポルトガル人パスカル・コレア・デ・ソーザ、朝鮮人トマス、パタニの人ヨハネの船がマニラから薩摩海峡の小さな島に来て座礁し、 彼らは海岸に上がったが逮捕されて長崎に連行された。背教者フェレイラと対面した巡察使神父はいかにも残酷な言葉でフェレイラに話しかけ、フェレイラは退 去するのやむなきに至った。神父は将軍の禁制を知らぬかと訊かれ、知っていると答えた、しかし、何より先に、自分は神の掟に従わなければならず、何千の魂を地獄から救い出すように努力し、イエズス・キリスト様の血によってあがなわれたこれらの魂の救済のために、自分の命を犠牲にするよう努めなければならぬと 答えた。尋問の数日後、彼らは拷問を受け、まず水責めにあった。彼らは七ヶ月間これを受け、二日に一回、休みの日と刑の日あり、すなわち計百五回受けた。 人々は、たいまつと赤熱した鉄で、肉体を焦がし、彼らが息を引き取ろうとした刹那、薬で元気づけられて新しい刑のため残しておかれることになった。 1643年三月十六日、これまでのものより一層苛酷な水責めが行われた。三月十七日に穴吊しにするという宣告が通告された。彼らは跪いて天主に感謝した。 彼らは後ろ手にきつく縛られ、頭の半分を剃られた上に、赤く塗られた。口には鉄板を押し当てられ、駄馬に乗せられ、肩には次のように記したものをつけられ た。「日本の皇帝は、この者ども全領域内において、永年禁制のローマ教を説きたるにより、死刑に処するものなり。」彼らは長崎の目抜きの場所を通過して天 使や衆人の見物に供された。彼らは数日の間穴の中に吊されたままであった。最初にトマスが三月二十一日息を引き取った。ルビノ神父は二十二日、三日後にメ チンスキ神父、パタニのヨハネが息を引き取った。パスカル・コレアは二十四日に死んだ。後に残った三人はまる九日間生きていた。三月二十五日彼らは穴から 引き出され縛られたまま斬首された。遺骸は切りきざまれた上、灰にされて俵に詰め込まれ、沖にまき散らされた。殉教の報は十二月八日にマカオに着いた。こ の機会に大々的の祝祭が行われた。

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 現代エキュメニズムが放棄したカトリック教会の戦闘性とは以上のような殉教者たちの戦闘性であって、この世で武器弾薬によって敵を抹殺する戦闘性ではな かった。同じく現代のエキュメニズムが放棄した宣教精神を400年前の宣教師たちはおのれの生命を犠牲にして発揮したのであった。