けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

世界の奴隷化か、それとも平和か(32)

2011年10月31日 | Weblog

第 XII 部(続き)

三人の幻視者たちにつきまとった一つの考え:

教皇のために祈りなさい、たくさん祈りなさい

by Frere Michel de la Sainte Trinite 

年少の幻視者たちの一つの絶えざる関心は教皇のために絶え間なく祈ろうとすることであった。われわれは、7月13日そして大きな秘密の啓示以後、彼らが教皇のために犠牲と祈りを献げ始めたことを知っている。特に「秘密の中で明らかにされたある事柄によって非常に感動させられた」ヤシンタはそうであった、とルチアはわれわれに告げている。

「私たちが監獄にいたとき、ヤシンタを最も苦しめたことは、彼らの両親が彼らを見捨てたと感じることであった。両頬に流れ落ちる涙とともに、彼女はこう言うのでした:

「あなたの両親も私の両親も私たちに会いに来なかった。彼らはもう私たちのことを心配していないのだわ。」

フランシスコが言った。「泣かないで。ぼくたちは、これを罪人たちのためにイエズスに捧げることができる。」それからその目と両手を天に挙げて、彼はその献げ物をした:

「おお、私のイエズス、これはあなたの愛のため、そして罪人たちの回心のためです。」

ヤシンタがつけ加えました:「そしてまた教皇様のため、そしてマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのために。」

後に、彼らを殺すだろうと彼らに信じさせた区長の脅迫の後に、ヤシンタは泣き始めた:

「私は彼女のところへ行き、彼女になぜ泣いているのか尋ねながら、彼女を私の側に引き寄せました」とルチアは言っている。

「私たちは再び両親に、お母さんにさえも、会わずに死んでいこうとしているからよ!」

両頬に涙をこぼして、彼女はつけ加えたl:「私のお母さんにだけでも会いたいわ。」

「では、あなたはこの犠牲を罪人たちの回心のために捧げたくないの?」

「捧げたいわ、捧げるわ!」

顔中涙に濡らして、彼女は両手を組み、目を天に挙げて彼女の献げ物を捧げた:「おお、私のイエズス、これはあなたの愛のため、罪人たちの回心のため、教皇様のため、そしてマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのためです!」

その年齢の子どもたちによって非常に恐ろしいものであったオウレムでの彼らの投獄についての説明の中で、ルチアは、秘密が明らかにされてちょうど一ヶ月後、彼らが絶えず教皇のことを考えていたということを示すもう一つの出来事を語っている:

祝せられたおとめが私たちにマリアの汚れなき御心に対して犯される罪の償いのためにも私たちの祈りと犠牲を捧げるように告げられたとき、私たちはそれぞれがこれらの意向のうちの一つを選ぶことに同意しました。一人は罪人たちのために、もう一人は教皇様のために、さらにもう一人はマリアの汚れなき御心に対する罪の償いのために捧げましょう。このことを決めた後、私はヤシンタにどの意向を選ぶかと言いました。

「私はすべての意向のために献げ物をするわ。だって私はそれらすべてを愛しているからよ。」

 侮辱され、迫害された教皇の幻視

 ルチアはこう言っている:ある日、私たちは私の両親の井戸の傍でシエスタの時間を過ごしていました。ヤシンタは井戸の上の石の厚板に坐っていました。フランシスコと私は近くの茂みの中の木イチゴの間に野生の花の蜜を探しに土手を登っていました。しばらくして後、ヤシンタが私に叫びました:「あなたは教皇様を見なかったの?」

「いいえ。」

「私はどうしてそれが起こったのか分からないけど、非常に大きな家の中に、頭を両手に埋めて、テーブルの側に跪いておられる教皇様を見たの。そして教皇様は泣いておられたの。家の外には、多くの人たちがいた。彼らのうちの何人かは石を投げていた。他の人たちは教皇様を呪い、きたない言葉を使っていた。可哀想な教皇様、私たちは教皇様のためにたくさん祈らなければならないわ。」

ルチアはこう続けている。ある日、二人の司祭が私たちに教皇のために祈るように勧めました。そして誰が教皇であるかを私たちの説明しました。後でヤシンタは私に訊ねました:

その人は泣いておられるのを私が見た人、聖母が私たちに秘密の中で告げられた人なの?

「そうよ、その人よ。」

「聖母は確かにあの司祭方にもその人を示されたのだわ。ね、私は間違っていなかったのね。私たちはその人のためにたくさん祈る必要があるわ。」

何人かの専門家はこの神秘的な幻視は教皇ピオ十二世に当てはまると信じた。しかしこの預言的な幻視は未来に関わるということの方がもっとありそうである。おそらくそれは、世界にその最後の秘密を明らかにすることで始まる聖母の要求を果たすことを最終的に決断するであろう教皇に関係があるのであろうか?もしシスター・ルチアがそれを書き下ろす前に真の激しい苦痛を経験したのであるならば、われわれは、それを明らかにしたであろう教皇の恐るべき苦痛を想像することができる。教皇が沈黙を断念し、キリストの代理者としての -- すなわち、まず第一に、彼の群を毒する異端者たちを名を挙げて公然と非難することをもはや躊躇せずに、信仰の遺産の恐れを知らぬ擁護者としての -- 彼の義務に一致して精力的に行動する決心をするならば、彼はその敵どもの怒りを引き起こすであろう。彼はまた、長い間敵に奉仕してきた彼自身の誤り導かれた子らの侮辱と憎しみに耐えなければならないであろう。彼は侮辱され、石を投げつけられ、呪われるであろう。そうである、その時にはこれまで以上に「教皇は多く苦しまなければならないであろう。」

戦争の幻視と祈っている教皇

ルチアはこう書いている:別の時、私たちはラパ・ド・カベソと呼ばれる洞窟へ行きました。私たちがそこに着くとすぐに、天使が私たちに教えてくださった祈りを唱えながら、地面にひれ伏しました。しばらくして、ヤシンタが立ち上がり、私に叫びました。

「あなたは、飢えで泣きながら、食べるものを何も持っていない人々でいっぱいのあれらすべての大通りや道路や野原を見ることができないの?そしてマリアの汚れなき御心の前で祈っておられる教会の中の教皇様も?そして教皇様と共に祈っている多くの人々を?」

数日後、彼女は私に尋ねました:「私が教皇様とあれらすべての人々を見たと言うことができるかしら?」

だめよ、それは秘密の一部だってことが分からないの?もしあなたが言うならば、彼らはすぐに見つけてしまうでしょう。

「わかったわ、じゃあ、何も言わないわ。」

この第二の預言的な幻視は、第一の幻視と同じように、疑いもなくまだ果たされていない。問題の恐るべき戦争は疑いもなくわれわれが脅威を受けている未来の戦争である。「マリアの汚れなき御心の前で祈っている」教皇に関しては、われわれは、彼が秘密において言及されている教皇であると信じてもよいであろう:「最後に...教皇は私にロシアを奉献するでしょう。」聖母はおそらく彼女の小さな腹心の友[ヤシンタ]に、1929年以来神によってそのように執拗に要求されたロシアの奉献が最終的に行われるときにわれわれが直面するであろう悲劇的な状況が何であるかを明らかにされたのか?「彼らはそうするであろう。しかしそれは遅いであろう」とわれらの主はシスター・ルチアに語られた。

第三の秘密の開示のみが、そして預言された諸々の出来事の実現のみが、ヤシンタのこれらの幻視についての全真理をわれわれに与えるであろう。それがどのようなものであろうと、ルチアがこれらの説明からわれわれに引き出すよう望んでいる教訓は、単純であり、そしてこれまで以上により重大であり、より緊急である:すなわち、われわれは教皇のために祈らなければならない、たくさん祈り、そして犠牲を捧げなければならない、ということである。その回想録において 幻視者[ルチア]は彼女の主張 -- それは明らかに第三の秘密における諸々の啓示に直接依存している -- の理由を明らかにすることができなかったけれども、少なくとも、われわれの前に彼女の小さないとこの感動的な例を提出しようと望んだのである。地獄から罪人たちを救うことに対する関心と並んで、教皇についての考えは彼女[ヤシンタ]の最も気がかりなことであった。なぜなら、確かに彼女はわれわれが知らない諸々の出来事を知っていたからである。-- 彼女はマリアの汚れなき御心の勝利の前に教皇はどんな危険、どんな誘惑をそして最後にどんな恐るべき迫害を忍び、そして苦しまなければならないかを知っていた。

ルチアは、このことがヤシンタに教皇に対するそのような愛を与えたので、彼女がイエズスへの犠牲を捧げるときにいつも、彼女はこうつけ加えた、と言っている:「そして教皇様のために。」ロザリオの後に、彼女はいつも教皇のために天使祝詞を3回唱えた。

フランシスコは、死ぬ直前にヤシンタとルチアにこう言った:

「天国に行く前に、今ここにそう長くいたくない。天国に行ったら、僕はわれらの主と聖母を一生懸命慰めるつもりだ。ヤシンタは罪人たちのため、教皇様のため、そしてあなたのためにたくさん祈るでしょう。あなたはここにとどまるでしょう。なぜなら、聖母はそのように望んでおられるからです。聴いてください、あなたは聖母があなたに告げられることをすべてしなければいけない。」祝せられた乙女がヤシンタに、間もなく病院に行くだろう、そしてそこでたいそう苦しむだろうと告げられたとき、ヤシンタは従兄弟にこう言った:「...私はそこで独りで苦しむでしょう!でも気にしないで!私はわれらの主の愛のため、マリアの汚れなき御心に償いをするため、罪人たちの回心のため、そして教皇様のために苦しむわ。」

数ヶ月後、1919年7月/8月に、聖母の預言は実現した。ヤシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院した。ルチアはただ2度だけ彼女を訪問した。彼女はこう言っている:「私は、ヤシンタがわれらのよき神とマリアの汚れなき御心の愛のため、罪人たちのため、そして教皇のために喜んで苦しみ、いつもより快活であるのを見た。それは彼女の理想だった。そして彼女は他のことは何も話すことができなかった。」

彼女がアルジュストレルに戻ったとき、ヤシンタは秘密の中で告知された諸々の出来事についてしばしば考え続けていた:「恐れてはいけないわ!」と彼女はルチアに言った。「天国では、あなたのため、教皇様のため、戦争がここに来ないようにポルトガルのために、そしてすべての司祭たちのために、一生懸命祈るわ。」

最後に、彼女の死の数ヶ月前、彼女がリスボンに向けて出発する前に、ルチアは彼女に尋ねた:「あなたは天国では何をするつもり?」

「私はイエズスをとても愛するつもりよ、そしてマリアの汚れなき御心もよ。あなたのため、罪人たちのため、教皇様のため、両親と兄弟姉妹のため、そして祈って欲しいと私に頼んだすべての人々のためにたくさん祈るつもりよ...」

 教皇がいつも含まれている

 ルチアは、彼女自身のことに言及するときには常に控え目であるけれども、彼女がいとこの意向を分け持っていたということをわれわれに示している。ヤシンタが、彼女に質問しに来た、そして彼らと共に祈るように彼女に願いに来た訪問者たちや巡礼者たちによて圧倒されたとき:「私は心の奥底から私のいつもの祈りを繰り返しました:おお、わが神よ、これはあなたの愛のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、罪人たちの回心のため、そして教皇様のためです。」

同じように、彼女の父の死での彼女の悲しみの大きさの中で:

「わが神!わが神!」私は私の部屋の隠遁の中で叫びました。「私は、私のために用意してあなたがそのようにたくさん苦しんでくださったと考えたことはありませんでした!しかし私はあなたの愛のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のため、そして罪人たちの回心のために、苦しみます。」

ルチアは次のように書くところまで進みさえする:「...私たちが神に捧げた、教皇のための嘆願を含まない祈りあるいは犠牲はありませんでした。

そのような年若い子どもたちにとって非常に驚くべきものであるこの没頭は、もし第三の秘密が明白に -- そして想像力を打つ細部を伴って -- 諸教皇の可能的な諸欠陥や後に(これらの失敗のゆえに)彼らが経験しなければならないであろう迫害に言及しているならば、完全に理解し得るものである。さらに、われわれは諸教皇がリアンホ(Rianxo*)で1931年8月にシスター・ルチアに[為された]われらの主の劇的な預言において諸教皇が経験するであろうこれらの苦難についての明白な言及を見出すのである。

* Rianjo とも綴られる。

「私に仕える人々に、私の要求の実行を遅らせていることにおいてフランスの王の例に彼らが従っているからして、彼らはフランス王に従って不幸に陥るであろうということを知らせなさい。イエズスとマリアにより頼むことに遅すぎるということはないであろう。」

われらの主はどんな不幸のことを言っておられるのか?疑いなくその答を用意しているのは第三の秘密である。

 この意向のために犠牲を献げ、祈りなさい

 ...ファチマの聖母 

 教皇と司教たちはあなたの助けを必要としている

彼らは恩寵を必要としている -- それは神から来る強さであり、神による彼らの精神の照明である。そのときにのみ、彼らはファチマのメッセージを通じて神によって命令されたようにどのように一緒にロシアを適切に奉献するかを知るであろう。ただそのときにのみ彼らはこの命令に従うことができるであろう。

この恩寵は、十分な[数の]人々がファチマの聖母の求められていることを為す場合にのみ与えられるであろう。すなわち、あなたのような十分な[数の]人々が聖母の命令に従う場合にのみ、そうであろう。

教皇と司教たちを助けるために、われわれがしなければならないことは:

・ロザリオの祈りをすること。 -- ファチマの聖母は言われた:「世界における平和を手に入れるために毎日ロザリオの祈りをしなさい。信徒は毎日ロザリオの祈りをしなければなりません。」(このことに関するこれ以上の情報のためには小冊子『聖母の緊急の訴え』を読みなさい。この書物の出版社から入手可能)

・カルメル山のスカプラリオを身に着けること。-- 10月13日の幻視において、聖母は沈黙のうちにスカプラリオを差し出された。シスター・ルチアはファチマの聖母が「すべての人がスカプラリオを身に着けることを望んでおられます」と言った。シスター・ルチアはまた、「スカプラリオとロザリオは切り離すことができません」とも述べた。

・われわれの生活を改めること。-- 告解の秘蹟に行きなさい。ファチマの聖母はわれわれすべてにこう言われた:「私は信徒に彼らの生活を改め、彼らの罪のために赦しを願うように警告するために来ました。彼らはすでに深く背かれておられるわれらの主に背き続けてはなりません。」

・聖体礼拝と償いの聖体拝領によって、イエズスの聖心に償いをすること。-- ファチマの天使はファチマの三人の子どもたちのところへ来て、彼らに礼拝と償いの行為をすることを教えた。彼は彼らに、言葉と実例によって、いとも聖なる秘蹟[御聖体]のうちにましますイエズスの前でひれ伏し、次のように祈るように教えた:「おお、いとも聖なる三位一体、御父、御子そして聖霊よ、私はあなたを深く礼拝します。私は主がそれによって背かれておられるすべての侮辱、冒涜、無関心を償うために、世界のすべての聖櫃のうちに現存しておられるわれらの主イエズス・キリストのいとも尊い御体、御血、霊魂と神性とをあなたに捧げます。主のいと聖なる御心の無限の功績によって、そしてマリアの汚れなき御心の取りなしを通じて、私は哀れな罪人たちの回心をあなたに乞い願います。」

天使はそれから彼らに償いの行為として聖体を受けることによって彼らの神をお慰めするように彼らに教えた。「恩知らずの人々によって恐ろしく侮辱されたイエズス・キリストの御体を受け御血を飲みなさい。彼らの罪のために償いをし、あなたの神をお慰めしなさい。」

・マリアの汚れなき御心に償いをすること。-- 特に償いの初土曜日の聖体拝領によって。イエズスは1925年12月10日にファチマの聖母と共に戻って来られた。彼は聖母の御心を指さしながら、雲の上に立つ幼子キリストとして御出現になった。彼はこう言われた:「あなたのいとも聖なる御母の御心に憐れみを持ちなさい。それは恩知らずの人々が毎瞬間にそれでもって突き刺す棘で覆われています。そして償いの行為でそれらを取り除く者が誰もいません。」聖母はそれからルチアの肩に手を置いてこう言われた:「わが子よ、恩知らずの人々が毎瞬間に彼らの冒涜と忘恩とによってその中におく棘で取り巻かれている私の心をご覧なさい。あなたは少なくとも私を慰めようと努めています。引き続く5ヶ月の間初土曜日に告解に行き、聖体を拝領し、ロザリオを唱え、私に償いをする意向をもってロザリオの玄義について黙想しながら15分間を私と共にいるすべての人に、私は死の瞬間に助けることを約束すると私の名において告げ知らせなさい。」


世界の奴隷化か、それとも平和か(31)

2011年10月30日 | Weblog

第 XII 部(続き)

あなたは聖母を沈黙させる陰謀を打ち砕くことを助けなければならない

 Father Nicholas Gruner, S.T.L., S.T.D.(Cand.)

親愛なる聖母の友

イエズスとマリアはあなたと私を非常に愛しておられる。彼らは、人類の罪がわれわれをソビエト共産主義によって奴隷化される危険の中に置いているがゆえに深く気遣っておられる。

共産主義諸勢力はアフリカ、アジアそして中央アメリカにおいて戦争を行い、そして教会はこれらの場所で迫害されている。聖母はファチマでこのことについてわれわれに警告なさった。そして聖母はわれわれに脅威を与えるこれらの悪と戦い敗北させるために何が為されなければならないかをわれわれに教えられた。しかし不幸なことに、人類は聖母のメッセージに心を留めることを選ばなかった。

一方、民族が次々に、国が次々に罠にかけられ、征服され、そして人々は共産主義支配のくびきの下に強制的に奴隷化され、その結果現在では1,500,000,000人(15億人)の人々が倒れ、現在この残酷なマルクス主義的専制政治の下で支配されている。

すでに160,000,000人(1億6千万人)の人々が共産主義者たちによって殺された。そして現在数百万人の人々が強制収容所、精神病院、刑務所そして国内追放において残酷に迫害されている。

共産党支配が確立したあらゆる国で教会はその自由を奪われ、迫害されてきた。力によって、そしてひそかなやり方によって、この両方で共産党政権は「国民」教会あるいは「愛国」教会を確立することによって信徒を教会から分離することに努めてきた。これは、われわれがファチマ・クルーセイダーの第19号において、「教会を撲滅する秘密の赤色計画」において概略したように共産主義者たちが中国において従ったパターンであった。

同じ計画はロシアによってウクライナにおいて遂行されてきた。そこでは、共産主義者たちはウクライナのカトリック教徒たちにロシア正教会(それはロシア秘密警察の道具である)を押しつけた。このソビエトが強制した分裂は実際重大である。というのは、聖にして母なる教会から自らを分離した罪のために信徒と聖職者はもし彼らがこの罪を悔い改めずに死ぬならば、地獄へ行くだろうからである。彼らの霊魂に対するこのソビエト専制主義の脅迫に抵抗するために、10人の司教、1400人の司祭、800人の修道女、そして数万人の信徒が、神とカトリック教会に不忠実であるよりはむしろ残酷な殉教者の死を遂げた。

ニカラグアにおけるソビエトの傀儡政権はその国において同じ戦略を採用している。われわれは、オバンド・イ・ブラヴォ枢機卿によってニカラグアから、すべてのニカラグア司教たちから、ならびに教皇ヨハネ・パウロ二世からの報告のうちに、教会があの国の共産党政府による直接的で公然たる迫害の下にあるということを見ている。(1986年7月4日、そこの共産主義者たちは一人のカトリック司教を彼自身の家から強制的に連れ去り、彼自身の国から野蛮にも蹴り出した。)

1984年に、教皇ヨハネ・パウロ二世はリトゥアニア、アルバニアそしてロシアにおけるカトリック教徒の迫害を公然と非難された。そして1980年にはウクライナのカトリック司教たちは、ロシア人がウクライナにおけるカトリック教会の廃止を宣言した1946年のにせの「リュヴィヴの司教会議」を公然と非難した。その後モスクワのロシア正教会総主教ピメン(彼もまたK.G.B.秘密情報員である)は、ウクライナ・カトリック教会の迫害について世界に真の物語を告げることを許したということに対する直接的でない脅迫を含んでいる、1980年12月22日付けの書簡を教皇に送った。

教皇がモスクワ総主教からのこの警告を受け取って5ヶ月後にメメット・アリ・アグカ -- K.G.B.秘密情報員であり、高額で雇われた殺し屋 -- が教皇を殺すためにローマに送られた。彼は1981年5月13日に聖ペトロ広場において教皇ヨハネ・パウロ二世を撃った。実際、共産主義は、教皇ピオ十一世が宣言されたように、「本質的に正道を踏み外した」ものであり、-- それは黙示録の獣、「赤い龍」である。

このすべてのことにもかかわらず、ファチマの聖母のメッセージは心に留められないままに来ている。われらの母であるマリアは、われわれをそのように優しく、そのように強く愛しておられるがゆえに、共産主義の危険、諸々の悪と誤謬についてわれわれに警告するために急いで来られたのである。神はキリストの時代に人々に示されたよりも大きな憐れみをわれわれの世代に対して示すことさえなさった。神は、われらの主が地上を歩まれた時代にはそのようなしるしを働くことを拒否されたのに、われわれには1917年10月13日の大奇跡を、そして1938年10月13日に天における大いなるしるしをお与えになった。にもかかわらず、人々は聖母が天から持って来られたメッセージに従わないのである。

人々が従わないのは、そして時には無神論的共産主義を悪であるのに悪と認めないのはなぜなのか?共産主義は前進し続けている。それはますます多くの人々を奴隷化し続けている。世界の専門家たち、ビジネスマン、政治家、外交官、政治家そして教会人たちさえが、あちらこちらでそれを和らげ、それを抑え、あるいは少なくともそれを宥和しようと努めている。他の人々は、共産主義は事実であると証明された圧倒的な量の証拠が疑いもなくそうであると証明しているようには実際には悪くないと自らを信じさせようと努めている。われわれもまたそれが真ではないことを望んでいる。しかし不幸なことにわれわれ皆にとって、それは皆余りにも真実なのである。

共産主義者たちのプロパガンダ戦争は最も効果的であった。人々は脅威を受けているとは感じない。なぜなら、彼らは共産主義者たちによって極めて残酷に犯されている抑圧を直接に経験していないからである。あらゆる種類の策略と欺瞞が自由世界の人々を盲目にするために用いられており、その結果彼らは共産主義を、事実そうである、正道を踏み外した地獄のような悪として認識していない。ファチマの聖母は実際、もしわれわれが聖母に心を留めなかったならば、そのとき「ロシアは戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しむでしょう。さまざまの民族は絶滅させられるでしょう」と言われた。

一方で、鉄のカーテン諸国において共産主義の奴隷化に現実に抵抗している人々は虐殺され、打たれ、葬られているのに、残りの世界は怠惰に傍観している。なぜならわれわれの大部分はあそこで実際何が起こっているかをを知らないからであり、また世界も、聖母が効果的であることを約束なさった、天から与えられた単純な解決を知らないからである。実際、聖母はわれわれに、神御自身から来るものとして聖母が明らかになさった解決以外の他のいかなる解決も働かないでしょうと、保証しておられるのである。

メッセージはなぜ心に留められないままに来たのか?人々が従わないのはなぜか?司教たちが従わないのはなぜか?明らかに、神が聖母を通じて、われわれに不可能なことをするように求められたということはあり得ない。われわれに与えられた命令は、神の恵みの助けによって、比較的容易にわれわれが遂行することができないほど困難なものではない。教皇と司教たちに与えられた神の命令は確かに不可能ではない:もし司教たちが1962年から1965年まで第二バチカン公会議のために毎年ある時期に3ヶ月間集まることができたならば、彼らは確実にある指定された一日に集まり、そしてマリアの汚れなき御心にロシアを奉献することによって神の命令を果たすことができた。

それでは、人々が従わずに、もしわれわれがファチマで神の御母によってわれわれに与えられた警告と命令を無視し続けるならば起こるであろう悲惨な諸結果について、彼らが見たところ気がつかず、関心を持っていないままに進んでいるのはなぜか?人々と司教たちがむしろ彼らの霊魂を危険にさらし、神に従わず、共産主義ロシアに奴隷化されるほどに、愚かである、あるいは強情であるということがあり得るのか?司教たちは今や57年間従ってこなかった。そしてファチマの聖母の命令は70年間にわたって余りにも多くの人々によって心に留められないままであった。われわれは、この不従順がまったくの強情あるいは故意の愚かさによったものであり得ると信じることは困難であると思う。

なぜ天の命令が心に留められないままに来たのかその理由は、上述したように、共産主義者たちが真理を抑圧する彼らの正道から踏み外したキャンペーンにおいて非常に効果的であったということである。共産党の殺し屋たちが厖大な数の殉教した犠牲者たちを殺戮した、カトリック教会に対する最も残虐な迫害によって、クレムリンは共産主義の悪に関して沈黙を守るようバチカンから一つの協定をゆすり取った。この「沈黙」は1962年から1984年まで続いた。バチカンの「沈黙」のためのこの血から引き出された協定は世界中に彼らの嘘を組織的に広めることを共産主義者たちに許したただ一つの最も重要な要因であった。その協定は1962年9月/10月に締結された。そしてバチカン・モスクワ協定として知られた。それは当時の共産党およびカトリックの新聞において報道された。また、この協定に言及している多くの書物が引き続いて出版された。

バチカンはこの協定によって共産主義ワルシャワ条約諸国におけるカトリック教徒の迫害が減るであろうと希望していた。クレムリンは、教会と教皇は、鉄のカーテンの背後のカトリック信者の権利を擁護することから一方的に思いとどまったと主張した。そのような協定は拒否されなければならない。というのは、教皇と司教たちは信仰と信徒を -- とりわけ、至る所で神の権利を -- 擁護する聖なる義務を持っているからである。

教皇ヨハネ・パウロ二世は「バチカン・モスクワ協定」から離れ始められた。共産主義者たちは彼らの空約束を果たさず、共産主義諸国における教会を支配し、カトリック教徒を迫害し続けている。教皇ヨハネ・パウロ二世は1986年5月18日の回勅において共産主義を悪として -- 聖霊に反するものとして -- 公然と非難された。教皇が回勅において共産主義を非難されたのは24年間のうちでこれは最初である。

教皇ヨハネ・パウロ二世はすでに、1984年初期には、バチカン・モスクワ協定から離れ始められたけれども、彼の下でのバチカン官僚制のある部分は、あたかも教会があの裏切りの協定の諸条項に縛られているかのように行動している。この協定が効力を持っていた時間の長さのゆえに、教皇の手は今なおある程度縛られており、そして彼は皆いっしょに協定から離れることができない。この時期に彼のためにわれわれの祈りを倍加しよう。

実際、一つのプロパガンダ戦争が戦われている場所がある。その戦闘は荒れ狂っており、その戦場はマス・メディアである。聖母が世界に平和をもたらし、われわれの霊魂を救うために何が為されなければならないかをわれわれに告げるためにファチマに来られたのはすでに70年前である。ファチマ・メッセージは、ファチマの聖母(そしてあなたの霊魂!)の敵である共産主義者たち、悪魔の人間的代理者を通じてサタンによって「言論を抑圧され、縛られて」きた。

神の愛と智慧に満ちたこの単純で深遠なメッセージは、もし従われるならば、世界に平和をもたらし、われわれの霊魂に救いをもたらすであろう。しかし、悲しいかな、-- それは十分に知られてこなかったがゆえに従われてこなかった。(盲人を導く)盲目の人々 -- 大きな責任を持つ立場にいるある人々さえ -- これまでそれを隠し続けることに成功してきた。それは十分に、完全にそしてそのすべての天上的な力において知られずにきた。ファチマの聖母は沈黙させられてきたのである。

以下の諸点のいくつかを思い起こそう:

1.シスター・ルチアは沈黙させられてきた。

2.ファチマの公式文書保管人によって書かれた14巻「の書物]は公表を禁止されてきた。

3.1960年に世界に明らかにされるべきであった第三の秘密は「公式に」抑圧され、「葬られて」きた。

4.偽って公式の地位を主張しているある影響力を持ったファチマ使徒職の雑誌はファチマの知られた、公表されたそして文書として残された真実に関して歪曲と偽りを広め続けている。

他の「カトリック」諸新聞は上述の出版物の正道を踏み外した例に従うか、ファチマ・メッセージを完全に無視するかのいずれかである。ファチマの聖母のメッセージは一般公衆と教会全般から意図的、成功裡に隠され続けてきた。聖職者と信徒の多くはファチマの聖母によって与えられた完全なメッセージ:すなわち、教皇はすべての司教たちと一緒に、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献しなければならない、そしてこの手段によって平和が世界に与えられるということ、を知らない。

グレイバー司教が言及したファチマに関する沈黙の陰謀は破られなければならない。共産主義に反対する教会の立場は信徒の精神のうちに明瞭にされてこなかった。あなたたちは自分自身で識別しなければならない。あなたたちは、たとえある司祭、司教あるいは専門家がそうするようにあなたに告げるとしても、ファチマのメッセージを無視してはならない。聖ペトロがサンヘドリンに言ったように、「われわれは人間たちによりもむしろ神に従わなければならない。」

待っていてはならない。ファチマのメッセージを屋根の上から叫ぶためにわれわれを助けてください。教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマのメッセージを「65年前よりももっと密接な関係があり、もっと緊急である」と呼んでおれれる。シスター・ルチアはフエンテス神父とのインタビューにおいて賢明にもこう言った:「神父様、私たちは教皇様の側でローマから来る償いをするようにという呼びかけを待つべきではありません。また私たちはは司教区において私たちの司教様方から来る、あるいは修道会から来る、償いへの呼びかけを待つべきでもありません。そうではありません!われらの主はすでに非常にしばしばこれらの手段をお用いになりました。そして世界は注意を払いませんでした。だからこそ、今私たち一人ひとりが霊的に自らを改革し始める必要があるのです。各人は単に自分自身の霊魂ばかりではなくて、また神が私たちの道に置かれた霊魂たちをも救わなければなりません。」

ファチマの聖母のメッセージを知らないでいる世界の諸結果は非常に大きい。ファチマの聖母は、もし彼女の要求が心に留められないならば、「ロシアはその諸々の誤謬を世界中に広め」そして「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう」と言われた。もし人々が聖母と聖母のメッセージを無視し続けるならば、これらのことが起こることは確実である。シスター・ルチアは、ロシアが、世界中にこれらの誤謬を広めることにおいて、アメリカ合衆国とカナダを含む全世界を奴隷化することに成功するであろうと説明した。彼女はまた、「多くの民族は地の面から消え去るでしょう」とも説明した。われわれは、もし人々がファチマの聖母の要求を知っていたならば、そしてもし彼らが聖母の要求への従順が、聖母が起こるであろうと予告なさった重大な変動や不幸を避けるであろうということを知っていたならば、そのとき彼らは改革し悔い改めるであろうと確信している。

霊魂たちが救われ、平和と福祉が世界に与えられるように、聖母のメッセージをわれわれが知らせように助けてください。

ファチマの完全なメッセージはサタン、K.G.B.、そして聖母の他の敵どもによって沈黙させられてきた。彼らは世界中に、教会の内部と外部の両方で、ほとんど世界的にこの沈黙を課すことに成功してきた。人々は実際真理に飢えており、この希望 -- 悪しき残酷な共産主義者たちの手による戦争、絶滅そして奴隷化を避けることについて世界が持っている唯一の希望 --- のメッセージを探し求めている。

 

あなたがすることができること 

 ファチマ十字軍の意向の一つは、教皇と世界のカトリック司教たちが、すぐに、ある特別の日にマリアの汚れなき御心にロシアを奉献することができるように、彼らのために祈ることである。ファチマのシスター・ルチアによれば、このことがこのやり方で為されるとき、ロシアはカトリック信仰へと回心し、平和が来るであろう。

ポーランドの司教たちは教皇に、マリアの汚れなき御心への共同的奉献の行為をなさるように三度の別々の機会に請願してきた。1981年11月にはアメリカの司教たちもまたこの共同的奉献を為されるよう教皇に願うことを決めた。カナダと世界の他の地域のある司教たちもまた聖母に敬意を表してこの尊敬の行為を為されるよう教皇ヨハネ・パウロ二世に請願した。教皇ヨハネ・パウロ二世は、枢機卿であったときに、彼自身、教皇に請願する際に、ポーランドの司教たちに加わられた。しかし、この書物における他の諸論考から見ることができるように、なおいくつかの困難があり、もっと多くの祈りが必要とされている。

神はマリアの汚れなき御心への信心を世界に確立し広めたいと望んでおられる。神は、ロシアの回心 -- その戦闘的無神論的支配者たちの指導権から離れる回心、そしてイエズス・キリストの唯一の真の教会におけるカトリック信仰とその成員たることへの回心 -- の機会となるように、この共同的奉献の行為を通じて、御自分の教会によるこの公的な尊敬の行為を望んでおられる。この回心と平和は、人間の努力を通じてではなく、むしろ人間の歴史における神の働きを通じて、人類に来るものとして世界中に見られるであろう。それがわれわれの功績によってではなく、むしろわれらの祝せられた御母の功績と祈りを通じてであるということもまた見られるであろう。このようにわれわれは、われらの天上の御母の汚れなき御心に対してこれまで以上に感謝し愛を捧げるであろう。このようにして聖母の御心への信心はさらに広まり、もっと堅固に確立されるであろう。聖母に対する信心のこの広まりは逆により多くの霊魂の救いの原因となるであろう。なぜなら、聖アルフォンソは、マリアに真に従う人にとって、彼がいとも聖なるマリアを尊敬し、自らを委ねることにおいて忠実であるならば、永遠に滅びることはあり得ないと言っているからである。より多くの霊魂の救いは神により大きな栄光を帰することである。

聖アウグスティヌスは、聖人たちへの信心に関して、神は人間たちにある特別な計らいを与えることを望み給うが、しかし人間たちはこれらの特別の計らいのあるものに値しないと言うことによって、コメントしている。それゆえ、神は聖人たちの功績を通じてのみこれらの特別の計らいを与えようとなさるのである。われわれの場合には、人類は平和の賜物に値しない。しかし神はマリアの汚れなき御心の功績を通じて人類にこの賜物を与えようとしておられる。われわれは、ロシアの回心と世界における平和のために、われわれのために神に祈ってくださるよう聖母に願わなければならない。

神はそのとき世界に、ファチマのメッセージを通じて神がお求めになった形式においてロシアが奉献されるとき、世界に平和を与えることによって、御自分が実際人間の歴史の主人であるということをお示しになるであろう。神はまたこの平和はマリアの祈りと功績の結果として与えられるという公的な認知を地上の人間たちに与えようとされるであろう。神は、同時に、御自分がお認めになる一なる真の教会は教皇と教皇に一致している司教たちの下にあるカトリック教会であるという一つの新しいしるしをすべての人々に再びお与えになるであろう。それは、平和が世界に与えられるのは教皇と司教たちのこの奉献の行為を通じてであろうのと同じである。

さもなければ、全世界が第三次世界大戦、さまざまの民族の核による破壊そしてロシアの戦闘的無神論への奴隷化を蒙る前に、奉献のこの共同的行為がすぐに為されるようにわれわれの祈りを倍加しよう。ファチマのこのメッセージが知られ、そしてすべての人々によって実践されることを見ることができるようにわれわれにできるすべてのことをしよう。われわれの司教たちに尊敬をこめてマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献において教皇に加わるよう願おう。司教たちに対するわれわれの請願に署名するよう、われわれの友人、隣人、親戚に願おう。われわれのテープ、リーフレット、小冊子、書籍そして雑誌を回そう。祈りと犠牲、司教たちに請願すること、請願を広めること、聖母に対する誓約、初土曜日の信心、ブロック・ロザリオそしてファチマ十字軍の祈りの徹夜を組織することなどはすべて重要である。

 

 


世界の奴隷化か、それとも平和か(30)

2011年10月29日 | Weblog

第 XII 部

バチカン・モスクワ協定がファチマの聖母のメッセージに及ぼした不幸な諸結果

われわれは皆ファチマの聖母に従う義務がある。そしてわれわれ一人ひとりは、われわれの能力、才能そして手段に応じて、この問題において神の摂理がわれわれに指定した役割を引き受けなければならない。この第XII部は聖母と共に働くことを望み、聖母が要求なさったすべてのことの実現を達成するために働くすべての人を助けるための援助となるであろう。 

われわれの敵どもに対する聖母の愛すべき計画 

戦闘的無神論者たち(東の共産主義者たちと西のフリーメーソンたち)の知的誤謬の基礎全体は、諸々の個人、家庭、集団、都市、国家そして全世界さえが、万物の創造主が含まれることなしに、平和、繁栄そして幸福のうちに機能することができるという理論である。これらの敵は恩寵、啓示、教会、そして秘蹟は必要ではないと誤って主張する。彼らはこれらの異端的かつ背教的な理論に従ってわれわれの生を生きるために、彼ら自身を組織し、われわれ一人ひとりを含む全世界を組織しようと努める。彼らがそうできるところでは、彼らは転覆によって、そして公然たる軍事力によって彼らのマルキシズムと世俗主義を押しつける。彼らはわれわれの生活をそのすべての種々の局面(われわれの生活の私的、家庭的、教育的、市民的、政治的、そして経済的な局面)において支配しようとする。彼らはわれわれを神の助けから切り離そうと努力する。彼らは、それなしには男も女もあるいは子どもも皆神の掟を守ることができないこの恵みをわれわれに与えるためにその尊い御血のすべてを流して亡くなられたイエズス・キリストの恵みなしに、われわれが存在するように、教会と秘蹟からわれわれを切り離すために戦う。

神の恵みは、われわれの共同救済者たるマリアの助けと共にわれわれの救世主キリストによってわれわれのために勝ち取られたということを思い起こそう。恵みは天において統治しておられるキリストからすべての恵みの仲介者にして与え手である聖母を通じてわれわれに与えられた。そしてそれはローマ・カトリック教会を通じて、救いのための必要な手段である七つの秘蹟を通じて、われわれに与えられている。「あなたが人の子の肉を食べないかぎりあなたは永遠の生命に入らないであろう -- 私なしにはあなたは何もすることはできない。」神の恵みなしにはわれわれはわれわれ自身と、われわれの家庭、われわれの隣人たちと平和のうちに暮らすことはできない。神の恵みなしには、われわれの市民社会および国家の基礎は堀り崩される。神の恵みなしには、人類全体そして社会全体はこの世においては暴力、死そして無政府の中に沈められ、この世の生が終わった後に地獄における永遠の死のうちに沈められるであろう。

このように社会主義者と共産主義者は、社会は社会主義的な制度によって救われるであろうと約束する -- しかしこれは実践において見られ得るように、偽りである。聖パウロ自身聖書の中で、もし救いが律法あるいは他の何かあるものを通じて来るならば、そのときキリストは無益に死なれたことになると指摘している。換言すれば、もしもし諸々の個人あるいは社会が何かある日常的なものによて救われ得るならば、そのとき、キリストにとって御自分の生命をわれわれのために十字架上で捧げられることは無益であったということになる。しかし、永遠の智慧であられるキリストは無益なことを何も為されなかった。

われわれは戦闘的無神論者たち -- 共産主義者たち、フリーメーソンたち、そして世俗主義者たち -- の諸々の誤謬を拒否しなければならない。

個人の霊魂の救いは十字架の上でのキリストの死によってわれわれのために勝ち取られた神の恵みを通じてのみわれわれに来る。あらゆる男、女そして子どもがその日々の義務を果たすことができるのはただ恵みを通じてのみである。人類が神が意図なさったように平和のうちに生きることができるのは神に指定された彼らの義務を果たす社会の非常に多くのメンバーの実行によってのみである。それゆえに、社会が飢餓、戦争、抑圧そして不正からの自由を達成するのはただ神の恵みを通じてのみである。

それゆえ、戦闘的無神論者は恵みの手段を攻撃することによって、あなたの霊魂の敵である。彼はまたあなたの地上的な平和、幸福および自由の敵でもある。われわれは彼の回心のために祈るに十分なほど彼を愛さなければならない。善によって悪を克服しなさい。愛によって憎しみを克服しなさい。今日あなたを迫害するすべての人々のために祈りなさい。ファチマのメッセージに心を留めなさい -- 「罪人たちのために祈り、彼らのために犠牲を捧げなさい。なぜなら、多くの霊魂は、彼らのために祈ってくれる人を誰も持たないために地獄に行くからです。」

 

聖母は何を望んでおられるか?   

Q.:ファチマの聖母は信徒すべてから何を要求なさったのですか?

A.:聖母の二つの非常に重要な要求があります。それらは例外なしにすべての信徒に向けられています。これらの要求はこうです:「人々は彼らの生活を改め、彼らの罪のために赦しを願わなければなりません。彼らはこれ以上われらの主に背いてはなりません。なぜなら、主はすでにあまりにも多く背かれておられるからです。」聖母はまた皆に毎日ロザリオを唱えるように要求しておられます。聖母が子どもたちに言われたまさに第一の事柄の一つは「世界に平和を、そして戦争の終結をもたらすために毎日ロザリオを唱えなさい」ということでした。聖母はこの要求を御出現の度ごとに繰り返されました。

聖母はまた皆に茶色のスカプラリオ -- カルメル山の聖母のスカプラリオ -- を身に着けるように求めておられます。シスター・ルチアは「ロザリオとスカプラリオは離すことができません」と言っています。

聖母は償いを求められました。その意味は私たちの日々の義務によって要求される犠牲ということです。

最後に、聖母は初土曜日の信心を求められました。

Q.:シスター・ルチアは聖母の要求を要約した短い定式を書いたことがありますか?

A.:ええ、書きました。「個々のカトリック教徒は、世界に平和が与えられ、共産主義が追い返され、そして諸民族の絶滅が避けられるために何を為すべきですか?」という問いに答えるために、シスター・ルチアは以下のような平和の誓いの定式を与えました:

ファチマでロシアを回心させ、人類に平和をもたらすと約束なさった愛する元后にして御母よ、私の罪と全世界の罪に対するあなたの汚れなき御心への償いとして、私は荘厳に以下のことを約束します:

1)毎日私の日々の義務によって要求された犠牲を献げること:2)ロザリオの一部(5連)を毎日唱え、その間に諸々の玄義を黙想すること;3)この約束の宣誓としてそしてあなたへの奉献の行為としてカルメル山のスカプラリオを身に着けること。私はこの約束をしばしば、特に誘惑の時に、更新します。

これは国際ファチマ・ロザリオ十字軍および他の諸々のファチマ使徒職の誓いです。

Q.:ファチマの聖母は何か他のことをお求めになっていますか?

A.:ええ、聖母は教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、同じ日に荘厳、公的なやり方で聖母の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになりました。

Q.:神は教皇と司教たちがこの奉献の行為をすることなしにロシアを回心させる意志を持っておられるでしょうか?

A.:いいえ。

Q.:なぜ神は教皇と司教たちが奉献のこの行為をすることなしにロシアを回心させようとなさらないのですか?

A.:われらの主御自身がシスター・ルチアのためにこの質問にお答になりました。「なぜなら、私は私の全教会がその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認め、その結果その信心を後になって広め、マリアの汚れなき御心への信心を私の聖心への信心の側に置くようになることを望んでいるからだ。」

Q.:しかし、それでは祈りと償いはなぜロシアの回心のためにそのように重要なのですか?

A.:いくつかの理由でそうです!まず第一に、祈りは常に、われわれが神の恩恵のあるものを受ける前に神によって決められた条件です。教皇ベネディクト十五世は、1917年5月5日に、諸民族に真の平和を得る道を示してくださるよう聖母に悲痛な訴えをなさいました。聖母が、地上における彼女の子どもたちの最初の人であるキリストの代理者によるこの熱心な要求に答えるためにファチマに来られたと信じることは理に適っていないでしょうか?

第二に、ロシアの全般的な回心はロシアの奉献までは起こらないでしょうけれども、ロシアにおける個々の人々は祈りと犠牲を通じて回心することが出来ます。ロシアにおいて多くの人々が神に立ち帰っているという証拠があります。そしてわれわれはこのことのために大いに感謝することができます。しかし、われわれは、ソビエト政府がその悪魔的なマルクス・レーニン主義のイデオロギーを、あるいは世界支配のその計画を決して断念しなかったし、また教皇と司教たちがロシアを奉献するようにという命令に従うまではそれを断念しないであろうということを覚えておかなければなりません。

第三に、鉄のカーテンの背後の苦しんでいる、そして迫害を受けたカトリック教徒はわれわれの祈りによって助けられることができます。信仰の偉大な告白者そして擁護者であるミンゼンティ枢機卿、スリピイ枢機卿、ウィシンスキー枢機卿、そしてステピナック枢機卿 -- 彼らはファチマの使徒たちの祈り、数百万環のロザリオによって強められていないでしょうか?もしもっと多くの祈りが捧げられるならば、われわれは神が未来にこれらの人々のようにもっと多くの英雄たちをお挙げになるであろうと希望することは許されないでしょうか?

最後に、祈りと犠牲によって、われわれは奉献の偉大な日を早めることができます。各々のロザリオはロシアと世界の回心へと近づく一歩です。

Q.:ロシアが回心し、世界に平和がもたらされるのは忠実な人々の祈りと犠牲の手段によるのですか?

A.:1930年に教皇ピオ十一世は「ロシアの回心」のためにミサの後に祈りが捧げられるべきであると命じられました。このように、その時からその祈りが落とされた1964年まで、上に言及したファチマ平和の誓いの署名者たちによって毎日捧げられた数百万環のロザリオは言うまでもなく、文字通り数百億の天使祝詞がロシアの回心のために捧げられていました。神にはそのように喜ばしいこれらの熱心な嘆願はおそらく無駄にされることはなかったのです。そしてそれゆえに、いつかそれらの嘆願はわれわれが想像できるよりももっと大きな実りをもたらすでしょう。

にもかかわらず、実際にロシアを回心させるのは、ただロシアの奉献だけです。というのは、ただ「この手段によってのみ」ロシアを救うと神は約束なさったからです。この理由で、ロシアがわれわれの祈りと犠牲によって回心するであろうと言うことは不正確です。ロシアはわれわれの功績を通じて救われないでしょう。イエズスはシスター・ルチアにこう告げられました:「マリアの汚れなき御心はロシアを救うであろう。ロシアは彼女に委ねられた」と。

Q.:しかしそれでは、あなたは奉献にある種の「魔術的な」効力を帰しているのではありませんか?

A.:いいえ、そうではありません。例えば、司祭が子どもの額に水を注ぎ、洗礼の式文を唱えるとき、その子どもはその司祭の功績を通じてではなく、イエズス・キリストによって定められた条件を果たし、そしてキリストのペルソナにおいて行為している司祭の力によって罪から清められます。その効力は確実です。そのことは、われわれが洗礼にある種の「魔術的」あるいは「魔除け的」効果を帰しているということを意味するでしょうか?いいえ、そうではありません。プロテスタントの人々でさえそのことでわれわれを非難したことはありません。

ところで、われわれはロシアの奉献が一つの秘蹟であると示唆しているのではありません。にもかかわらず、イエズスとマリアによって要求されたようにロシアの実際の奉献が為されるとき、それは確実にその効力を持つでしょう。なぜなら神がそれを約束なさったからです。これまでに世界の奉献がありましたが、それらの奉献に神はそれらの奉献のためのそのような約束をなさいませんでした。上に挙げた例においてのように、たとえ司祭が水でよりもむしろ牛乳で洗礼を授けたとしても、神はその子どもを清めるとは約束されなかったのです。神によって定められた条件はまず満たされなければなりません。

Q.:上に指摘された平和の誓いを守る等しい数の人々がいるとき、ロシアは回心するであろうという何年も前になされたパードレ・ピオの預言についてはどうですか?

A.:パードレ・ピオがこの主題に関してある特別の啓示あるいは神からの照明を受けたということはあり得ます。あるいはおそらくそれは、ロシアの回心が十分な数の人々のファチマの聖母への聴従があるときに来るであろうということを言う彼のやり方だったのでしょう。

もし教皇ピオ十一世が共同的奉献をする決心をなさったならば、ロシアはすでに1929年に回心していたでしょう。教皇と司教たちが今年奉献をしさえすれば、ロシアは今年回心するでしょう。しかしながら、その奉献は人間たちによって遂行される単なる一つの行為であるだけではありません。それは神からの一つの恵みです。世界がこれまで以上に神に背き続けているときに、なぜ神は世界にそのような異例の恵みと憐れみをお与えになるでしょうか?これは、なぜ奉献がそのように長い間遅らせられてきたか、他にもいろいろありますが、その一つの理由です。

Q.:初土曜日[の信心]はロシアの回心とどのような関係を持っているのですか?

A.:この質問は聖母御自身によって最もよく答えられています:

「もし私の要求が聴かれるならば、多くの霊魂が救われ、また平和が来るでしょう...しかしもし人々が神に背くことを止めないならば、もう一つのもっと悪い戦争(第二次世界大戦)がピオ十一世の在位期間(1922-1939)に始まるでしょう。あなたが未知の光によって照らされた夜を見るとき、それは神が戦争、飢餓、教会と教皇の迫害によってその罪を罰しようとなさっているということを神があなたにお与えになるしるしであるということを知りなさい。」

「このことが起こらないうようにするために、私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。」

シスター・ルチアはこの要求を次のような仕方で説明している:

「善き神は、教皇様にすでに指示した償いの信心の実践を承認し、推奨するよう、この迫害の終結の援助と共に約束なさりながら、もし教皇様が、償いとイエズスとマリアのいとも聖なる御心へのロシアを奉献の荘厳、公的な行為をなさり、世界のカトリック司教たちに、同じようにするように命令なさるならば、ロシアの迫害を終わらせると約束なさっています。

Q.:奉献は直ぐになされるでしょうか?

A.:われわれはこの驚くべき恵みに値するために殉教者たちの十分な血がすでに流されてきたと思います。その時まで、祈り、特にロザリオとマリアの汚れなき御心への償い、5回の初土曜日は非常に大切です。もちろん、平和の誓いの実行もまた非常に重要です。われわれの祈りの他に、われわれは奉献をもたらすためにわれわれにできるすべてのことをしなければなりません。これは、公的な支持を与えること、奉献のための請願に署名し、広げること(この書物の p.609-610 を見てください)そしてこの奉献に関する情報を広めることが含まれます

奉献が為されるときのみ、われわれは安全にこう言うことができるでしょう:「この世の国はわが主とそのキリストとのものとなりたり」(黙示録 11:15)

 

あなたがすることが出来ること、またすべきこと:

マリアの汚れなき御心にロシアを奉献することを司教たちに命じるよう教皇に請願することの重要性と必要 

多くの霊魂の救い、世界の平和そしていくつかの民族のまさに生存は、文字通り、ある特別の日にマリアの汚れなき御心にロシアを荘厳、公的に奉献する教皇と司教たち次第である。これは、われわれがファチマ・クルーセイダーの第17号およびそれ以前の号において証明したようにファチマのメッセージである。

ロシアのこの共同的奉献を達成するために、教皇はすべての司教たちにこのことをするように命令しなければならない。教皇は、天からのこの命令を遂行することができる前に、われわれの道徳的支持とわれわれの祈りを必要としておられる。

いくつかの反対に対する回答:

反対 第1
ロシアの共同的奉献はヨハネ・パウロ二世によってすでに果たされた。

回答

最近ヨハネ・パウロ二世によって行われた世界の奉献の以前の行為に関してある人々の精神のうちには引き続いている混乱がある。この混乱は、シスター・ルチアがそれが為されたと言ったと述べているいくつかの事実に反するニュース報道によって産み出された。この書物においてわれわれが再現したカイヨン神父によって公表されたニュース報道は、シスター・ルチアがロシアの奉献はファチマの聖母の要求に従って為されなかったと断定的に、そして強調して述べているということを明らかに示している。われわれは、公衆が今なお、カイヨン神父による上述の明確にする論考の前に公表されたさまざまの論考によって混乱させられているがゆえに、この報道を完全な形で公表する。

われわれの読者は、ファチマ・クルーセイダー(第9-10号)においてわれわれが、シスター・ルチアはロシアの奉献が為されたと言った、と誤って述べた Soul Magazine の報告を公表したことを思い出されるであろう。われわれはまた、Soul Magazine の報告と相反する Approaches magazien からの報告をも公表した。われわれは、ファチマ・クルーセイダー(第11-12号)においてわれわれ自身の立場を述べた。ファチマ・クルーセイダーの第13-14号において、われわれは Soul Magazine の改訂された立場を載せた。その中で彼らは、実際ロシアの奉献は聖母の要求に従っては為されなかったという彼らの認定を公表した。なぜなら、彼らが説明したように、教皇がすべての司教たちのために、この荘厳、公的な行為において教皇に参加すべき日をなお選ばなければならなかったからである、と。われわれがなぜ Soul Magazine と矛盾しているように見えるのかとわれわれに問いつづけているわれわれの読者のある人々の利益のために、われわれはふたたびここに Soul Magazine の1983年5月/6月号の p. 7 から取られたこの報告の本質的なパラグラフを再現する。その論考は『ロシアの共同的奉献は完全であったか?』と題されていた。

達成されるべき一つの非常に重要な行為が今なお残っている。それは1982年5月13日には達成不可能であった。教皇にとってマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献のために、司教たちが世界中の彼ら自身の司教座聖堂において奉献のこの荘厳、公的な行為にいつ加わるか、その具体的な日を指定することがなお残っている。

Soul Magazine は1983年9月/10月号において再びこの立場を繰り返し述べた。

Soul Magazine は、これらの公表された報告からも見ることができるように、ファチマの聖母の要求に従ったロシアの奉献が為されなかったということで、ファチマ・クルーセイダーと(少なくとも1983年10月までは)一致していた。

次にわれわれは、シスター・ルチアが住んでいるコインブラにあるカルメル山の修道院の院長が、フォックス神父に、奉献は為されたと告げたと言っている新聞の特別寄稿者であるフォックス神父の報告を持っている。これらの報告はカルメル会士ジョゼフ・ド・サント・マリー神父によって書かれた論考においてより適切に論じられた。そしてわれわれはそれをファチマ・クルーセイダー第13-14号、p. 10 において公表した。ジョゼフ・ド・サント・マリー神父によるこの論考は修道院長のこれらの言葉がいかに事実に反するかを明らかに示している。

シスター・ルチアに対する政治的圧力

われわれは,1940年代の可哀想なシスター・ルチアが地方司教区の権威者たち(政治的考慮によって影響されていた)によって、教皇に実際に、聖母がロシアがすべての司教たちによってはっきりと奉献されるよう求められたと、告げないように説得されたということを思い起こさなければならない。シスター・ルチアは当時何をすべきか知らないジレンマに陥っていた。今、彼女の生涯のずっと後に、彼女は教皇に聖母が正確に求められたことをはっきり告げなければならないということを知っている。同じ政治的人間的考慮は今日もなお、聖職者のあるメンバーたちによって明らかに見られないようにその問題に影響しているように見える。一般公衆がこの緊急の問題について最終的に知らされたのは、第二バチカン公会議が1964 年11月21日にロシアを奉献する黄金の機会と恵みを失った後にのみ、そして教皇パウロ六世が1967年5月13日にファチマに行かれたが、しかしロシアを奉献することを除外された後にのみであった。バチカンが1964年と1967年にファチマの聖母の要求に従わない原因となったのは、国務省長官によって裁可された1962年ローマ・モスクワ協定であったと今は思われるであろう。それは、これらの政治的考慮が、教皇が世界中のある司教たちからの完全な協力を受けることを妨げるように働いているということであろう。

ファチマ・クルーセイダー第16号 p. 3 において報告したように、教皇ヨハネ・パウロ二世は1984年3月25日に10万人の巡礼者たちの前で公的に、ファチマの聖母は、今なお「ある人々」-- それはロシアを意味している -- の奉献を待っておられると述べられた。彼は、マリアの汚れなき御心に世界を奉献された後、このことを二度その同じ日に述べられた。明らかに、教皇ヨハネ・パウロ二世はロシアの共同的奉献を求めておられるファチマの聖母の要求がまだ果たされていないということを知っておられるのである。

反対 第2

カトリック司教たちに対する請願はロシアのこの奉献をもたらすように教皇を助けるためには重要ではない。

反対 第2への回答

すべての者にとって、彼らの生命、彼らの家族、彼らの自由そして諸民族のまさに生存がこの要求へのカトリック司教たちの従順次第であるということを理解することが重要である。それは、十分な[数の]人々が彼ら自身の生活の中で、ファチマの聖母がわれわれに対してされた要求を果たすとき、初めて起こるであろう。それにもかかわらず、教皇と司教たちが聖母の要求を果たすように尊敬を込めて請願を受けるということは非常に重要である。これらの請願の効力は、教皇ヨハネ・パウロ二世がすでに世界の奉献を三度なさったという事実によって証明されている。そしてその請願がこのことをするようにと世界中から彼に送られたという事実に関係したのである。われわれはさらに、請願の重要性を証明するそれ以上の理由をこの論考において与えている。

反対 第3

あるファチマ・ワーカーと彼らのグループがある匿名の人物(たち)によって教皇にロシアを奉献するよう求める請願をこれ以上集めないようにと告げられたと噂されてきた。われわれは不従順でありたくない。それゆえ、われわれは、許されていると告げられるまでこれ以上請願を集めない。

反対 第三への回答

この命令を与えたと考えられる匿名の人物はある司教である。

聖ピオ十世の例

不幸なことに、聖母のために、多くの霊魂の救いのために、そして多くの人々のこの世の福祉のために、さまざまのファチマ使徒職のあるメンバーたちはこの命令 -- それは明らかにそれを与えた者の権威を超えている -- に従わなければならないと考えているように思われる。この命令は、教会法と自然法によって要求される適切な形式を明白に欠いているがゆえに、良心を縛るものではない。われわれ自身の永遠の救いは、『ロシアの教会迫害はあなたの永遠の救いを危険に陥れている』という論考からも見られ得るように、危険に曝されている。そのような命令は良心を縛るものではない。なぜなら、教会法が規定しているように、ある宗教的上長による命令は次のような仕方で臣下によって異議を唱えられ得るからである:上長はある命令を与えるとき、書面の命令に喜んで署名しなければならない。あるいはそうでないときはその命令を二人の証人の前で与えなければならない。もし彼が、書面の命令に彼の名前を署名するか、あるいは彼がその命令を与えるという事実を証言する二人の人物を持つか、そのいずれかによって、その命令の責任を喜んで取ろうとしないならば -- その命令は良心を縛らないのである。教会法の条項のこの規定は、上長は彼が与える各々の命令の責任を喜んで取らなければならないということをわれわれに告げる自然法の反映である。もし彼が責任を取ろうとしないならば、そのときその命令は義務づけないのである。

このように、われわれは、聖ピオ十世が、教区司祭であったとき、あるとき彼の司教によって部屋に呼ばれ、ある主題に関して説教しないように告げられたということを見る。彼は、いいでしょう、もし閣下が私にこの命令を書面で下さるならば、喜んで従いますと言った。彼の司教は拒否した。そして聖ピオ十世は、いいでしょう、私はそうしてきたように説教し続けますと言った。そしてそうした。

簡単に言えば、ここでの要点はある匿名の高位聖職者は他の人々を何かあることをするよう義務づけることはできないということである。もしある者が実際にあるファチマ使徒職に請願を集めることを止めるよう告げるならば、彼は誰であるのか?彼は何という名前なのか?

教皇でさえそのような命令を与えることはできないであろう

ある司教、大司教あるいは枢機卿が前面に出て来て、そのような命令に対する責任を取ろうとする出来事においてさえ、それはなお良心を義務づけないであろう。なぜなら、この特定の事例において彼は彼の管轄権の外にいるであろうからである。つまり、彼はある人物あるいはグループに教皇に請願するなという命令を与える権威を持っていないのである。われわれはどのように、枢機卿でさえ、あるいは教皇御自身でさえ、合法的にそのような命令を与えることができないということを知るのか?それは単純に、あらゆるカトリック者は、平信徒でさえも、教皇に直接訴える権利を持っているということが第一バチカン公会議によって荘厳に教えられているからである。公会議を直接引用すれば:「そして使徒的最高権という神的権利によって、ローマ教皇は全教会の頭にいるがゆえに、われわれはまた、彼が信徒の至高の裁判官であり、そして人は教会の司法権に属するあらゆる事例における彼の判断に頼ることができるということを教えかつ宣言する。」
...第一バチカン公会議

「不当に苦しめられている人は誰でも教会裁判所に属する事柄において、それ(全カトリック教会に対する最高権と管轄権を持っている聖なるローマ教会)に訴えることが許される。また、教会の調査を必要とするあらゆる事例において人はその判断に頼ることを許される。」
...第二リヨン公会議

神によって与えられた、教皇に請願する信徒の権利

このように、信徒は教会管轄権に属する事柄において教皇に訴え、請願する、全能の神御自身によって直接彼らに与えられた一つの権利を持っているのである。非常に多くの霊魂の永遠の救い(並びに世界平和、さまざまの民族の現実的な生存そして全世界の政治的、経済的自由)がマリアの汚れなき御心にロシアを奉献をするというこの神から与えられた命令を文字通り果たす教皇と司教たちにかかっているからして、それゆえに、この問題は確かに教会の管轄権に属する。そのことは、第一バチカン公会議が、われわれカトリック教徒の一人ひとりはこの問題において教皇の判断に頼ることができると荘厳に教えていることから帰結する。それゆえに、誰も、枢機卿でさえ、あるいは教皇でさえ、教皇に頼るこの権利をわれわれから奪うことはできない。さらに、主権国家でさえ、あるいはバチカンと一主権国家(すなわち、ロシア)との間の協定でさえ、霊魂たちの救いがそれにかかっている問題において教皇に訴える神によって与えられたこの権利を奪うことはできない。明らかにそのときわれわれはファチマの聖母の命令に従ってロシアを奉献するように教皇に訴えることができるし、またそうしなければならない。

教皇に請願するそれ以上の理由

明らかにこれらの請願は、すべての司教たちによるロシアの奉献を求めて教皇に宛てられたシスター・ルチア自身の署名入りの請願と同様に重要である。400万人以上の人々がこのようにしてこれまでに、上に挙げた高位聖職者が請願を集めることを止めるように命令を下す前に請願に署名した。請願は誰かある者がそのような不当な命令をくだそうと敢えてするというような理由がなければその効果を発揮したに違いない。

ファチマの聖母が求められたようにロシアを奉献することを明らかに望まれた教皇ヨハネ・パウロ二世は -- もし彼が人々の草の根の支持があったということを知っておられたならばそれをすぐにでも為されるであろう。彼の司教たちにまだそれを要求なさらないのは公然たる分裂を恐れておられるからである。

1380年から1415年に至る西欧の大分裂の歴史は教皇たちに、司教たちと枢機卿たちに命令する時には広範な人々の支持を得ることの重要性を教えている。この支持を得ることは、今日教会の諸階級内部の近代主義の広範囲の異端を考慮すれば今日より重要である。教皇に送られた何百万という多くの請願を持つことは彼にわれわれの支持を再確認させ、その結果彼はロシアを奉献するように司教たちに命令するに十分な信頼を感じるであろう。

教皇はわれわれの道徳的支持を必要としておられる。今日、これまで以上にロシアを奉献するこの問題において、20年以上もの間共産党支配の国々に対するバチカン外交政策がファチマの聖母が要求されたようにロシアを奉献することから教皇を止めてきたがゆえに、そうである。今や、教皇ヨハネ・パウロ二世は、1984年にモスクワ政府を攻撃されたという事実からも見ることができるように、この外交政策を変え始められた。これは1962年の教皇ヨハネ二十三世のローマ・モスクワ協定とは反対である。そしてそれゆえに、教皇はバチカンの外交政策を変えようとしておられるのである。彼はそれを一度に全部することはできない。なぜなら、初期のロシアに対するバチカンの政策をもたらした影響力のあるバチカン高官たちのある人々が教会内部で今なお大きな権力を持っているからである。教皇はバチカン政策における彼の変化に対する彼らの抵抗を克服するためにわれわれの支持を必要としておられる。

どの官僚制や人間の制度においても彼らの野心におけるある人々の昇進が彼らがそのために働く集団あるいは制度によって採用される彼らの政策あるいは行動計画の受け入れに依存しているように、教会においても、ただ人間的である制度におけるのと同じように、ある人々の個人的野心がときどき彼ら自身にも隠され、そのようにして彼らの判断を曇らせ、彼らがもともとそのために決定し、働いてきた政策がもはや正当化され得ないということを見ることができない。このようにして、バチカン・モスクワ協定を続けることに今なお賛成している人々がバチカンの中にも、さまざまの司教会議(例えば、フランス)の中にもいるであろう。

これらの司教たちはロシアの共同的奉献は起こらないであろうということを見て一生懸命働いている。これらの人々は1981年5月13日の暗殺未遂をまだ真面目に反省したことがない。その事件はK.G.B.によってたくらまれたものであり、また教会が共産主義政権に、カトリック教会に対するその戦争を止めさせることを期待することができいないということをもう一度証明するものである。

とりわけ、教皇は悪魔のあらゆる罠を克服するために神の恵みを必要としておられる。-- 悪魔は教皇の道に多くの障害物を置き続けている。われわれは、われわれの祈りと犠牲、そしてファチマにおける聖母の要求の実現によって教皇を助けなければならない。このようにわれらの主御自身はシスター・ルチアにこう言われたのである:「教皇のために祈りなさい、たくさん祈りなさい。彼はそれ(すべてのカトリック司教たちと一緒のロシアの荘厳、公的な奉献)をするだろう、しかしそれは遅いであろう」と


世界の奴隷化か、それとも平和か(29)

2011年10月28日 | Weblog

第 XI 部

われわれの司教たちに対する弁明と請願 

司教たちに宛てたこの公開書簡において、ロシアの奉献を求めておられる聖母の要求の実現を得ようとする理由と動機が述べられている。第二バチカン公会議の間に、世界中から来たおよそ500人の司教がこの問題において聖母の要求に従うように教皇パウロ六世に請願をした。しかしながら、1962年に締結されたバチカン・モスクワ協定に固着して、彼は司教たちの要求を心に留めないことを選んだ。

われわれの司教たちに宛てた公開書簡:

弁明、説明および請願

ファチマ・クルーセイダーのさまざまの号においてなされたいくつかの声明はファチマ・クルーセイダーが「反司祭」そして「反司教」であるという非難へと導いた。われわれは決してこの種の心証を望んでいなかった。われわれの唯一の目標は最高度の緊急性をもって、ロシアの奉献に関する神の命令を知らせ、促進することであった。ただ教皇と司教たちだけがこの命令を果たすことができる。だからこそ、われわれはこの尊敬に満ちた、しかし緊急の訴えを司教たちに宛てて提出するのである。

司教閣下各位

1917年7月13日に、われらの祝せられた御母マリアはロシアの奉献を求めるために戻って来るでしょうと約束なさいました。聖母はこの要求の実現を通して、世界に平和をもたらし、戦争、飢餓、教会の迫害そして教皇の迫害の罰を止めますと仰いました。これらの罰はその罪のゆえに人類に相応しいものです。

1929年6月13日に、聖母は戻って来られました。そのとき、聖母はいと聖なる三位一体の現前と御名において、あなたたち、われらの司教たちに、教皇と一緒に、特定の一日に、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するようにお命じになりました。

ファチマのメッセージ全体は1930年に聖にして母なる教会によって承認され、そして神御自身が7万人以上の人々によって目撃された1917年10月13日の太陽の奇跡によってそれを本物であると証明なさいました。神は再び、数百万人という多くの人々によって見られた1938年1月25日の大いなるしるしによってファチマ・メッセージへの従順の緊急の重要性を証明されました。メッセージは数年前になされ、そして今や世界の目の前で実現された多くのファチマの預言の実現によってさらに本物であると証明されました。

あなた方ローマ聖庁の高官たちならびに司教区の司教たちや枢機卿たちはファチマ御出現とメッセージの真の歴史を知っておられます。あなた方は神御自身のこの最も重要な命令へのすべての司教たちと教皇の速やかな従順を世界が最も必要としていることをご存じです。われわれは財政的および道徳的なあなたの支持、あなたの祈り、特にロザリオの祈り、そしてあなたがこの意向のために捧げてくださったすべてのミサに感謝を捧げたいと思います。

われわれは、第二バチカン公会議の間におよそ500人の世界中から来た司教、大司教、そして枢機卿方がファチマの聖母のこの命令に従うように教皇パウロ六世に請願されたということを知っています。1962年に締結されたバチカン・モスクワ協定 注1)のゆえに、教皇はそのときあなた方の要求を心に留めないことを選ばれました。今や教皇ヨハネ・パウロ二世がバチカンの政策を変えられ、この悪い仕方で助言された協定を破棄されたことは神に感謝です。われわれは、教皇が、多くの誤解があるがゆえに、従おうと望んでおられるが、しかししりごみされているこの命令に従うことに近づかれたということを喜んでいます。過去のバチカン・モスクワ協定が20年間にわたって、あなた方兄弟司教たちの多くの方の考えにしみ通っていたがゆえに、聖母とわれらの主のこの命令は彼らには非常に異質のものと見えています。われわれはあなた方に、この非常に重要な命令を、全教会、特にすべての司教たちに注目させるためのわれわれの努力においてわれわれを支持し続けてくださるようお願いします。

どうかこれまで以上にわれわれを支持してください。というのは、別のファチマ使徒職が教会内部からの彼らに対するある強い反対のゆえにこの仕事を放棄する決定の間際に立たされているからです。ファチマの聖母のメッセージがある方面においては理解されていないので、彼らは将来のためにファチマには(非常に大きな声では)言及せずに、むしろイエズスの聖心とマリアの汚れなき御心への信心の重要性を強調することを選んだように見えるからです。

この目標を、もちろんわれわれもまた追求しています。しかし、聖霊がわれわれの時代にお与えになったファチマの預言的メッセージによって導かれて、われわれはマリアの汚れなき御心への信心はある特別の日にすべてのカトリック司教たちによるマリアの汚れなき御心へのロシアの荘厳、公的な奉献を通じて以外には(神が意図なさった完全な程度に)世界の中に確立され得ないということを理解しています。ロシアの回心が実現され、平和が世界に与えられるのは「この手段によって」なのです。

神が世界の中にマリアの汚れなき御心への信心を確立され、そしてこのようにして、マリアを通じてのイエズスの支配と同じであるマリアの汚れなき御心の勝利を達成されるのは、「この手段による」ロシアの回心を通じてです。

他のいくつかのファチマ使徒職の指導者たちが、実際に、まさにファチマの聖母の使徒職を放棄しようとしていますので、あなたはわれわれが今日これまで以上にあなたの支持を必要としていることを見ることがおできになります。

上に概略しましたいくつかのファチマ使徒職が直面している危機は実際本当です。この危機は実際影響力のある司教たちによって彼らの組織のメッセージをファチマの完全なメッセージから何かより少ないものに変えるようにと告げられていることに存します。もしそのような命令が従われないならば、彼らは無視される、あるいは多くの教皇庁役職の中間管理者官僚組織内部の強力な勢力によって妨害されさえすることで脅迫されるのです。

われわれは多年にわたってあなたたち、われわれの司教たちの周りの影響力のある地位にいるそのような人物たちによってこの使徒職に対して為された来た多くの不法な処置を知っています。この危機に対するわれわれの応答は諸状況のゆえにイエズスに近づくことができなかったあの病気の人々の応答のようなものです。「主よ、ダヴィドの子よ、われらをあわれみ給え、と叫びければ、群衆彼らを拒みて黙せしめんとすれども、彼らますます叫びて、主よ、ダヴィドの子よ、われらをあわれみ給え、と言いおれり。イエズス立ち留まり、彼らを呼びてのたまいけるは、わが汝らに何をなさんと欲するか、と。」(マテオ20:30-32)

われわれは、彼らと同じように、われわれの司教であるあなたたちに叫びます。「われらをあわれみ給え。」そうする何の権威も持っていない傍観者たちや役人たちが黙するようにわれわれに告げるとき -- われわれはますます声高く叫んで答えます。「われらをあわれみ給え。」ただあなたの神への従順を通じてのみわれわれは救われるでしょう。われわれの諸状況はわれわれに他のいかなる解決をも提供しません。

われわれはこれまで以上に声高く叫び続けるでしょう。3年前に、われわれがこの叫びを最初に挙げたとき、われわれは5万の発行部数を持っていました。現在われわれは50万の発行部数を持っています。そしてわれわれは言葉を広め、われわれと共に叫び続ける多くの小さき人々の支持のゆえに毎年成長し続けています。しかしわれわれはまた、神のこの命令を知っておられ、それに従い、ますます大きな声で叫ぶためにあなたの道徳的支持によってわれわれを助けようと望んでおられるあなた方司教を必要とし続けています。

イエズスが最初は彼女の嘆願を拒否するように思われたけれども、イエズスに嘆願し続けたカナアンの女(マテオ15:22-28)のように、われわれもまた辛抱強く続けます。イエズスがこのことを彼女の信仰を試すために為されたように、われわれはイエズスが最後には彼女の大きな信仰と彼女の辛抱強さのために彼女に酬いられたということを知っています。われわれはわれわれの信仰とわれわれ辛抱強さがまた最後にはイエズスとあなた方司教たち(あるいはあなた方の後継者たち)によって、この奉献の行為によって、報われるであろうことを知っています。イエズスとマリアはファチマのメッセージを通じてわれわれに、最後にはわれわれの信仰と辛抱強さがロシアの奉献とその結果としてのロシアのカトリック信仰への回心、そして人類に与えられる平和の一時期によって報われるであろうということを明らかになさいました。

われわれは、ファチマの聖母のこの計画に対して働いている多くの強力な勢力があることを知っています。われわれはK.G.B.(共産党秘密警察)が、ファチマの聖母が支持しておられるすべてのことに反対して戦うためにいつでも使える毎年60億ドルから120億ドルを持っているということを理解しています。教皇パウロ六世とあの真に預言的な回勅と戦うために1968年の回勅「フマネ・ヴィテ」に引き続く24時間内に集められた2千400万ドルと同じように、このファチマのメッセージもまた、サタンの裕福な追随者たちによって引き続き戦われています。彼らはそれ[メッセージ]が地上における彼[サタン]の支配を終わらせることを理解しているのです。われわれは、神のこの命令は1929年に与えられたけれども、今なおあなた方司教の多くがそれについて知ってさえいないということを理解しています。バチカンにおける多くの高い地位にいる役職者たちでさえこの最も緊急のそして重要な命令を十分正確に知らないのです。

この無知はその命令を現実的である、あるいは緊急である度合いがより少ないものとするのではありません。教会におけそのような事態は内外からの教会の迫害によるものです。ファチマの聖母がわれわれに告げておられますが、この迫害は人類の大きなそして多くの罪のゆえの罰です。この無知はさらに多年にわたって教会内の多くの人々を欺いてきた故意の誤報キャンペーンによって引き起こされています。われわれはこのことについてファチマ・クルーセイダーの第20号、『聖母を沈黙させる陰謀』という論考の中で書きました。*

* この書物の p. 368 以下、および p. 381 以下を見よ。

悪魔と彼の追随者たちはあなた方に、ファチマ・クルーセイダーのわれわれがあなた方の敵であると信じさせたいと思われるでしょう。その反対にわれわれはあなた方の友人です。あなたたちのためにロシアの奉献に関するこの重要な真理を見出すことによって、そしてわれわれの道に置かれた多くの妨害にもかかわらずあなた方にそれを引き渡すことによって、われわれはあなた方の真の支持者です。われわれは、あなた方が知っておられるように、もし不誠実な人間が提示された議論と証拠とに答えることができないならば、彼らがその敵対者たちの信用を傷つけることに訴えるであろうということを知っています。これは、実際、ファチマの聖母の敵ども -- そしてあなた方の敵ども -- がわれわれに反対してやろうとしていることです。われわれはこれが、あなた方のある人々がわれわれの証言を無視することができると考えられる理由であるということを感じます。われわれはあなた方に、われわれが適切に答えなかった、このメッセージに対する公表されたあるいは公表されなかったどんな反対論もないということを熟考してくださるようお願いします。もしわれわれが欺かれ、あるいは間違っているならば、どうかわれわれにどこでそうであるかを示してください。もしわれわれがあなた方に真実を告げているならば、そのときはどうか聖母の緊急のメッセージと命令に耳を傾けてください。

われわれが過去においてファチマ・メッセージにおけるあなたの特別の役割を理解するために十分あなたを助けなかったことを残念に思っています。明らかにこの最も異例の神の介入に関する無知と省察の欠如を通じて、あなたたちを誤り導いた他の人々がいました。われわれは、ファチマのメッセージを通じてすべての司教たちに宛てられた神のこの特別の命令について今なお誤った情報を与えられている何人かの枢機卿さえいるということをローマにおける信ずべき筋から告げられています。

われわれ皆が知っているように、この問題においてわれわれが求めなければならないのは真理です。ヨハネ・パウロ二世はこう言っておられます。「キリストに従いながら、教会は大多数の意見とは必ずしもいつも同じではない真理を求めている。」注2)第二バチカン公会議以来、ある司祭や司教たちは、もし聖職者の多くのメンバーが何かあることを為しあるいは言うならば、それが何であれ、そのとき、他の人々は彼らに従っていれば安全であると感じているように見えます。われわれはそのような推論が正しくないということを知っています。もしそうであるならば、そのとき聖アタナシウスはアーリア派の司教たちに間違って積極的に反対したことになるでしょう。聖アタナシウスは、他の二人の忠実な司教たちと共に、4世紀にアーリア派の異端者となった司教たちの90%に独力で抵抗しました。彼はその45年間のアレキサンドリア統治の後にその非難の不当性を立証しました。アレキサンドリアでは彼の時代の司教会議は彼を、異なった5回の時期に彼の正当な司教区の外へ彼を追放することによって少なくとも17年間も追放にしたのでした。

不幸なことに、われわれは、聖書と教会史がわれわれに思い起こさせるように、必ずしもすべての司教たちが常に教会のために正しいことをしたのではないということを思い起こさなければなりません。注3)それゆえに、あなたたちにとってこの問題においてあなたたち自身で識別することが必要なのです。われわれ一人ひとりは真理を見出し、それによって生きることに責任を負っています。このように、司祭や司教たちでさえ、聖パウロが次にように言っているように、預言の声に耳を傾けることを義務づけられているのです:「霊を消すことなかれ、預言を軽んずることなかれ、何ごとをもためして良きものを守れ。」(テサロニケ前 5:19-21)

ファチマの預言的メッセージを無視することは、実際それを軽んずることです。すべてのカトリック司教たちに対するこの預言的メッセージと命令は安全に無視されることはできません。無視の明白な選択あるいは単にファチマに十分な注意を払うことを無視する選択さえ、あなたと無数の霊魂を地獄へ導き得る一つの決定です。ファチマの聖母はこう言っておられます:「もし人々が私があなたに告げることをするならば、多くの霊魂が救われ、平和が来るでしょう。」さらに、ファチマのメッセージは教会によって吟味され、良きものと見られてきました。それゆえに、われわれは、聖パウロが上述の第21節において言ったように、それをしっかりと守る義務があるのです。

真の預言者たちの役割は教会において非常に重要であるということを思い起こしましょう。聖パウロはエフェゾ書 2:20 において、「使徒と預言者との土台の上に建てられ、その隅の親石はすなわちキリスト・イエズスにまします」ものとしての教会に言及しています。このように、諸々の大きな奇跡とファチマの諸々の預言によってその真正性を証明された、シスター・ルチアの預言的役割は強調されて十分過ぎることはあり得ません。このことは、非常に多くの司祭たち、司教たち、修道者たちそして平信徒の霊魂の永遠の救いが、可能的な「諸民族の絶滅」と共に、どうなるか分からない今日、特に真なのです。

われわれは、ファチマの聖母に従う必要はないと示唆する、どのような地位の人であれ、その人によってあなたが誤り導かれないよう願っています。われわれはある人々が、聖母が従われることを止めるように努力しているということを知っています。この目的を達成するために彼らのある者はあなたに対してわれわれに反対する嘘を広めています。これは真実ではありません。われわれはあなたを必要としています。われわれはファチマの聖母に従うあなたの困難な仕事を支持するために働いています。われわれはファチマの聖母とあなたがどのように多くの敵どもを持っておられるかを理解しています。われわれもまた彼らの攻撃の毒牙を感じています。われわれはあなたの真の助け手をわれわれのうちに認めてくださるようあなたにお願いします。

われわれはあなたが真実を知りたいと望んでおられることを知っています。あなたは霊魂たちを救い、世界に平和をもたらすためにあなたのできるすべてのことをすることを望んでおられます。にもかかわらず、あなたの助言者たちのある者はあなたを誤り導きました。われわれはこのことをあなたの手紙そしてわれわれとの会話によって知っています。あなたを助けるために、聖書の数節を思い起こしましょう。神は預言者エゼキエルに話しかけられながら、彼に彼の義務を告げられます(エゼキエル書 3:18-19; エゼキエル 33:7-9 を見てください)。

神はエゼキエルに、彼が指摘された罪人に、間違った道にいることを告げなければならないと、告げられます。もしその罪人が耳を傾けず、悔い改めずに死ぬならば、彼は地獄に落とされるでしょう。しかし少なくとも預言者はその罪人にはっきりと話すという彼の義務を果たしたことによって彼自身を救うのです。

しかしもし預言者が(例えば、罪人によっておそらく拒絶されることに嫌悪を感じるがゆえに)罪人に告げず、そして罪人が彼の罪のうちに死ぬならば、そのときその罪人は地獄に落とされるでしょう。しかしその預言者は、彼の義務を無視したために、またその霊魂を失ったことに対して -- 彼の沈黙のゆえに -- 神に対して説明するために呼ばれるでしょう。エゼキエルは神によって、たとえ彼がそれを迷惑なことだと思うときでさえ、声を挙げるように告げられました。なぜなら神は霊魂たちを救うことを望まれたからです。神と預言者は必ずしもすべての者が耳を傾けるのではないということを知っています。しかしそれでもなお預言者は可能的な迫害に直面してさえ、従い、それゆえに声を挙げる義務に縛られているのです。

同じように、われわれはファチマの完全なメッセージを知ることについてわれわれが持った恵みのゆえに、われわれにとってそれが迷惑なことであるときでさえ、声を挙げる義務に縛られているのです。なぜなら、われわれの時代にはこのメッセージは多くの霊魂の救いのために必要だからです。われわれは、神がそのことをファチマのメッセージを通じてはっきりと言われたがゆえに、あなた方、神に仕える人々、のある者は最初は神の命令に耳を傾けないであろうということを知っています。われわれはまた、声を挙げたために迫害を受けることがあり得るということをも知っています。しかしわれわれの義務はそのまま残ります。われわれは話さなければならないのです。

危機に瀕しているもののゆえに、われわれはあなたと世界にファチマについての真理全体(特にロシアの奉献に関すること)を告げる義務を負っています。さらに、ヨハネ・パウロ二世はファチマの聖母のメッセージはあらゆる人類に向けられていると言っておられます。

もしわれわれ平信徒、修道者そして司祭が、われわれに宛てられたファチマ・メッセージに従うならば、そのときわれわれは確かにそうすることに対して祝福されるでしょう。しかしながら、ロシアを奉献することは教皇と共に、あなたたち司教だけにかかっているのです。ただあなたたち司教たちがあなたたちへの聖母の命令に耳を傾け、そして直ぐに従うときにのみ、われわれは皆共産主義の牢獄、拷問そして残酷な死を避けるでしょう。ただあなたの従順を通じてのみ、われわれは皆世界中の平和を手にし、そしてもっと多くの霊魂が救われるでしょう。

もし聖母の命令がなお無視されるならば、少なくとも、沈黙のままにとどまったがゆえにわれわれは釈明可能であるとは主張できないでしょう。そしてわれわれはわれわれの義務を果たしたことによってわれわれの霊魂を救ったことになるでしょう。もし敵が接近するのに気づいている見張り番が叫び声を挙げないならば、そのとき彼は、敵の犠牲になるその国の一人の市民の死に対して責任があると主張されるでしょう。(エゼキエル書 31:1-6 を見て下さい。)そのようにまた、われわれの研究、神学的な研究そして神の恵みのゆえに、われわれは「神の都」である教会を襲っている多くの問題に対する唯一の解決について知っています。そしてもしわれわれがわれわれの諸発見の結果を公表しないならば、神は、霊魂たちを救い、世界に平和をもたらすために「われわれのタレント」(マテオ 25:26)を用いるよりはむしろそれを土に埋めたことに対してわれわれに釈明をお求めになるでしょう。「耳を当てて聞くことを屋根の上にて述べよ」(マテオ 10:27)。

われわれは、もしあなたがファチマのメッセージについての完全な真実をはっきりと知っていたならば、あなたはあなた以前にそれを発見した人々がそれをあなたに注意させることができるすべてのことをすることを期待したであろうということを知っています。最後の審判の日が来るとき、われわれは、われわれが自分の勝手のよいように声を挙げないことを選んだがゆえに、われわれの兄弟姉妹たちの数百万人のこの世的な死と地獄における永遠の死について罪があると見られることを望まないでしょう。このファチマの命令をあなたに、われわれの司教たちに、われわれの司牧者たちにそして信仰におけるわれわれの兄弟たちに知らせることは絶対的にまた重大な仕方で大切であり、緊急のことなのです。

われわれはわれわれの義務を果たしました。われわれは、聖母の御助けでもって、そのメッセージを知らせ続けるでしょう。ファチマの聖母のメッセージと御出現、そして聖母とシスター・ルチアの仲介を通じてあなたに与えられた神の命令を研究することから、神がこのメッセージにおいて言っておられることを神は文字通り意味しておられるということは明らかです。神は、「この手段によって」ロシアが回心することを約束なさいました。それは、神が具体的に定められたやり方でマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するようにという神の命令に対する教皇、諸司教閣下の従順によるのです。

われわれはあなた方、閣下の援助を必要としています。そしてわれわれはまた皆、もし間に合うようにロシアの奉献が行われないならば、重大な危険に陥ります。もしあなた方がずっと長く遅らせられるならば、そのとき無神論的共産主義ロシアはわれわれの国々すべてを侵略するでしょう。そのとき、あなた方とわれわれは両方とも確実な迫害と死とのために選び出された同じボートの中にいます。豊かな人々、貧しい人々、力ある人々、単純な人々、司祭、司教、枢機卿そして教皇はすべて危険の中にいるでしょう。われわれの数十万人の人々が拷問を受け、奴隷化され、殺されるでしょう。われわれのうちのある人々はキリストを否定し、この罪のために永遠に地獄に行くでしょう。他の人々は栄光ある殉教者となるでしょう。われわれのうちの誰一人そのような状況の下ではわれわれがどのようにやっていくかを知りません。われわれ、ファチマ・クルーセイダーのスタッフと読者たちはあなたたちとわれわれの両方がそのような試練に会わないことを確実にするために一生懸命働いています。

明らかに、われわれは、もしロシアの奉献が間に合うように行われないならば、多くのカトリック教徒たち -- 聖職者も平信徒も同じように -- は彼らの家庭、教会、そして生命並びに彼らの子どもたちのそれらを救うための実りのない努力において彼らの信仰を否定するために永遠に滅びるであろうと恐れるに十分な理由を持っています。これらの人々と聖職者、あなたの兄弟姉妹たちは審判の日にあなたたちが神に説明をしなければならない同じ人々です。あなたたちがロシアを奉献するこの義務を無視することによって一つの霊魂をさえ失わないように、われわれは神のこの命令を知らせ、理解させることに努力しています。もしあなたが、あなたの怠慢によって一つの霊魂を失うとしたら、何があなたの上に振りかかのでしょうか?もしわれわれが、努力の欠如によってロシアを適切に奉献するためにあなたを助けなかったならば、われわれの宣告は何であるでしょうか?

神は、教皇と諸閣下--神の大祭司として神によって委託を受けた -- によって遂行される償いの荘厳、公的な行為を望んでおられます。神の威厳は悪魔と彼の大祭司、指導的、戦闘的無神論者たちによって神に加えられた公的な侮辱のために償いが為されることを要求しています。これらの人々は神の創造の大きな部分、すなわちロシアを神に対する公然たる戦闘の彼らの司令部として用いています。彼らは、公的に、露骨にそして悪意をもって神に反抗するためにあの国家の公的な権威と多くの資源とを用いています。これらの公的な侮辱は必然的に荘厳、公的な償いの行為が為されることを要求します。かつての聖なる場所および人々(ロシア)の公的な神聖冒涜はまた、それが神に公的に、そして荘厳に再び捧げられ、再び奉献されることを要求します。それゆえ、われわれは償いと奉献のこの荘厳、公的な行為を要求なさる神の妥当性を容易に理解することができるのです。

聖ベルナルド、聖アルフォンソ、そしてカトリックの伝統と共に、われわれはわれわれの献げ物が神に受け入れられ得るものであるためには、それはわれらの汚れなき御母マリアの手を通して神に捧げられるべきであるということを理解します。それゆえに、われわれは、ロシアがマリアの汚れなき御心を通じて神に公的、荘厳に奉献されるべきであると神がなぜ望まれるのか、その理由を理解することができるのです。

このように、われわれは、信仰、カトリック博士たちの教えそして神学によって照らされて、われわれ自身の理性によって、あなた方と教皇にとって、ロシアに押しつけられてきた国家無神論という公的な罪に対する荘厳な償いの行為の文脈内部でのマリアの汚れなき御心にロシアを荘厳、公的に奉献することがどのように理に適っているかを理解することができるのです。

しかしながら、われわれはファチマのメッセージを通じてどんな疑いをも超えて、そのような行為が単に理に適った適切なものであるばかりでなく、それ以上のものであるということを知っています。それは絶対的に必要です。実際、あなたたち(あるいはあなたたちの後継者たち)によって遂行されるこの絶対的に必要な行為なしには、ロシアの回心は決して起こらないでしょう -- 平和は決して来ないでしょう。ファチマのメッセージを通じて、ロシアが回心するのは、ただ「この手段によって」のみであるということは絶対に明らかであるからです。平和が世界に与えられるのはただ「この手段によって」のみなのです。

このようにしてわれわれは、もし神がこの奉献の行為を望まれるならば、神は御自身でそれを為されるであろうと示唆すること -- 一人の司教が明らかにそう示唆したように -- は愚かであり、悪いことであるということを理解することができるのです。イエズスはシスター・ルチアに次のように言われることによって、神の命令に従うことの拒否を表すそのような考えにお答えになりました:「私に仕える人たちに、私の命令を遅らせることにおいてフランス王の例に彼らが従っているということ、そして彼らはフランス王に従って不幸になるだろうということが彼らに与えられたのだということを知らせなさい。彼らは私の命令に耳を傾けることを望まなかった!フランス王と同じように、彼らはこのことを後悔するであろう。そして彼らはそれを行うであろう。しかしそれは遅いであろう。注4)ロシアは、戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら、すでにその諸々の誤謬を世界中に広めてしまっているであろう。教皇は多く苦しむであろう。」神が求めておられることは実際非常に僅かです。われわれはそのようにわれわれに対して憐れみ深くあられることのために神に感謝します。

われわれは、いとも聖なる三位一体のこの荘厳な命令が与えられて以来今や57年であり、そして今なお従われていないということを残念に思います。われわれはわれわれの罪と努力の欠如によってこのことを遅らせてきたことを後悔しています。われわれは、聖母が1917年に、世界はもし改めないならば、教会と教皇の迫害によって罰せられるでしょうとわれわれに警告なさったということを知っています。罪は1917年以来増加しました。教皇ヨハネ・パウロ二世が1982年5月13日にファチマで言われたように、「どのように多くのキリスト教徒がファチマのメッセージにおいて指示された方向とは反対の方向へ行っただろうか?罪はこのようにして世界のうちに堅固に居座るようになった。そして神の否定は人類のイデオロギー、考え方そして計画において拡がった」のです。それゆえに、世界は罰せられ、その結果教皇とあなた方、われわれの司教たちは迫害されています。そして今やこの問題において神に従うことをより困難なものとさえ見ています。われわれは、われわれの罪があなた方にとってそれをより困難なものとしたことを遺憾に思います。そしてわれわれは、罪の機会を避けることによって、並びに祈り、特にロザリオの祈りを通じて、またしばしば秘蹟を受けることによってわれわれの生活を改めることを約束します。われわれは、われわれの犠牲と償いの行為によって、そしてマリアの汚れなき御心にわれわれ自身を奉献することによって、あなた方を助けることを約束します。われわれはまた、神によってあなた方に与えられたこの荘厳な義務を果たされるようあなた方を助けるために、教皇とあなた方、われわれの司教たちのために祈ることを約束します。なぜ奉献はまだ為されてこなかったのでしょうか?神が、ロシアが回心するのは「この手段によって」であると強調なさっているときに、神は御自分が言っておられることを意味しておられないのだと示唆することによって、たとえそれが意図的でないとしても、神を侮辱する人々がいるということを神はご存じです。われわれは、神がそう意図されなかった何かあることを言うためにファチマの奇跡を働かれなかったということを知っています。われわれは、われわれの側で、神のメッセージのこの本質的な部分について教会に知らせるためにわれわれのできるすべてのことをして来ませんでした。

われわれは、教皇とあなた方、われわれの司教たちが世界平和とロシアの回心のための神の計画を遂行するための神の選ばれた道具であるということを知っています。全世界はあなた方の手に委ねられました。このことが文字通りそうであるということは、神の司祭たちや司教たちによってさえ、理解されていません。ある司教たちは、われわれファチマ・クルーセイダーのメンバーたちが、世界平和のための神の計画について世界に明白に告げるとき、無慈悲であると感じておられます。この計画を告げるために、世界に20世紀において司教とされることを受け入れることによってあなた方が引き受けられた非常に現実的で重要な義務について告げることが必要です。

あるカトリック司教たちは、ファチマ・メッセージを理解していないゆえに、正しくない手段を取りました。彼らはファチマのメッセージがその福音的純粋さにおいて広く知られることを重大な仕方で妨害してきました。神が彼らを赦し給わんことを。そして神のメッセージを提示することにおいてより明白でより有徳的でなかったことについてわれわれをどうか赦し給わんことを。実際、もしそれが教皇とあなた方、われわれの司教たちに与えられた一つの困難な仕事であるならば、メッセージを説明し、神がこの最も貴重な使命を委ねられたまさにそれらの人々を啓発する仕事はより重大でさえあるでしょう。

教皇ヨハネ・パウロ二世は1986年5月の彼の回勅において、マルキシズムは神に対する恐るべき叛逆であると指摘されました。それは霊の望みに従うよりはむしろ肉の望みに従う人類の罪の結果です。教皇ヨハネ・パウロ二世はまたこの問題を克服するために霊的問題への更新された強調をも求められました。ファチマにおいては、マルキシズムの諸問題に対する霊的な解決は実際ある特別の日に教皇と一緒にあなた方閣下によるロシアの奉献です。共産主義のまさに現実的な脅威と鞭が克服されるのは「この手段によって」です。われわれもまた、われわれの時代の罪 -- 戦闘的無神論的共産主義 --を克服することにおいて -- 霊的なものを強調することにおいて教皇に加わります。

世界は、それが病んでいるがゆえに、それを治療するためにある特別の手術を必要としています。外科医が心臓手術を行うとき、その医師は患者の生命を彼の手のうちに持っていると真に言われ得るということは誰もが理解できます。医師と彼の手術はそれによって患者の生命が救われる手段です。

神は上述の例において、患者の生命を医師の技術に委ねられました。もし医師が手術を行っている間に注意深くないならば、彼は自分の手がすべることによって患者を不注意にも殺すことがあり得るでしょう。こう言うことは無慈悲ではないのです。というのはそれは単純に真理であるからです。

今日、世界は病気です。神の異例の介入であるファチマの出来事はこの「死に至る病」からの唯一の脱出口を明白に示しました。神は、神によって指名された霊的医師たちであるあなた方、カトリック司教たちに、どんな手術が必要であり、そして正確にどのようにそれを遂行するかをお示しになりました。この共同的手術のあなた方の迅速、慎重、注意深いそして正確な執行が最も必要です。もしあなた方が失敗するならば、患者は死ぬでしょう。全民族は「絶滅させられるでしょう。」

今日、神は世界平和をあなた方、われわれの司教たちに委ねられました。われわれはこのことを確かに知っています。なぜなら、神御自身がこのことをファチマの諸々の大きな奇跡と預言とによって本物であると証明なさったからです。もしあなた方が、神の御母と神がお選びになったメッセンジャー、シスター・ルチアとを通じて神によってあなた方に与えられた命令に従順でない、あるいは適切に従わないならば、そのとき、全民族は「絶滅させられるでしょう。」神がわれわれの病んだ世界を治療なさるのはあなた方の厳密な従順の手段によってです。それは一つの重い責任です。親愛なる司教たち、あなた方はこの努力においてわれわれ皆の支持とわれわれの祈りを必要としておられます。われわれはあなた方のために祈ることを約束します。神は、ファチマのメッセージを通じて、特にこうお求めになりました:「教皇のために祈りなさい、たくさん祈りなさい。」シスター・ルチアを通じてわれわれは、「彼(教皇)はそうするであろう。しかしそれは遅いであろう」ということを知っています。われわれは自分たちの役割を果たしたいと思います。

ちょうど医師が、彼の心臓が強められ、彼の手が導かれ、そして彼の知性が、何が問題であり、それについて何がなされるべきかを知るように照らされるように、信徒の祈りによって助けられ得るように、そのようにまた、われわれは、教皇とあなた方、われわれの司教たちを、われわれの祈りと犠牲によって助けることができますし、また助けなければなりません。

ちょうど医師が、患者と彼の友人たちの嘆願と請願によって彼の患者を救うよう努力する彼の義務を果たすように、激励されそして説得され得るように、そのようにまた、われわれは上に概略されたようにロシアを適切に奉献するあなた方の義務を果たすように、教皇とあなた方、われわれの司教たちに嘆願し請願することによってこの努力を助けることができます。

われわれは、医師たちがときどき困難な手術を行うために道徳的な支持を必要とするということを知っています。例えば、われわれは、1981年に教皇ヨハネ・パウロ二世に付き添った9人の専門家のうちの8人は教皇が二度目に病院に収容された後その健康状態を考慮して、困難な手術を進めないことに賛成であったということを聞きました。教皇ヨハネ・パウロ二世自身が手術に賛成である旨を表明されました。そしてそれゆえ、手術は1981年夏に行われ成功したのです。

世界的に有名な脳外科医、ワイルダー・ペンフィールド博士は、彼自身の不安にもかかわらず、彼の同僚たちや家族によって彼の姉妹に対する必要な手術を行うよう勇気づけられました。そのようにまた、われわれも、教皇と司教たちもまたマリアの汚れなき御心にロシアを奉献し、それによって人間社会から最も危険なガンを取り除くというこの最も必要な手術を行うためにわれわれの激励と道徳的な支持を必要としておられるということを理解することができるのです。(それはより厳密に言えば、ロシアと世界から戦闘的無神論的共産主義の悪魔を祓うことです。悪魔祓いもまた勇気づけられる必要があります。)

それは特に重い仕事です。われわれは、教皇が1981年5月13日に一人のトルコ人K.G.B.秘密諜報員によって撃たれたのは、見たところ教皇を脅迫しているモスクワにおける一人の高官からの手紙の僅か数ヶ月後であったということを知っています。われわれは、教皇がファチマの聖母に従うことを今なお望んでおられるということを知っています。しかし同時にわれわれは、教皇がこの命令を遂行することができる前に人々からのより多くの支持を待っておられるということを知っています。彼はクラクフの司教であったときに、人々からの支持の大きな増加があるまではヤスナ・ゴラの聖母国立聖堂への巡礼を最初は公的に支持しませんでした。それから、彼は無神論的共産主義の強力な力にもかかわらず、彼自身巡礼を指導することができ、また指導しました。このように、人々の道徳的支持はクラクフの司教としてのヨハネ・パウロ二世を助けました。そしてそのようにわれわれの請願はこの重大な問題において教皇を助けるでしょう。

親愛なる司教たち、われわれは、もしわれわれがあなたたちがすでに知っておられるロシアの奉献に関するいくつかの問題をこの書簡においてわれわれが論評したとするならば、あなたたちのある人々にどうかわれわれを容赦してくださるようにお願いします。われわれは、われわれのこれらの事実についての論評が必要であるということをあなた方が知っておられると確信しています。というのは、あなた方の兄弟である司教たちの非常に多くの方がこの非常に緊急の問題について十分に知っておられないからです。

われわれは、教皇とあなた方、われわれの司教たちが、われわれの支持、われわれの祈り、イエズスとマリアによって本物と証明された、そして聖にして母なる教会が承認したファチマのメッセージへのわれわれの従順を必要としておられることを知っています。

われわれは、われわれの支持を誓約します。われわれは遅すぎるようになる前に出来る限り早く教皇とすべての司教たちによるロシアの奉献をもたらすことができるようわれわれのできるすべてのことをします。

われわれはあなた方、われわれの司教たち、神の群の羊飼いたちを、神の命令が遂行されることを確実にし、教皇と一緒に同じ日にマリアの汚れなき御心にロシアを奉献することを可能にするために、われわれのできる何らかの仕方で、助けることに関わります。

イエズス、マリア、ヨゼフにおいてあなた方に尊敬をこめて

ファチマ・クルーセイダーのスタッフおよび読者たち 注5)

 

  1. ファチマ・クルーセイダーの第16号、p. 5, 9 および 12 と第17号、p. 4, 7 および 11.(この書物のそれぞれ p. 249 以下、263 以下、301 以下、269 以下、279 以下、294 以下を見よ。)re: The Vatican-Mowcow Agreement.

  2. Familiaris Consortio, paragraph 5.

  3. Acts 20:29-30.

  4. フランス王と彼の後継者たちはフランスを主の聖心に奉献するようにというわれらの主の命令に従わないことを選んだ。この命令は聖マルガリタ・マリアを通じて彼に与えられた。投獄された後、王は神の命令に従おうと試みた。しかし要求された公的、荘厳な行為をすることはできなかった。王は彼の敵どもの犠牲に倒れ、彼の首は1793年にはねられた。

  5. 編集者注:多くの読者がこの公開書簡のうちに含まれている心境と考えを表明した。


世界の奴隷化か、それとも平和か(28)

2011年10月27日 | Weblog

第 X 部(続き) 

ブルー・アーミー指導層はファチマ・メッセージを曲げて伝えるある意図的な政策に従ってきた

 Father Paul Leonard 著 

すでにその1973年7月/8月号において、Soul [Magazine] はロシアの奉献が第二バチカン公会議で達成されたと示唆している。公会議第三セッションで1964年11月21日の教皇パウロ六世の言葉は Soul [Magazine] の主張が事実に反するものであることを証明している。教皇パウロはこう宣言された。「...われわれの一瞥は全世界の果てしない地平へと開いている...その世界をわれわれの記憶にある尊敬すべき先任者ピオ十二世は...マリアの汚れなき御心に荘厳に奉献された。今日、われわれはこの奉献の行為を更新することが特に時宜に適っていると考える。」

明らかに、その奉献はファチマの聖母の要求を満たさなかった。

なぜなら、聖母はロシアをその対象として具体的に明示する奉献を要求なさったからである。

1982年5月13日に、教皇ヨハネ・パウロ二世はマリアの汚れなき御心に世界を奉献された。そしてその1982年7月/8月号において、Soul [Magazine] は、ファチマ・クルーセイダーがその第20号において粗雑な悪ふざけとして暴露したシスター・ルチアとのインチキのインタビューを公表した。そのそうだと主張されたインタビューにおいて、シスター・ルチアはこう尋ねられたと主張された:「世界の司教たちと一致して教皇によって為されたものとしてのこの奉献は -- 1929年6月13日の御出現によれば -- われらの主と聖母が要求しておられるものだったか?」そうだと主張された答:「はい、そうです...それはその効力を持っています。しかしそれはこの奉献に対する人々の忠誠が多いか少ないかによるでしょう...」

このテキストはインチキの悪ふざけである。われわれはこのことを、1983年3月19日に、シスター・ルチアが教皇使節ポルタルピ大司教への彼女の公式の陳述において次のように宣言したがゆえに、知っている:「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようには為されませんでした。」

シスター・ルチアは1982年5月13日の奉献に関して彼女の公式の宣言を出し、Soul のインタビューが明らかな捏造であるということを間違えようのない仕方で明らかにした。にもかかわらず、Soul はそれを撤回しなかった。反対に、Soul の1983年5月/6月号においてわれわれはこう読む:「シスター・ルチアは奉献は為された、そしてそれはその効力をもったであろうと言った...それは効力を持つであろう。しかしその効力の程度は奉献に対する世界の反応に依存するであろう...」

さらに1984年5月/6月号においてわれわれはこう読む:「1982年5月13日の奉献の後に、シスター・ルチアはまた実際、ロシアが含まれていたと言った。」これは、John Haffert が1982年に公表した同一のインチキのインタビューへのもう一つの関連である。その中ではシスター・ルチアによれば、「教皇様は全世界を奉献されました。そしてロシアは[その中に]含まれています。そして教皇様はこの奉献を最も必要としている国々に言及なさったときに、ロシアのことを言っておられたのです。」ということが詐欺的に主張されている。シスター・ルチアが教皇使節に読み上げたテキストにおいては、彼女はロシアの奉献は果たされなかった、なぜならロシアははっきりと奉献の対象ではなかったからであり、また各々の司教が彼自身の司教座聖堂においてロシア奉献の公的、荘厳な儀式を取り決めなかったからである、と述べた。

Soul Magazine がこの1982年5月のこのインチキのインタビューが偽物であると証明された後にさえそれを引用し続けているという事実は、われわれが単なる見過ごしあるいは誠実な誤りを扱っているのではなく、むしろその組織が意図的に犯した詐欺行為の罪あるものであるという事実を証明している。さらに、ファチマ・クルーセイダーはインチキのインタビューに関する暴露記事を公表した。にもかかわらず、Soul はなおそれを撤回しなかった。編集者はこのまさに重大な問題において説明しあるいは自らを擁護するいかなる試みをもまだしていない。ファチマ・クルーセイダーが、ブルー・アーミー指導者たちが困惑したことに、ファチマの聖母によって要求されたロシアの奉献が為されなかったということを証明した諸々の文書や論考を繰り返し公表して以来、Soul Magazine は、修正を受け容れる代わりに、彼らの不条理な立場を修正し、もう一つの等しく不誠実な立場:すなわち、ロシアの奉献は為された、しかし、不完全な仕方で[為されたのだという]立場、を取り始めた。Soul Magazine(1983年5月/6月)は二つの段階において達成される奉献について話し始めた:「ロシアの奉献の第一のそして最も重要な段階は今や為された...」そして「第二の段階がどのように直ぐに行われるかということは教皇と司教たちにかかっている...」私はすでにファチマ・クルーセイダー、第20号(『聖母を沈黙させる陰謀』)*において「第一段階」と「第二段階」についてのこのすべてのナンセンスは単に Soul Magazin 編集者たちの発明にすぎないということを指摘した。なぜなら、諸段階によって達成される一つの奉献という考え方はシスター・ルチアの言葉そして一つの時期に達成される一つの行為を特定なさった聖母御自身の言葉と一致しないからである。このことはわれわれがシスター・ルチアの回想録のうちに読むことである。それは、「教皇」と「各々彼自身の司教座聖堂において、そして...教皇と同じ時間にカトリッ世界のすべての司教たちによって[行われる]ロシアの奉献の一つの公的、荘厳な行為」である。

この書物の p. 368 以下、特に p. 373-376 を見よ。

「奉献の第一のそして最も重要な段階」がすでに為されたという偽りの印象を創り出すであろう欺瞞を永続化するために、Soul (1986年3月/4月)は、器用に最も重要な部分を欠落させて、ポルタルピ大司教に対するシスター・ルチアの陳述の一部を公表した。p. 9 に、われわれはこう読む:「1983年3月19日に、彼女は彼に教皇ヨハネ・パウロ二世の奉献はピオ十二世の奉献と同じように、それが世界のすべての司教たちと共に、各々が同じ日に一つの奉献の『共同的』行為において[為されたもの]ではなかったので、聖母の要求に従っていなかったと、告げた。」しかしながら、シスター・ルチアはまた、1983年3月19日インタビューでロシアの奉献はロシアがはっきりとその奉献の対象ではなかったがゆえに達成されなかったと公式に述べた。

聖母がロシアを奉献されるべき特定の対象として具体的に挙げられたという事実にもかかわらず、そしてシスター・ルチアが要求された奉献はまさにロシアが具体的に挙げられなかったという理由のために為されなかったと宣言したという事実にもかかわらず、Soul Magazine は、このようにこれまでヨハネ・パウロ二世によって為された奉献がなぜ聖母の要求を満たしていないのか、その理由の一つが、ロシアが明らかに現教皇によって為された諸々の奉献の対象ではなかったということであるということを認めるのを拒否する。Soul によれば、欠けている唯一の事柄は奉献の共同性であった。

ファチマ・クルーセイダーは、ロシアが奉献の特に明示された対象でなければならないということを議論の余地なく証明するシスター・ルチアの陳述と聖母御自身の陳述を繰り返し印刷してきた。しかし Soul の編集者たちはこの真理を意図的に無視することを選んできた。そして現在彼らは、ロシアが明白にそして特に奉献の対象でなければならないということを認めることをまだ拒否している。

ロシアが世界の奉献の中に含まれているという事実は関係のないことである。なぜなら、聖母は特に「ロシア」の奉献を要求なさったからである。カトリックの道徳神学の教えに従えば、もしある人が一人の司祭にある特定の意向(ロシアの回心)のためにミサの謝礼をするならば、その司祭はその特定の意向のためにミサを捧げなければ、その意向を正当なやり方で果たしていない。もし彼がミサを世界の回心のために捧げるならば、そのとき彼は具体的に明示された意向のために再びミサを捧げる厳密な義務を負っている。

同じように、同一の神学的原理に従えば、もし神が教皇と司教たちにロシアを奉献するように命令されるならば、彼らは、ロシアを特に、そして名を挙げてはっきりと奉献しない限りその命令を果たしていないのである。それゆえに世界の奉献はその命令を正しいやり方で果たしていないのである。

ブルー・アーミーの指導者たちはロシア/世界問題をファチマの聖母の言葉を変造することによって解決しようと試みてきた。Soul の1986年3月/4月号の p. 9 でわれわれは聖母の直接的な引用を読む。その中ではロシアという言葉は世界に変えられた:「私は私の汚れなき御心への世界の奉献を求めるでしょう...」。p. 22 ではわれわれは教皇ヨハネ・パウロ二世の世界の奉献が聖母の要求を満たしたということを読む!

われわれはそこに、「教皇は世界のすべての司教たちと一致して1929年6月13日の御出現において要求されたようにマリアの汚れなき御心への奉献をされた」ということを読む。

ロシアから世界への聖母の言葉の変更は Soul の編集者たちが永続化させた聖母のメッセージの唯一の変造ではない。Soul の1982年7月/8月号において、ジョン・ハッファートは「ロシアに対する奉献の正確な効果は1929年6月13日の御出現において聖母御自身によって予告された。そのとき、聖母は、神が今『この手段によってロシアを救うと約束なさりながら』ロシアのこの奉献を望んでおられると言われた。」そこまでは非常によい。なぜなら、聖母は、その奉献がそれによってロシアが回心する手段になるという無条件の約束をなさったからである。しかしながら、ブルー・アーミー・リーダーの1984年版においてはこう書いてある:「われわれは今や奉献の行為はそれ自体『ロシアを回心させ』ないのであって、ロシアの回心の行為の達成の舞台を創るあるいはそのための準備をするであろうと理解している。」

このようにブルー・アーミー指導部は、ロシアの奉献が手段であるでしょうという聖母の言葉において聖母をもはや受け入れないで、単なる一つのしるしとして: -- すなわち、「それによってわれわれが、ロシアは回心するべきである、そして世界における悪の潮流が逆にされるべきであるということを知る一つのしるし」として受け入れるのである。これは絶対的に途方もないことである。聖母は1917年にすでに、ロシアが回心し、世界における悪の潮流が逆にされるべきであるとわれわれに告げられた。聖母は、ロシアの奉献は一つのしるしであるとは言われなかったのであって、それによってロシアが回心する手段であると言われた。ブルー・アーミー指導者たちが、聖母御自身の約束を否定するそのようなまったくのたわごとを印刷することによってどのように自分たち自身の名誉を汚すのか、は私にはまったく理解できない。

聖書は二枚舌の実行者たちに対して一つの呪いの言葉を宣告している:「光の場所に暗闇を、真理の場所に偽りを置く人々に呪いあれ」(イザヤ)。それは神の見るところでは憎むべきことである:「私は二心を持つ者たちを憎んだ」(詩編)。ブルー・アーミー指導者たちの嘘の偽善は弁護の余地のないもの、弁解できないものである。しかしそれは、そのための理由がないということを言っているのではない。

バチカン・モスクワ協定の基づいた諸政策

バチカン・モスクワ協定は第二バチカン公会議の教父たちにロシアと共産主義について沈黙の義務を負わせた。この協定は、バチカンと共産主義諸政権との間の関係におけるデタントを口実にして、歴代の教皇たちによる共産主義に関するカトリック教会の不可謬的な非難を再主張することはおろか議論することさえ公会議に禁じた。注1)

共産主義諸政権とのその交渉と関係におけるバチカンの諸政策のための基礎として奉仕している現在の東方政策の立案者はバチカン国務省長官カザロリ枢機卿である。カザロリ枢機卿がそれらの共産主義諸国における教会と国家との関係を確立し発展させる際に従ってきた諸政策はバチカン・モスクワ協定に基づけられてきた。教会はソビエト・ブロックにおいては、教会が共産主義に批判的な声明や宣告をしないという条件で存在することを許されている。カザロリ枢機卿のこの政策はよく知られた、異議のない事実である。

国務省長官として全バチカン外交団の長の地位にあるカザロリ枢機卿は今なおバチカン・モスクワ協定に固着している。彼は最近、1984年9月3日にラッツィンガー枢機卿によって発せられた解放神学に関する教えの反共産主義的な内容に対して自分は何ら責任がないということを明らかにしたとき、このことを証明した。そして彼はその教えについて相談されたことさえ否定した。(ファチマ・クルーセイダー、第18号、p. 5, 19 を見よ)**

この書物の pp. 332-335 を見よ。

平和のために祈りなさい

Soul Magazine とブルー・アーミー指導部は、われわれが見たように、バチカン・モスクワ協定を侵害しないように、ある意図的なやり方で、そして長期間にわたって、ファチマの聖母のメッセージを変造してきた。これは、アメリカ合衆国ブルー・アーミー総裁、Jerome J. Hastrich 司教が Soul Magazine の1984年3月/4月号において、なぜ、ロシアの回心のために祈る代わりに、「われわれはむしろ、ブルー・アーミーの会員たちが、彼ら自身が完全に回心するように、祈り断食するよう祈るべきである。...ロシアの『回心』のために祈ることは雄牛の前で赤旗を振るようなものと思われるであろう...そしてそれゆえに世界における平和のために祈る方がより賢明であろう...」と言っているか、その理由である。

ところで、ブルー・アーミーが彼らの諸政策を聖母のメッセージよりもむしろカザロリの外交に従って秩序づけてきたということを証明する同じ論考の中でのハストリッチ司教による一節がここにある:「われわれは、もしそうすることを望むならば、ロシアのためにはっきりと祈るであろう。しかしわれわれの公的なメッセージにおいて、われわれは...聖座がそのように一生懸命に統制し、方向づけようと努めている国際外交の微妙なバランスを崩すことを避けるべきである。」

編集者のコメント

ハストリッチ司教の声明はブルー・アーミーの国内指導部の方針並びにジョン・ハッファートおよび Soul Magazine の編集方針を代表していると思われる。Soul Magazine がブルー・アーミーの公式出版物であうということ、そしてそれがハストリッチ司教によるこの論考を載せた時、Soul Magazine はそこで、彼がアメリカ合衆国ブルー・アーミー総裁であることを指し示したということを思い起こそう。

ジョン・ハッファート、ハストリッチ司教そして彼らと意見が一致しているブルー・アーミーの指導者たちとは著しく違って、いとも聖なる三位一体の名において聖母が、教皇とすべてのカトリック司教は一緒にマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の荘厳、公的な行為を行うようにと命令なさった 注2)ということを思い起こそう。教皇と司教たちはロシアにおける国家無神論という神に反する公的な罪の償いの公的な行為を同時に為さなければならなかったのである。教皇と司教たちは彼らの職務とファチマの預言的メッセージによってファチマの聖母に従う義務に縛られている。教皇と司教たちによるそのような奉献と償いの行為は実際カトリック教会によるロシア共産主義の公的非難であろう。にもかかわらず、ファチマの聖母はロシアが回心するのはただこの命令への教皇と司教たちのこの従順を通じてのみであるとわれわれに告げておられる。

神の永遠の智慧そしてファチマの聖母の荘厳な要求とは著しく違って、アメリカ合衆国ブルー・アーミー指導部の明白な方針声明におけるハストリッチ司教とジョン・ハッファートは「分かりやすいように」ロシア人たちによって「雄牛の前で赤旗を振ること」として考えられ得る何かあることをすることを望まないのである。

換言すれば、ハストリッチ司教に従えば、われわれは、ロシア人たちにほんのわずかでも気にさわるという口実を与えるであろうロシアの回心に関してはわれわれの公的立場において何一つしてはならないのである。換言すれば、ハストリッチ司教と Soul Magazine はこう言っているのである -- ファチマの聖母が命令されたように、ロシアを公的、荘厳に奉献してはならない、なぜなら、これは共産主義ロシアの雄牛の前で赤旗を振ることだからである。

明らかに国内ブルー・アーミー指導部はファチマの聖母への従順よりはむしろカザロリ枢機卿の政策とバチカン・モスクワ協定政策、宥和政策を選んだのである。彼らは、バチカン・モスクワ協定を破棄され 注3)、ファチマの聖母に従おうと求めておられる教皇ヨハネ・パウロ二世の指導権に従うよりはむしろカザロリ枢機卿に従うことを選んだ。

多くの人々が今なおブルー・アーミーの国内指導部がファチマの聖母に奉仕しようと努力していると考えていることは実際大いに遺憾なことである。ブルー・アーミーの多くの一般のよい人々は欺かれているのであり、ファチマの聖母の完全なメッセージに明らかに反対している指導部を彼らの寄付と彼らの道徳的支持によって、善意をもって支持し続けている。しかし聖母と教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマのメッセージに答える恵みによって引きつけられた小さな人々の道徳的支持、祈りと寄付を必要としておられる。彼らの支持はファチマの聖母によって命令されたものとしてのロシアの奉献をもたらすことに向かって最も重要である。この意向のために働き、祈り、犠牲し続けよう。ファチマの聖母の完全なメッセージを知らせるためにわれわれのできるすべてのことをしよう。ファチマの聖母を沈黙させる陰謀と今日天からのこの平和計画が実行されることを押しとどめるために用いられている神と聖母の敵どもの戦略とを暴露し続けることによって必ずわれわれ自身を、そして聖母の理想を擁護しよう。

  1. バチカン・モスクワ協定についてもっと詳しくはこの書物の p. 249 以下および p. 269 以下を見よ。
  2. 天の元后の公式的な要求は法的に見れば命令と等しい。

    3.最近、1986年5月に、教皇ヨハネ・パウロ二世はその回勅におけるある短い節において再び共産主義を非難しておられる。この書物の p. 350 を見よ。 

4.この論考が書かれて以来、より最近の報道はバチカン・モスクワ協定が今なおバチカンによって従われているということを示している。この書物の p. 352 にある編集者注を見よ。

 

一人のブルー・アーミー総裁は打ち明ける 

ブルー・アーミー国内指導部はファチマ・メッセージを変造している。このことは先行する二つの論考並びに『聖母を沈黙させる陰謀』および『 暴露された反ファチマの故意の誤報戦術』においてポール・レオナード神父によって論証されている。(それもまたこの書物のうちに見出される)。ブルー・アーミーの会員たち並びに何人かの重要な指導者たちは Soul Magazine およびブルー・アーミー国内指導部によるファチマ・メッセージの進行する変造に反対している。このことの証拠として、ファチマ・クルーセイダーはブルー・アーミー・クリーヴランド支部総裁、アンソニー・C. ホフマンからの重要な書簡と報告を受け取った。

先行の論考の主題に関して、ファチマ・クルーセイダーは以下の書簡を受け取った:

1986年10月22日

親愛なるグルーナー神父様、

私は現在クリーヴランドにおけるブルー・アーミー支部の総裁です。あなたの雑誌、ファチマ・クルーセイダーは私に、ロシアの共同的奉献の問題を徹底的に研究するよう促してくれました。ファチマに関する数冊の書物を調査した後に、私はあなたが持っておられるのと同じ結論に達しました。すなわち、奉献はなされなかったという結論に。

私はその問題をブルー・アーミーのわれわれの支部の霊的指導者と論じました。そして彼は奉献が為されなかったということに同意しました。われわれは二人とも、このことについて何かをするべきだということに同意しました。私は、今年の9月11日および12日のブルー・アーミー国内委員会年次総会に提出されるように一つの決議案を起草しました。この決議案はわれわれの支部の理事会によって承認され、国内ブルー・アーミーの決議案委員会に提出されました。

国内委員会の会議ではわれわれはこの決議案についてはまったく失敗でした。私は決議案のコピーを代議員たちに示すことさえ許されませんでした。国内ブルー・アーミーが少数の堅牢な人々によって支配されており、その憲章に従って統治されていないということはまったく明らかです。その結果、組織内で変化をもたらすことは非常に困難でしょう。しかしながら、われわれの地方ブルー・アーミーはとにかく何かをしようと努力しています。

ロシアの奉献は非常に重要です。そして時はそのように危機的です。それゆえに、私は、あなたに提供する情報がこの問題に関して何らかの行動を取るためにより多くの人々を確信させる際に何らかの助けになればと願ってあなたに手紙を書いています。私はブルー・アーミーの人々がこのことに取りかかるために優れた人々であると信じています。多くの人々は現在のところ混乱し、意気阻喪しています。

私はわれわれの決議案に対するブルー・アーミー国内委員会の行動に関する一つの論考を同封しています。また、われわれの支部が提出した決議案のコピーも同封します。もしあなたが、これらのものをあなたの雑誌において公表することが奉献の運動に役立つと考えられるならば、そのときはどうぞそうしてください。もし異なった様式で書かれた論考に関する情報をもっと必要でしたら、喜んでそうしましょう。これを公表することが善よりは害を為すと感じられるならば、そのときはただ無視してください。

私は、できるかぎりクリーヴランド地域においてあなたの雑誌を宣伝するよう努力するでしょう。というのは、それはファチマの真のメッセージを載せているからです。(私はあなたの合衆国グループから数部を注文しました。)もしこの困難な使徒職に関してあなたを助けるために私に出来る何か別のことがあるならば、お知らせください。あなたの出版費用を助けるために500ドルの小切手を同封します。

イエズスとマリアにおいてあなたの。

アンソニー・C. ホフマン

ホフマン氏の同封された論考が以下に続く:

ブルー・アーミーは共同的奉献に関する決議案を議論することを許さなかった

 9月11日および12日にその年次総会のときに開かれたファチマの聖母のブルー・アーミー国内委員会は聖母によって要求された共同的奉献に関して提案された決議案を議論すること、あるいは投票することはおろか見ることさえ許されなかった。

あなたたち皆がおそらく気づいておられるように、われらの教皇は1982年5月13日に、そしてまた1984年3月25日にも、マリアの汚れなき御心に世界を奉献された。しかしながら、シスター・ルチアを通じて聖母によって要求された奉献は、「神が、この手段によってロシアを救うと約束なさりながら、教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をすることを求めておられる」のである。(『ルチア自身の言葉によるファチマ』、pp. 198-199)

教皇による奉献がロシアの奉献ではなかった、そしてそれゆえに、シスター・ルチアによって具体的に明示された奉献に一致しなかったので、ブルー・アーミー・クリーヴランド支部(ブルー・アーミーにおける最も古い支部の一つ)の理事会は1986年の年次国内委員会会合での考察のために決議案を提出した。しかしながら、ジョセフ・ウォルシュ(彼はブルー・アーミーにおいて選挙による役目を何も持っていない)という人で構成される決議案委員会は、会議において、決議案は教会の問題であり、代議員たちによって検討され得ないと述べた。代議員たちは、彼らが決議案を検討すべきかどうかを決定するためにそのコピーを見ることさえ許されなかった。ウォルシュ氏はさらにたとえ委員会が決議案を可決したとしても、それは何らの効力も持たないであろうと述べた。

共同的奉献は最も決定的な問題である。というのは、ロシアの回心はそれが正しく為されないかぎり、始まらないだろうからである。これはブルー・アーミーにとって最も重要な関心事であるべである。しかしながら、ブルー・アーミー憲章によれば、その統治団体である国内委員会はその問題を読みあるいは議論することさえできなかったのである。国中のブルー・アーミーの指導者たちにとって立ち上がり、われわれのブルー・アーミーがわれわれの憲章に従って統治され、われわれが、世界にとって最も決定的であるそれらの問題に取り組むことを許されるべきであるということを要求する時である。

決議案のコピーが、国内委員会に提出されたとおりに、添付されている。それを読めば、それが教会にではなくて、ブルー・アーミーの諸活動に向けられているということが分かるであろう。それゆえに、それはジョセフ・ウォルシュによって述べられたように教会の問題ではない。あなたがシスター・ルチアの言葉が事実であることを検証することができるように、そしてまたジョン・ハッファートが過去にその問題に関して書いたことを再び検討することができるように、いくつかの参考文献も与えられている。

提出者:

アンソニー・C. ホフマン、総裁
クリーヴランド・ブルー・アーミー
8345 Columbia Road

Olmsted Falls, OH 44138
(216)235-2181

1986年国内委員会に提案された決議案

 聖母がシスター・ルチアに、「神は、この手段によってロシアを救うと約束なさりながら、教皇に、世界の司教たちと一致して、マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献をするよう求めておられるます」と告げられたのに、

教皇はマリアの汚れなき御心への世界の奉献のいかなるものにおいてもロシアに言及されなかったのに、

教皇は世界のすべての司教たちと一致してロシアを奉献されなかったのに、

このようにして、法人組織アメリカ合衆国ファチマの聖母のブルー・アーミー国内委員会は、ロシアの共同的奉献が聖母の要求に一致して為されなかったということ、さらに、委員会はその会員たちに、Soul Magazine における諸論考を通じて、ロシアの共同的奉献が達成されなかったということを知らせるであろうということ、さらに、委員会がその奉献を促進するためにその力を尽くしてすべてのことをすること、そして特に出来る限り早く、そしてシスター・ルチアによって述べられたように正確な仕方で、奉献をされるように、教皇に請願を提出するということを認める。

ロシアの回心はこの奉献が聖母によって要求されたように為されるまでは始まらないであろうから、われわれが力の及ぶ限り奉献が正しくそして早く為されるようにあらゆることをすることは非常に重要なことである。教皇はこの奉献をすることができるためにわれわれの祈りを必要としておられる。教皇はまた、われわれの請願を通じてわれわれが提供できるどんな補強をも必要としておられる。国際ブルー・アーミー初代総裁ヴェナンシオ司教はジョン・ハッファートの書物『親愛なる司教』において論じられているように、教皇への請願を強く促進された。

共同的奉献に関するいくつかの参考文献は以下の通りである:

 Dear Bishop, by John Haffert, p. 228.

Fatima The Great Sign, by Francis Johnston, p. 86.

Fatima In Lucia's Own Words, edited by Father Louis Kondor, SVD, pp. 198-199.

ファチマの聖母のブルー・アーミー、クリーヴランド支部理事会によって尊敬を込めて提出された。

アンソニー・C. ホフマン、総裁
クリーヴランド・ブルー・アーミー
1986年7月12日


世界の奴隷化か、それとも平和か(27)

2011年10月26日 | Weblog

第 X 部(続き)

今日に至るまで:バチカン・モスクワ協定は聖母を沈黙させてきた

Father Paul Leonard 著

 ファチマ・クルーセイダー、第20号において、ポール・レオナード神父は「聖母を沈黙させる陰謀」を書いた。* われわれはこの陰謀の暴露を彼に負っている。以下の論考において、ポール神父は諸々の名前を挙げることを選んだ。なぜなら、彼が公衆を誤り導くことに責任を持っている人々に与えた公的な警告の後に、当該の人々がファチマの聖母のメッセージに関する彼らのまさに重大な公表された諸々の誤謬を公的に訂正することを選ばなかったからである。ファチマ・クルーセイダーの、書き込んだ読者の大部分はポール神父の論考に対して彼らの感謝を表明した。しかしながら、何人かの人々は、ファチマの聖母のメッセージを促進していると主張しながら、実際には聖母の完全なメッセージを知られ、従われることから妨げようと努力している人々をいったい何が動機づけているかに関して当惑させられたであろう。

* この書物の p. 368 以下および p. 381 以下を見よ。

ファチマの聖母の完全なメッセージは、バチカン・モスクワ協定の方針にあからさまにコミットし続けている左傾化した共産党好きの教会人たち 注1)や組織によって今もなお抑圧されている。聖母のメッセージは間違えようもなく明白であり、曖昧さがない。

「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために来るでしょう。もし私の要求が聞き届けられるならば、ロシアは回心するでしょう。そして平和が来るでしょう。もしそうでなければ、ロシアは諸々の戦争と教会の迫害を増進しながら、世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しむでしょう。さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」聖母は、1917年7月13日にこれらの言葉を話された時、いくつかの事柄を具体的に挙げられた。

1)聖母は諸々の要求をするために再び来られるであろう。
2)もし聖母の要求が従われるならば、ロシアは回心し、平和が来るであろう。
3)もし聖母の要求が満たされないならば、そのとき:
(a) ロシアはその諸々の誤謬を世界中に広めるであろう。
(b) ロシアは諸々の戦争、教会の迫害、善人の殉教そして教皇に対する苦難すら引き起こすであろう。
(c) さまざまの民族が絶滅させられるであろう。

1917年7月13日の御自分の約束を果たすために、聖母はトゥイでの1929年6月13日の御出現においてシスター・ルチアの所に来られ、こう宣言された。「神が教皇に、世界のすべての司教たちと一致してロシアを私の汚れなき御心に奉献するようにお求めになる時が来ました。神はこの手段によってロシアを救うと約束なさっています。」

これらの言葉において、神の御母は次のことを明らかになさった:
1)ロシアは奉献の対象として具体的に挙げられなければならない。
2)その奉献は単に教皇によってだけ行われなければならないのではなく、それは世界のすべての司教たちによって遂行される一つの共同的な行為でなければならない。
3)「この手段によって」、すなわち、実際の奉献そのものによって、ロシアは回心し、救われるであろう。

ファチマの世界使徒職(別名ブルー・アーミー)の指導部は、ファチマ・メッセージをバチカン・モスクワ協定の路線にもたらす彼らの不敬なキャンペーンにおいて、聖母のメッセージを頑固に、そして悔い改めずに曲げて伝えてきた。

Soul Magazine の1986年3月/4月号、p. 32 は、それが「1984年3月25日に聖ペトロ広場において教皇ヨハネ・パウロ二世によって世界の司教たちと共になされたマリアの汚れなき御心への共同的奉献...そこでは教皇は世界のすべての司教たちと一致してマリアの汚れなき御心への奉献をなさった。それは1929年6月13日の御出現において要求されたように[為された]。」に言及するときに、一つの恥知らずの嘘を述べている。

次に、同じ号の p. 9 で、-- Soul Magazine はこう述べている:「...教皇は、聖母が『私は私の汚れなき御心への世界の奉献を求めるでしょう』と言われたその要求に従って...マリアの汚れなき御心に世界を奉献することへと進まれた...」

ファチマの聖母は決し世界の奉献を求められなかった。聖母は要求なさった奉献の対象としてロシアをはっきり、具体的に示された。ブルー・アーミーの編集者たちはロシアを世界に変えることによって聖母御自身の言葉を変造したのである。

ブルー・アーミーは擁護できない立場に凝り固まった

 これは、奉献がすでに為されたという印象を創り出そうとする事実に反したそして誤り導く報道をブルー・アーミーがどのように公表してきたかの多くの例のうちの一つにしか過ぎない。ファチマ・クルーセイダーは Soul Magazine の事実に反した報道を繰り返し正し反駁してきた。それにもかかわらず、ブルー・アーミーの指導者たちは彼らの擁護できない立場に凝り固まることを選んできた -- 彼らは論証され、証明された真実を意図的に無視することを明らかに選んだ:すなわち、カザロリ枢機卿のバチカン・モスクワ協定に反対しない方針に固着するために諸々の誤謬と虚言を促進しているのである。

聖母の要求が単純に果たされてこなかったという事実にもかかわらず、ブルー・アーミー指導部は、奉献は不完全な仕方で為された -- 厳密に神が要求なさっているように完全にではないが、しかしにもかかわらずなされた -- というまったく不合理な主張を永続させているのである。

聖母はロシアの奉献を要求なさった。なされた事柄は世界の奉献であった。それゆえに、祝せられたおとめが要求なさった奉献は単純に為されなかったのである。それは為された、しかしただ不完全な、あるいは部分的な仕方で為されたにすぎないと言うことは、単に偽りであるばかりでなく、黒を白と見えさせる欺瞞的な手段である。このように、ロシアの共同的奉献は不完全な仕方で為されたという Soul Magazine とブルー・アーミー指導部の馬鹿げた主張は、隠された、しかしそれにもかかわらず非常に明確な目的:すなわち、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献を求める公衆のキャンペーンを終わらせるという目的、を達成するために巧妙に考えられた一つの欺瞞的な戦略である。

最も鈍い精神にさえ正真正銘の不合理を単純に呑み込むこませることは単的に言って過大に期待することであろう。それゆえに、明示された要求を正当なやり方で果たさない行為は無効であるという事実をじっくり考えることから精神の注意を逸らすために十分な混乱が事柄の中へ注入されたのである。そしてそれゆえに、ファチマの聖母の命令を果たす部分的あるいは不完全な行為と考えられることはできないのである。

なお、取り除かれ、口に合うものとされるべきもう一つの躓きの石が残っている:すなわち、奉献が為されたと主張されてきたという事実にもかかわらず、ロシアはその戦闘的無神論と教会を迫害する共産主義からまったく明らかに回心しなかったという事実である。さらに、あからさまな欺瞞を知らないうちに呑み込むように公衆を誘引するためにまさに十分な曖昧さと混乱が注入されてきた。

聖母は、共同的奉献はそれによってロシアの回心がもたらされる手段であるでしょうとまったく明白に述べられた。このことから公衆の精神をそらすために、Soul Magazine の編集者たちは、ロシアの奉献は「ロシアの回心の実際的な条件」ではなくて、それはただ「ファチマの聖母の要求が果たされたという一つのしるし」に過ぎないというまったくの嘘を宣伝してきた。

Soul Magazine は聖母に矛盾している

 ファチマの聖母はロシアの奉献はその国の回心をもたらすであろうという無条件の約束をなさった:すなわち、神は「この手段によってロシアを救われます」と。Soul Magazine によれば、その約束は条件的である:すなわち、「それは人々の忠誠の多少に依存するであろう...」

これらすべての歪曲、矛盾そして嘘を公表した後に、人は、Soul Magazine が十分以上にその読者たちの知性を侮辱してきたと考えるであろう。しかし Soul Magazine の編集者たちはここに止まらなかった。Soul Magazine は「ロシアの回心はすでに始まった」(!)という騒々しい告知を繰り返し公表してきた。司祭たちそして平信徒たちはソビエトの精神病病棟において精神的に絶滅させられ、グーラグのキャンプで精神的に絶滅させられている。アフガニスタンにおいて戦争が荒れ狂い続けている間に教会はロシアにおいて恐ろしく迫害されている。ロシアの回心がすでに始まったと言うことは、ロシア共産主義とその執行者たちの手で現在苦しんでいる、残虐行為と迫害のすべての犠牲者たちに対する侮辱と裏切りのジェスチャーである。シスター・ルチアは「もし教皇様御自身が、償いとロシアの奉献の荘厳、公的な行為をなさり、...そして世界のすべてのカトリック司教様たちに同じことをするようにお命じになるならば、ロシアにおける迫害は終わるであろうとわれらのよき神は約束なさっています...」と書いている(1930年6月12日の手紙)。ロシアにおける数千人の回心は一つの勇気づける発展である。しかしわれわれはその事実がロシアの回心についてわれわれを誤り導くことを許してはならない。その回心は、聖母が要求なさったロシアの共同的奉献が教皇と司教たちによって遂行された時にのみ起こるであろう。

ファチマ・クルーセイダーは、Soul Magazine が驚くべき規則正しさで公表してきた見逃すことが出来ない諸々の不一致、矛盾そして不条理を繰り返し指摘してきた。ブルー・アーミーの指導部はこの最も非難すべき実践において衰えることなく続ける強固なそして情け容赦のない決心を示しているように思われる。このことを見れば、常識の使用を授けられている理性的存在は、Soul Magazine とブルー・アーミーの指導部の欺瞞と歪曲に対する強い好みが慎重に練り上げられた方針の直接の結果であると結論せざるを得ない。

問題の核心

 ここに問題の核心がある:すなわち、ファチマの聖母の真のメッセージは、それがカザロリ枢機卿の裏切りのそして共産党寄りのバチカン・モスクワ東方政策と一致しないがゆえに、抑圧されてきたのである。Soul Magazine(1984年3月/4月、p. 5)が次のように述べているのはこの理由のためである:「もしわれわれがそうしようと望むならば、われわれははっきりとロシアのために祈るかもしれない。しかしわれわれの公的なメッセージにおいては...聖座(すなわち、カザロリ枢機卿)がそのように熱心に支配し指導しようと努力している国際問題のデリケートなバランスを狂わせることを避ける。」われわれは共産主義者たちを怒らせないように、聖母の要求の実現のために働くことを思いとどまらなければならない。なぜなら、「キリスト教徒ではないロシア人でさえ、彼らが回心を必要としているという考えに憤慨することはもっともなことだ」から(同書、p. 5)である。

ブルー・アーミーは、共産主義に譲歩し、妥協し、屈服する近視眼的な政策のためにファチマの聖母の要求の実現を教皇と司教たちに禁じることになるカザロリ枢機卿のバチカン・モスクワ東方政策の道具へと変えられてきたのである。

バチカン・モスクワ協定の理論的根拠は人間的な用心深さに賛成して神の智慧を拒否するということである。Our Sunday Visitor もまたこの信念を持っていると思われる。

1984年2月12日のその新聞において、われわれは「教会はジレンマに直面している:交渉することができないところでは、人々は苦しむ、それが交渉するところでは、それは人々の生活をよりよいものにすることができる。」(p. 9) そして、「教会は、ある国における教会の長期の生き残りを確保するために短期の制限を交渉するであろう」(1984年2月19日、p. 7)。

そのような立場は、もしそのような交渉において、聖母の要求の実現が排除されるならば、神を人間の判断に従属させる。ファチマの聖母はこう言われた:「ただ私だけがあなたたちを救うことができます。」グルーナー神父はこう言っている。「もしわれわれが聖母を無視するならば、誰もわれわれを助けることはできないし、また助けないであろう。神御自身がわれわれをお助けにならないであろう。なぜなら、神は、平和と国際的な安全を手にするためにわれわれがしなければならないことをわれわれに告げるために御自分の御母を送り給うたからである。」

シーディー神父の不当な攻撃は反駁される

彼の Sunday Visitor のコラムにおいて、交渉、妥協そして屈服の東方政策に賛成していると思われるフランク・シーディ神父はその出版物の中で彼自身の誤った情報と歪曲を公表した。1986年9月7日(Our Sunday Visitor, p. 15)[付けの紙面]で、彼は「国際ファチマ・ロザリオ十字軍...はある東側ブロックのカトリック司教がその長をしている」と述べている。これはまったく偽りである。シーディ神父はまたファチマ・クルーセイダーが、シスター・ルチアは沈黙させられてきた、そしてそれが「第三の秘密」の開示を強く迫っていると言うとき、「極端に走っている」と考えている。ファチマ・クルーセイダーのこれらの陳述が「極端」であると言うことによって、シーディ神父はこれらの陳述が偽りであるということを示唆している。それゆえに、シスター・ルチアは聖座の許可を得ていなかったので話すことができなかった、ということを教皇使節ポルタルピ大司教に彼女が読んで聞かせた[予め]準備された陳述において1983年3月19日に明らかにしたのは、シスター・ルチア自身であったということをこの機会にシーディ神父に思い起こさせるのである。さらに、秘密を開き、それを世界に明らかにするためになぜ1960年まで待つ必要があったのかと、カノン・バルタスがシスター・ルチアに尋ねたとき、彼女はファチマのダ・シルヴァ司教のいる前で彼にこう答えた:「なぜなら、祝せられたおとめはそれをそのように望んでおられるからです。」

シーディ神父はファチマ・クルーセイダーが「教皇ヨハネ・パウロ二世によって為された奉献によっては聖母の要求は果たされなかったと信じている」と言っている。教皇は、世界の奉献の行為をなさった(1984年3月25日)後に、聖母に、「その奉献と委任をあなたがわれわれから待っておられる人々」を照らしてくださるように願われた。そしてその日、後になって、教皇はその祈りの中で「あなたが御自身がわれわれの奉献と委任の行為を待っておられるあれらの人々について」語られた。このようにロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されるようにという聖母の要求がまだ果たされていなかったと信じているのは、単にファチマ・クルーセイダーだけではなくて、また教皇ヨハネ・パウロ二世もそうである。

シーディ神父は、ファチマ・クルーセイダーが「『バチカンの東方政策』を非難している...」と述べている。それゆえに、私はこの機会を捉えて、共産主義に対して公的に語る際にラッツィンガー枢機卿とヨハネ・パウロ二世は両者とも「バチカンの東方政策」に反対しているということを指摘しておこう。

1986年11月16日の号において、シーディ神父はファチマ・クルーセイダーに対する向こう見ずの、そして名誉毀損とさえ言ってもよい非難を投げつけている。すなわち、彼は「その立場のあるものは正統から逸脱した」と言っているのである。シーディ神父はそのような重大な非難を実証するための何らの試みも絶対にしていない(また他の誰もしていない)で、単にスタニスラス・ブルザナ司教の悪名高い書簡を再現しているに過ぎない。その書簡はどこにもファチマ・クルーセイダーが正統から逸脱しているとは述べていないのである。

このブルザナ書簡について言われなければならない第一の事柄は、それが信徒の精神の中に偽りの印象を意図的に創り出していると思われるほのめかしの傑作であるということである。それはこう言っている:「この出版物(ファチマ・クルーセイダー)において受け容れられた立場のいくつかはカトリック教会の教えを表していない」そしてそれゆえに、彼はそれを読むに際して「注意」を助言しているのである。

ところで、ある人の立場のいくつかが「カトリック教会の教えを表していない」と述べることは正確には何を意味しているのか?まず第一に、それは、彼の立場が間違っている、非正統的である、あるいは何らかの仕方で教会の公式的な教導権と一致していないということを意味しているのではない。この陳述はすべてのカトリック新聞および雑誌、そして諸教皇の書き物や宣言のいくつかにさえ適用され得る。教皇ピオ十二世が被昇天の教義を告知されたとき、教皇はその演説の中で、人々が「カトリック世界のあらゆる場所から」ローマへ来たということに言及された。ところで、被昇天の教義はカトリック教会の公式的な教えを表しているのに対して、「カトリック世界のあらゆる場所から」ローマへ来る人々についての教皇の所見はカトリック教会の教えを表していない。同じように、ある司教が、あるいはある教皇でさえが、一人の私的な博士としてある陳述をするとき、彼はそれによって彼自身の個人的な立場を述べているのである。そしてそうする際に、彼の陳述はカトリック教会の教えを表しているのではない。

その司教の書簡は署名されていない

 それゆえに、ある人の立場が教会の教えを表していないという陳述はそれ自身、事実上あらゆる日曜日の説教にも適用され得る無害な常識である。しかしながら、ブルザナ司教がしたように警告の形式においてそのような声明を発することは明らかに、信徒たちの精神の中にファチマ・クルーセイダーはまったく正統的ではないという誤った印象を創り出す一つの陰険な、そして不快な試みであると思われる。おそらく、それはその書簡の意地の悪い意図が非常に明白であるので、その司教はそれに署名する勇気を欠き、そして署名しないままになっているということである。

ブルザナ司教の無署名の書簡に対する返事として書かれたグルーナー神父の書簡(ファチマ・クルーセイダー、第18号、p. 12 を見よ。*)はブルザナ司教に送られた。そしてグルーナー神父は同様にまた個人的に彼を訪問した。しかし司教はなぜ彼がファチマ・クルーセイダーを読む際に「注意」を助言しているのか、を説明することができなかったし、また彼は彼が非正統的であると考えるファチマ・クルーセイダーにおけるいかなる陳述をも敢えて指摘することをしなかった。

* この書物の p. 306 以下を見よ。

最後に、ファチマ・クルーセイダーについて、それが「教会について批判的であると思われる」がゆえに疑いを持つことはまったく滑稽である。シーディ神父は本当に、教会について批判的であることは不忠実なことあるいは罪深いことである、あるいは徳は波風を立てないよいイエス・マンたることに存すると考えているのであろうか?ファチマ・クルーセイダーは、それでもって聖ペトロ・ダミアノが彼の時代の教皇庁の高官たちを批判し非難した猛烈な雄弁に比較されるとき、小教区のブレティンのように穏やかである。彼は教会に対する彼の忠誠と愛のゆえにそのように精力的に教会を批判したのである。もし彼のしたことが悪かったならば、彼は聖人そして教会博士ではなかったであろう。聖アナタシウスは司教たちや教皇について非常に批判的であったので、教皇リベリウスによって破門されさえした。しかし聖人であり教会博士であるのはアタナシウスであって、リベリウスはそうではない。注2)

ファチマ・クルーセイダーがバチカン・モスクワ協定の政治的手段を公然と非難し、遺憾に思うのは教会と教皇に対する忠誠からである。この協定が体現しているなだめ、妥協そして屈服の政治学は神の教会の上にある絞首刑執行人の首吊り縄のようなものである。共産主義への屈服は進行中の東方政策の立案者であるカザロリ枢機卿の常軌を逸して恥ずべき言葉のうちに具体化されている:彼は「キューバ・カトリック教会とその霊的指導は常に社会主義(共産党)政体に対して何の問題も創り出さないように常に配慮している...カトリック教徒とキューバ人民一般は社会主義(共産党)政府とほんの少しの問題も持っていない。」と言っている。これは不誠実な嘘である。私自身、カトリック教徒の迫害と宗教的諸権利の抑制と制限がキューバにおいてどのように生じ続けているかを説明したキューバの司祭たちや高位聖職者たちのいろいろの談話に耳を傾けた。

教皇はわれわれの支持を必要としておられる

 教皇はバチカン・モスクワ協定のこのくびきから教会を自由にするための彼の努力においてわれわれの支持を必要としておられる。ロシアを奉献するように教皇に請願を提出することによって、われわれは教皇に、彼がしようと望んでおられないことをするように圧力をかけようとしているのではない。教皇自身、彼がクラクフの司教であったときに、ロシアの奉献を遂行するように教皇パウロ六世に請願を提出された。教皇は教会の残りの司教たちと共にロシアの奉献を遂行することを非常に望んでおられる。

1980年には、Soul Magazine においてさえ、教皇が「十分な[数の]司教たちがそれを要求するときには共同的奉献をする気になっておられる」と報道された。不幸なことに、ブルー・アーミーの指導部は今はロシアを奉献するという教皇の望みが実現されることを妨げるために働いている。ファチマ・メッセージを生き、聖母が要求なさったロシアの奉献の実現のために努力するためにわれわれの力においてあらゆることをすることによって、われわれはバチカン・モスクワ協定の束縛から教会を自由にし、そしてロシアの回心とマリアの汚れなき御心の勝利をもたらす困難な仕事において教皇を援助し支持するわれわれの役割を果たすであろう。

  1. すべての司教や枢機卿がバチカン・モスクワ協定に執着しているのではない。例えば、ラッツィンガー枢機卿、ロー枢機卿、オバンド枢機卿など。

     

  2. もっと正確に言えば、教皇リベリウスは司教たちが聖アタナシウスに対して宣告した破門を承認した。


世界の奴隷化か、それとも平和か(26)

2011年10月25日 | Weblog

第 X 部(続き)

聖母を沈黙させるための陰謀 -- 第II部

Father Paul Leonard 著 

組織の中傷キャンペーンは悪化している反「ファチマ・クルーセイダー」キャンペーンは単なるほのめかしで止まらなかった。あの組織のニュースレターの中で、彼らの記者たちの一人にとって、それ以上に文章を推敲することを拒否しながら、「ファチマ・クルーセイダーは過激派である」と書くことでは十分ではない。(おそらく、彼はそれが極端に客観的、信頼に満ちており、そして教導職に忠実であるということを意味しているのであろう。)彼は、そのまさにカトリック的な外見にもかかわらず、なお「あなたはその出版物を信用することができない」ということを強調している。彼はなぜ彼が正確にこの陳述をしているかを書きそこなっている。(おそらく彼は、あの組織の「党路線」を遂行しようとして真理を歪曲するためにはあなたはファチマ・クルーセイダーを信用することができないということを意味しているのであろう。)ある司祭は、あの組織の別の最近のニュースレターの中で、附加されたあの組織の記章と共に、「ファチマ・クルーセイダーは位階に対する叛逆と不信を永続化し、推奨している」という明白に名誉を毀損する主張を出した。

ファチマ・クルーセイダーは教皇と信仰を擁護する

実際は、ファチマ・クルーセイダーはまさにその反対のことを促進している:ファチマ・クルーセイダーは、彼らの教会の高位に関係なしに、教皇、教導職あるいは教会法に対して叛逆するすべての人に対する抵抗を奨励する。聖職者、あるいは司教でさえが教皇、あるいは神の律法あるいは教会に対して叛逆するとき、彼らに反対することは信徒の権利であるばかりでなく、また義務であるということは教会の普遍的かつ永続的な教えである。聖トマス・アクィナスは、司教たちはあらゆる事柄において従われるべきではないと説明している。というのは、司教たちの命令は時には神の律法に反することがあるからである。そしてそのような場合には、「人間たちに従うよりはむしろ神に従うことが必要である。」ある司教の命令は律法に直接に反することがあり得る。そのような場合には、臣下はより大きな権威に従わなければならない。さらに、臣下は「もし彼がそれにおいては臣下ではない事柄において命令を与えられるならば」彼の上長に従う義務はない(神学大全、2-2, 104.5)。

ガニョン枢機卿は誤った司教たちに抵抗するわれわれの権利を支持しておられる

教皇立家庭協議会の長であるガニョン枢機卿は The Wanderer における、よく知られている1983年インタビューの中で誤った司教たちに対する合法的な不同意と反対の主題に関して話された。この主題に関して、ガニョン枢機卿はこう言われた:「戦いの多くは、特定の歪曲が起こった場所、司教区や小教区において平信徒によって戦われてきた」と。そして彼は「小教区と司教区の水準で戦い、そして働く準備ができるように」グループや団体を勇気づけられた。

あの組織によって支持されたバチカン・モスクワ協定の裏切り

あの組織はどういうわけか、修正されるべき教会の諸問題についての筋の通った議論を提示することが悪いことであると示唆してきた。教会史と神学は両者とも、行政の諸問題においては、司教たちや枢機卿たち、そして教皇でさえ、誤りを犯し得るということを証明している。ファチマ・クルーセイダーは教皇ヨハネ・パウロ二世と共に、さらなる研究の下に、バチカン・モスクワ協定が霊魂たちの救いと教会の善に反するものであるということを見出した。ファチマ・クルーセイダーはこのことを証明してきた。注1)しかしあの組織の編集者はハーミッシュ・フレイザーへの公刊された手紙およびグルーナー神父への手紙の中で、バチカン・モスクワ協定は教会にとってよいものであると述べた。ファチマ・クルーセイダーへのあの編集者の手紙を引用すればこうである:「あなたは、ニコディムとティッセラン枢機卿が最終的に戦闘的無神論にではなく、ファチマの聖母の約束に役立つであろう協定をしたということ、...ロシアが回心するということを確信することができる。」あの出版物の編集者は Approaches の編集者ハーミッシュ・フレイザーへのその手紙の中で、バチカン・モスクワ協定は秘密を保たれるべきであると明らかに暗示している。

盲目の従順は悪魔から来る

何人かの教会の高位聖職者への盲目的な従順という、しばしば言及されるその組織の明白な方針は単に教会の教えに反するばかりではない。それは一つの本質的に共産主義的な原理である。第二バチカン公会議は正当な教会の権威への「筋の通った従順」を規定している。あの組織は、ソビエト連邦の共産党のように、公式的な「党路線」からのいかなる意見の相違 -- その意見の相違がどれほど道理を弁えたものであろうと、権威の乱用がどれほど大きかろうと -- をも許容しない。あなたは重大な誤りに陥っている司教たちに決して反対してはならない、あるいはあなたは「公式的」でないいかなる声をも決して認めてはならないという考え方はそれに対応するものをレーニンの「すべての権力をソビエトへ」-- 他の何者をも認めるな -- という政策のうちに持っている。

マルクス主義の教義への親近性

彼らの知覚した敵対者たちに対して故意の誤報や中傷を広める、その組織の手の込んだそして玄人はだしの方法そして彼ら自身の「党路線」から逸脱するいかなる声をも沈黙させる諸々の企ては国家安全のためのソビエト委員会(K.G.B.)の実践に驚くほど類似している。私はここで、あの言及されている平信徒の団体が左翼の邪悪な勢力によって潜入され、乗っ取られた(そういう趣旨の嫌疑は正当化されるであろうけれども)ということを示唆しているのではないのであって、ただ単に彼らの方針や実践がキリスト教的諸原理のうちに何らかの基礎を示すことからほど遠く、マルクス主義的教義と、その組織をバチカン・モスクワ協定に基づけられた東方政策の効果的な道具へと変えた政治化への親近性を反映しているという事実を指摘しているにすぎない。ロシアの回心はすでに始まったという一度ならず繰り返された彼らの提案した主張を支持するためにソビエト政府の長を引用し、そのことによってファチマ・メッセージの緊急性を小さくしている彼らをあなたが見出すとき驚いてはいけない。(彼らの出版物 1986年5月/6月号の p. 4 を見よ。)彼らはそのことによって同時に、モスクワが神とカトリック教会に対するその戦争をまさに止めようとしているということを示唆することによって、モスクワと共産党の「党路線」の巨大な欺瞞を永続化することを助けているのである。これは一つの明らかな虚言である。ファチマの聖母はわれわれに、「ロシアは世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう」と警告なさった。あなたはファチマの聖母の名の下に[上述のことを]広める彼らを期待したであろうか?それは悪魔の絶妙な処置であろう。

共産主義者たちは似たようなグループを乗っ取ろうと試みた

ソビエト連邦においては、ロシア正教の教会は大いに、秘密警察の道具である。G.R.U.(ソビエト軍事諜報局)の大佐であるオレグ・ペンコフスキーは西側に逃亡した多くのK.G.B. 幹部たちがそうであったと同じように、彼の文書においてこの事実を確証した。アメリカ合衆国へ寝返ったソビエト外交官であり K.G.B. スパイであったアレクサンドル・サハロフ(反体制派のアンドレイ・サハロフではない)は、カシュノヴェツキー大司教自身が秘密情報員であったとということを明らかにした。彼の仕事はアフリカにおける聖職者をソビエト寄りの見解へと影響を与え、K.G.B. のために秘密情報員を勧誘することであった。アメリカ合衆国へ寝返ったK.G.B. 秘密情報幹部のセルゲイ・ミャコフ大尉は反共産主義組織および教会の組織の中に、それらを中立化し、それらをソビエト外交政策の道具へと変えるために、潜入するというK.G.B. の目的を単純に述べた秘密文書を作成した。

K.G.B.、ニコディムそしてあの組織

バチカン・モスクワ協定を促進し、擁護することにおいて、その組織は、それをソビエトの外交政策と一致させる方向へとその方針を指示した。すでに1971年に、あの組織はK.G.B. 秘密情報員と交際関係を持っていた。その年に、彼らの組織の国際会議への15人の国家代表のうちのただ1人だけがよく知られたソビエト秘密情報員のニコディムの招待に反対した。ニコディムがソビエト秘密情報員であったことは疑いを容れないところである。クレムリン警備局長を務め、後にウィーンにおけるソビエトスパイを監督した弁務官として務めたペーター・デリアビン少佐は、アメリカ合衆国に寝返った後に、「あらゆる司祭は秘密警察の情報員である。モスクワのロシア正教会における二流の高官でさえ秘密情報員である」ということを証言した。(Chronicle-Telegraph of Elyria. Ohio, July 20, 1961).ニコディムは、ソビエトにおいて、上に言及された二流の教会人であった主座大司教ニコライの助手として一年間務めた。ニコライの跡を継いだのは、助手として一年間務めた終りのニコディム大司教であった。ニコディムはその役職としてはそのとき異例の若さ、わずか31歳であった。彼はその地位にフルチショフによって据えられた。 ニコライは、アソシエイテッド・プレスが1956年6月6日に報道したように、彼が「共産主義者たちに協力した」ということを否定したけれども、デリアビン少佐は、合衆国上院国内安全小委員会の前で(1959年5月5日)、K.G.B. の命令の下に彼自身が、彼らの秘密情報員ニコライに協力したということ、そしてウィーン平和会議へのソビエト代表団がウィーンへ到着しようとしていた時に、コヴァレフ大佐が彼に「代表団の世話をするように」という命令、そして「首座大司教ニコライは国家安全局の秘密情報員である」という電報を付託したと証言した。明らかに、ニコライが暴露された後に、彼は交替させられたのである。ニコディムが彼の交代要員であった。ニコライと同様に、ニコディムは彼の代表団が海外で会議に出席した時には、ソビエトの高官たちによって援助された。ロシア正教会がニューデリーにおいて世界教会協議会へと受け容れられた時(1961年11月)、ニコディム代表団は、ロンドンの「デイリー・テレグラフ」の報道によれば(11月22日)、「彼らの快適さと彼らのすべての費用の責任を持つロシア政府秘密情報部員に伴われて」いた。

ニコディムはウクライナ・カトリック教会について嘘を言っている

ニコディムはまた、彼のソビエト政府の助言者たちによって命令された通りに共産主義のプロパガンダのラッパを吹き鳴らした熟達した嘘つきであった。ニューデリーでのある記者会見において、彼は次から次へと一つの嘘 -- ソビエト連邦の共産党の公式的な路線を反映したすべての証明された虚言 -- を繰り返した。その会見の中で、ニコディムはこう言った:「ソビエト社会主義連邦共和国の憲法によって保証された他の市民的諸自由と並んで、宗教的礼拝の完全な自由がU.S.S.R. のすべての人民によて享受されている。」いわゆる「リュヴィヴの司教会議」が一方的にウクライナ・カトリック教会を廃止し、それをロシア正教会に統合した1946年以来、ウクライナにおけるカトリック教会は最も血なまぐさい迫害を苦しんできた。「あの司教会議にはカトリック司教たちは誰一人列席せず(彼らは全部投獄された)、そして信徒の大部分が反対したからして、ウクライナ・カトリック教会のローマとの一致は決して破られなかった。そしてこの教会の『モスクワの母なる教会』の懐への立ち戻りは決して起こらなかった。」(Alexis Ulysses Floridi S.J., Moscow and the Vatican, Ardis Publishers, 1986, p. 246.)

ニコディムはあの組織の編集者によって称賛されている

これらすべての事実にもかかわらず、しばしば言及される出版物を取り仕切っている編集者は、ハーミッシュ・フレイザーへの署名入りの公表された書簡の中で、こう書いている:「そしてニコディムは彼のソビエトの主人との非常にみごとなそして困難な路線を歩いた。彼らは彼がもう一人のトマス・モアであるかどうかを実際に知ることはできないであろう。しかし、彼はそうであった。」注2)過度のお世辞を通り越して、あの編集者は、彼がソビエト秘密情報員ニコディムの精神を高揚させるような外見によって、その同じニコディムがあの組織の事務所を訪問した時に、どんなに深い感銘を与えられたかということを表明するところまで進んでいる。スリピ(Slipyj)枢機卿の報告(1980年7月28日、ファチマ・クルーセイダー, No. 8, p. 24 を見よ)の中で、ウクライナ・カトリック教会の首座大司教は、10人の司教、1,400人以上の司祭、800人の修道女、そして数万人の信徒が「彼らの生命を犠牲にして教皇、使徒座そして普遍教会への彼らの忠誠の印を押した」、と宣言した。これらの事柄はニコディムが首座大司教であった間に起こった。モスクワ大司教区とニコディムの外交関係部局の公式的な立場は、ソビエト連邦においてはどこでも誰の宗教的自由も侵害されなかったし、今も侵害されていない、そしてウクライナ・カトリック教会の血塗られた抑圧は U.S.S.R. の正教会の厳密に内部的な問題であるというものであった。

左方への漂流

その組織は現在、マーティン・シーンの映画「緊急事態の国」を奨励中である。中央アメリカそして急進左翼の司祭ダニエル・ベリガンについての左翼的なドキュメンタリーの語り手を務めたシーンは、彼の共産主義的な見解から回心しなかった。1985年9月に、シーンはロスアンジェルス、ノースリッジのカリフォルニア州立大学の「ティーチ・イン」において指導的な役割を担った。その中で、「彼は(共産主義的な)サンディニスタの指導者たちのことを称賛すること以外のことをしなかった」。彼らは、シーンに従えば、「人間的で、正しくそして民主的」である。(ロスアンジェルス・タイムズ、1985年9月20日)。それは、教皇ヨハネ・パウロ二世がニカラグアを訪問したときに、教皇を公的に侮辱したその同じ共産党政府である。ニカラグアの司教たちは、シーンが「人間的で、正しくそして民主的」と呼んでいる共産党政府による宗教的、市民的諸権利の抑圧に対して現在抗議しているところである。シーンの映画に対するその組織の職員たちの一般的な反応は、彼ら自身の出版物によれば、「熱狂的」だった。おそらく、クレムリンにいる人々もまた、あの見かけは無害な平信徒団体の着実な左方漂流について熱狂的であろう。

  1. The Fatima Crusader issue No. 16, p. 9ff, 11, 12ff(see pages 263ff, 329ff, 301ff respectively, of this book); No. 17, p. 7ff, 11ff, 19ff(see pages 279ff, 294ff, 140ff respectively of this book).

     

  2. See Approaches, Issue No. 88 Supplement "Postscript To Rome-Moscow Agreement".

     

  3. Russel P. Moroziuk, Politics of a Church Union, (Church Herald, Chicago) 1983, p. 112.

 


世界の奴隷化か、それとも平和か(25)

2011年10月24日 | Weblog

第 X 部

バチカン・モスクワ協定がファチマの聖母のメッセージに及ぼした不幸な諸結果

ファチマ・メッセージにとって、霊魂たちの救いにとって、そして世界平和の理想にとって最も不幸なことに、バチカン・モスクワ協定はシスター・ルチアとファチマ・メッセージの重要な部分を沈黙させ、聖母が要求なさったロシアの奉献を遂行することから教皇と司教たちを妨害した。この第 X 部において提示された諸論考はこの損害の大きい協定から結果した諸結果を、それらがファチマ・メッセージに関係する限りで、検討している。これらの論考はまた、諸々のグループや個人が、教会においてさえ、どのように奉献をすることから教皇や司教たちを妨げようとしているかを知らしめる。

シスター・ルチアは沈黙させられた!

シスター・ルチアは沈黙させられた。そのことについては疑いはない。25年以上にわたって、シスター・ルチアはファチマの聖母のメッセージ全体を世界に告げることを許されてこなかった。ある人々はこのことをショッキングなことだと思い、他の人々はそれを信じない。彼らはどういうわけか真理を認めることは教会に対して忠実でないと考える。しかし疑いなくシスター・ルチアは沈黙させられている。

それでもなおシスター・ルチアが何人かの「高官たち」によって沈黙させられてきたということを疑う人々のために、われわれはただ次のような諸事実について思い出すだけで十分である。あるアメリカ合衆国の1982年7月・8月号の雑誌において、1982年5月にシスター・ルチアが、ロシアの奉献はファチマの聖母の要求に従ってなされたと述べた、と言い立てられた。この事実に反する話、この粗雑な悪ふざけ、注1)は世界中に報道され、多くの人々によって信じられた。このまったくの虚言を否定するためのシスター・ルチアの最初の公式的な機会は1983年3月19日になってはじめて彼女に与えられた。

その日にポルトガル教皇代理がコインブラへ行った。ポルタルピ大司教閣下がシスター・ルチアに特に会うために行ったのである。彼は二人の証人を一緒に伴った。シスター・ルチアは書面にした陳述を準備していた。シスター・ルチアが申し立てられた1982年5月インタビューの事実に反した上述の報道をそのときそこで否定したのはその歴史的な機会にであった。彼女はこう述べた:

ロシアの奉献は聖母が要求なさったようには、為されませんでした。」そして「私は、聖座の許可を得ていませんでしたので、そう言うことができませんでした。

このように、全世界の平和がそれに依存しているこの重要な問題、すなわちロシアの奉献の問題において、全世界は9ヶ月の間誤り導かれた。なぜなら、シスター・ルチアは1982年8月から1983年3月まで話すことを許されなかったからである。彼女が沈黙させられたことは明らかである。彼女は今日までそのままにとどまっている。

ポルタルピ大司教との1983年3月19日のシスター・ルチアの議論の余地のないインタビューにもかかわらず、1986年5月の今日に至ってもなお、1982年5月の偽のインタビューが今なお善意の人々によって広く信じられている。この事実に反した報道 -- それはそれを公表した人々によって今日までまだ撤回されていない -- の結果として、ファチマの聖母の敵どもはロシアの奉献のために教皇に請願を出すことから信徒を引き留めることに成功してきた。

信徒は、もし彼らがシスター・ルチアが沈黙させられたことによって無知のうちにとどめおかれなかったならば、このこと[教皇への請願提出]をなしたであろう。真理が単純に世界に知らされてさえいれよかったのに。人々が、諸民族の絶滅は、もし教皇と司教たちが、ある特別の日に一緒に、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献するときにのみ避けられ得るということを知っていればよかったのに。

信徒は、もし彼らがこれらの事実を知っていたならば、実際立ち上がり、そして教皇と司教たちが適切にロシアを奉献するために彼らの義務を果たすようにうやうやしく要求したであろう。

申し立てられている1982年5月インタビューの公表者たちが今なお彼らの事実に反する話を撤回しないでいることができるのは、シスター・ルチアが沈黙させられている(シスター・ルチアが選ばれた少数の人々に公式的な陳述をすることが許されている稀な機会を除いては)がゆえである。

これらの人々は同時に信用性の外見をファチマ情報の価値のある源泉として主張している。信徒の多くはこのようにしてシスター・ルチアが沈黙させられたことによって無知のうちにとどめられているのである。もっと悪いことは、これらの信徒が、シスター・ルチアが実際に考えていること、そして彼女の稀な公式の陳述において言っていることに関して積極的に誤り導かれ、欺かれていることである。

シスター・ルチアが沈黙させられているという事実による、誤報を広めるというこの実践は何年も前から始まった。それは25年以上も前に遡る。1957年12月26日のフエンテス神父に対してシスター・ルチアによって公式になされた一つの真正のインタビューがあった。

ファチマ・クルーセイダー、第19号 p. 3 において報告されたその真正のインタビューの間に、シスター・ルチアは「善人たち」と「悪人たち」の両方によるファチマ・メッセージの露骨な無視を論じた。彼女は、ファチマの聖母のメッセージを無視する結果として、どのように「多くの民族が地の面から消え去る」かを続けて語った。彼女は聖母の真に緊急の警告を無視するこの態度の結果として地獄に行くであろう数え切れない数の霊魂たちについて語った。

このインタビューの勇敢な公表の結果として、フエンテス神父は、シスター・ルチアが住んでいるコインブラの司教区のある匿名の当局者からのまったく相応しくない、前例のない迫害を受けた。この名無しの、顔のない、存在しない「当局者」は匿名で、その司教区の教区報に、どのようにして彼が知ったかを指摘することなしに、シスター・ルチアはフエンテス神父が報告したようなことは言わなかったと公表した。

法の諸原理と同様に、常識はわれわれに、匿名の当局者によってなされた陳述はいかなる真の権威ある価値も持たない、そしてこれはいくつかの理由でそうであるということを告げる。

まず第一に、もし、実際に、それが真実であり、そして彼がそれをどのようにして知っているのかを尋ねるならば、シスター・ルチアに関するこの上述の情報を持っていると申し立てている人物に尋ねることによってその真正性を確かめること、検証する道が何も存在しない。そのような陳述を検証するいかなる方法も存在しないから、そのような陳述をすることに対する責任を引き受けようとする者が誰もいないから、われわれは、そのような陳述がなされたことは決してないと結論することができるのである。

第二に、ある当局者がそのような陳述をしているという事実はそれを「公式の陳述」とするに十分ではない。なぜなら、もしある当局者が彼の命令あるいは陳述に対して公的に身元を確認されることによって責任を引き受けようとしないならば、そのとき、彼の陳述は実際無効であり、法においていかなる権威も持たないということは、市民法および教会法の両方に当てはまる自然法の原理であるからである。

1971年にファチマの司教のための公式の記録保管係となったアロンゾ神父は最初は、コインブラの司教館の「公式の」立場を採用した。しかしながら、彼もまた、その問題を深く研究した後には、1976年までにはフエンテス神父の擁護にまわった。

彼はそのときこう言った:「正義においてフエンテス神父に唯一帰し得るものである真正のテキストは私の意見ではコインブラの非難の通達を引き起こしたものを何一つ含んでいない。正反対に、それはキリスト教の人々を敬虔に教化するのに非常に適している教説を補強する。」1976年までに、アロンゾ神父はフエンテス神父もシスター・ルチアもこの真正のインタビューの報道によって世界を誤り導かなかったということを知っていた。

あるマリア組織は最近号において、シスター・ルチアの名において話す振りをしながら、彼女が、フエンテス神父に、神父が世界に報じたことを決して話さなかったと述べながら、コインブラの司教区の匿名の当局者に今なお言及する図々しさを持っている。シスター・ルチアに公式に、公的に質問することを、25年以上にわたって許されてこなかったし、次にその問題の真相が何であるかを公表することを許されてこなかった。もしシスター・ルチアが司教区の一人のスポークスマンにこのことを告げたのであれば、なぜ、25年後に、われわれは彼の身分証明を持っていないのであろうか?シスター・ルチアがそのような宣言をするために彼女自身で話すことが許されないのはなぜなのか?

われわれは、フエンテス神父の大司教が自分の司祭を公的に擁護していること、そしてメキシコの枢機卿でさえがシスター・ルチアとのフエンテス神父のインタビューの真実性を公的に擁護したということを知っている。

反対に公衆に押しつけられた誤報キャンペーンにもかかわらず、シスター・ルチアは少なくとも1960年までには第三の秘密を世界に明らかにするように聖母によって求められた。シスター・ルチアは聖母の命令を守ることを十分に望んでいるが、しかし許されなかった。1967年には、あるファチマ専門家に従えば、彼女は個人的に、教皇パウロ六世に、彼が秘密を世界に明らかにするように訴えたが、しかし教皇は拒否された。

悲しいかな、リスボンの大司教が個人的にシスター・ルチアに、1960年には秘密を世界に明らかにすると約束したにもかかわらず、彼はそうすることができなかった。というのは、そのテキストはある人々によってバチカンに移されていたからである。(ファチマ・クルーセイダー、第20号、p. 2 のフレール・ミッシェルの論考を見よ。)

シスター・ルチアが沈黙させられてきたのは、彼女が余りにもはっきりと話すからである。ファチマのメッセージが世界に十分に知られないのは、彼女が沈黙させられてきたからである。われわれの敵ども、そして神の敵どもが地の面を進み続けているのは彼女が沈黙させられ、聖母が従われてこなかったからである。

1. この書物の p. 369 以下を見よ。

 

暴露された反ファチマの故意の誤報戦術

Father Paul Leonard 著

(聖母を沈黙させるための陰謀 -- 第I部)

祝せられたおとめがファチマで世界に宛てられたメッセージは、そのまさに本性と起源のゆえに、一つの非常に深刻な問題である。故意の誤報を通じてそれを誤り伝えることによって一つの無責任な仕方でそれを扱う者は誰も、その生き残りが聖母の要求の実現に依存している人類に対して大きな害を与えるばかりではなくて、もっと悪いことには、神の御母御自身に対する真面目さと尊敬の欠如を示すのである。それ自身、公衆に誤った情報を与えている罪がある、そのまさに目的がファチマのメッセージを広めることであり、聖母の要求の実現のために働く組織あるいは出版物は、二つの理由で公的な矯正を必要とする。

1.祝せられたおとめに対して犯された公的な不正を正すために。

2.彼らに宛てられた聖母のメッセージを故意に歪めた無責任な歪曲によって誤った情報を伝えられてきた公衆に知らせるために。

ややうぬぼれた、比較的小さな、しかし影響力を持ったファチマ志向の平信徒のある団体がかなり長い期間にわたってファチマの聖母のメッセージを曲げて伝え、歪める実践に関わってきたということは非常に不幸なことである。彼らはまだ、彼らがその実践を思いとどまる意図があるということを示す何らのことも為していない。特に、私がここで言っているのは、ファチマの聖母によって要求されたものとしてのロシアの奉献に関して、それをすでに為されたものとする彼らの方針である。同様にまた、私は、奉献は実際になされているという印象を造り出すために彼らが採用した破廉恥な手段のことも言っているのである。

ルチアへの無名の1982年インタビュー -- 無礼な悪ふざけ --

 あの平信徒の団体 注1)(後には「組織」として言及される)の公式な発表の1982年7月8月号において、編集者は彼の読者たちに「シスター・ルチアとの独占インタビュー」であると偽って称する論考を提供した。それが公表された形式におけるその「インタビュー」の重大な諸欠陥はそれら自身で、その真正性を疑うための積極的な理由を十分に構成している。第一に、インタビューをした人物は身分を明かしていない。そしてその結果として、誰もインタビューをした人物に、彼がどのように、あるいはいつシスター・ルチアと個人的に話すことができたかを問うことができない。換言すれば、そのインタビューの真正性がそれによって検証され得るいかなる手段も絶対的に存在しないのである。そしてそれゆえ、無名のインタビューアーが決して知られなかったゆえに、それはそのままである。

そうだと主張されているインタビューにおいて、無名の質問者はシスター・ルチアに、「世界の司教たちと一致して教皇によってなされたものとしての(1982年5月13日の)この奉献は1929年6月13日に聖母の御出現に従ってわれらの主と聖母が要求なさっているものであったのか?」どうかと尋ねた。シスター・ルチアのそう主張されている答は:「はい、そうです。」さらなる質問:「われわれは、奉献が示唆されたようになされたかどうかを疑っていた。なぜなら、教皇は奉献そのものにおいてロシアに明白に言及されなかったからである。」そうだと主張されている答:「教皇様は全世界を奉献なさいました。そしてロシアは含まれています。そして教皇様はこの奉献を最も必要としている国々に言及なさったときにロシアのことを言っておられたのです。」

陳述はシスター・ルチアと矛盾する

確立されたそして検証された諸事実は疑問の余地なく、その「インタビュー」がまったく偽造のもの -- 無礼な悪ふざけ -- であるということを証明している。このことは、シスター・ルチアがそうだと主張されているインタビューの前に書いたすべてのことがその中で彼女が述べたと主張されていることと直接的に矛盾しているがゆえに、そうである。

シスター・ルチアは1929年6月13日の御出現において聖母が語られた言葉をこう書き留めた:「神が教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、この手段によって世界を救うと約束なさりながら、ロシアを私の汚れなき御心に奉献するようにお求めになる時が来ました。」

彼女は1938年にゴンサルヴェス神父に与えたテキストにおいてこう書いた:「善き神は、もし教皇様が、イエズスのいとも聖なる御心とマリアの御心に、償いとロシアの奉献の荘厳かつ公的な行為をなさり、そしてカトリック世界のすべての司教たちによって為されるように命令されるならば、そしてもしこの迫害の終結の引き換えに教皇様が償いの信心(五回の初土曜日)の実践を承認し、推奨することを約束されるならば、ロシアにおける迫害を終わらせると約束なさっています。」

再び彼女は1936年5月18日の日付の手紙の中でこう書いた:「...ロシアの奉献を手にするためにもし強調することが相応しいならば、...私はわれらの主に、教皇が奉献をなさることなく、なぜロシアを回心させられないのですかと尋ねました。(われらの主はこうお答えになりました。)『それは、私の全教会がその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認めることを私が求めているからである』と...」

1930年6月12日に彼女はこう書いている:「...もし教皇様が御自身で償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさるならば、...同様にカトリック世界のすべての司教様方に同じことをするように命令なさるならば。」

1982年3月21日に、シスター・ルチアはリスボン教皇使節、ポルタルピ大司教、レイリアの司教、そしてラセルダ博士の列席する中で、教皇は全世界の司教たちに、それぞれが彼自身の司教座聖堂で、教皇によって為された行為と同じ時間に、償いとイエズスとマリアのいとも聖なる御心へのロシアの奉献という公的、荘厳な行為をするように命令する日にちを選ばなければならないと断言した。(Fidelite Catholique, April 1983 を見よ。)

このように、1982年5月「インタビュー」以前のシスター・ルチアの陳述と書き物のすべては、(1)ロシアが奉献の特殊的な対象でなければならないということ、そして(2)この奉献は世界のすべての司教たちによって、同じ日に、それぞれの司教がそれを彼自身の司教座聖堂で荘厳、公的な儀式において遂行しながら、為されなければならないということを明白にそして曖昧さなしに述べている。

ルチア自身が後にインチキのインタビューとはっきりと矛盾している...彼女は沈黙の命令の下にあることを明らかにしている

1982年5月13日に続く時期に、さまざまの個人が、5月13日に教皇ヨハネ・パウロ二世によって為された世界の奉献の行為が実際、聖母の要求に一致したものであるかどうかについて彼女から聞くためにシスター・ルチアとの接見を求めた。シスター・ルチアが沈黙の命令の下にあったために、彼女は「勇気づけ、なだめ、希望的に聞こえるであろうありふれた意見」をいくつか述べることができたにすぎない。ピエール・カイヨン神父はこう述べている:「特に、一人のブラジルの弁護士、ブルー・アーミー・ブラジル代表がある日、ファチマにあるカルメル会に現れた...」彼は奉献についての彼女の非陳述の言葉から、至るところで人を誤り導いている、その奉献が為されたということを誤って推測した。

次の年、1983年3月19日に、ポルトガルにおける教皇の公式代理であるポルタルピ大司教は、1982年5月13日の教皇の奉献の行為についてシスター・ルチア自身が考えたことを厳密に確定するために特別にシスター・ルチアに会いに公式の職務としてコインブラに行った。そのインタビューは午後4時から6時半まで2時間半続いた。大司教は二人の有名な証人を伴っていた。ラセルダ博士とメシアス神父である。シスター・ルチアは公式に読まれ、そしてそれについて彼女がコメントした書面の陳述を用意していた。彼女は彼らにそのとき次のように語った:

(1)「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようには、為されませんでした。そして(2)「私は聖座の許可を得ていなかったのでそう言うことができませんでした。」すなわち、彼女は沈黙の命令の下にあった(そして今もある)ということである。注2)

この公式の陳述において、彼女の以前の陳述のすべてに一致して、シスター・ルチアは、前に言及したインチキのインタビューにおいて彼女の無名の質問者によってその前の年に彼女に帰せられた言葉とはっきり矛盾している。さらに、彼女は従順の下に彼女に課せられた沈黙の厳格な命令に彼女が違反することなしに、そうだと主張されている陳述が彼女によって為されることはできなかったということにおいて、あのインタビューのいい加減な性格を明らかにしている。

シスター・ルチアのこの公式で、正式で、そして公的な陳述によって、Soul Magazine, July/August 1982 において公表された、そうだと主張されているインタビューがいかなる基礎も持たず、そしてまったく事実に反するものであるということは誰の目にもまったく明らかである。

インチキのインタビューは決して撤回されなかった

シスター・ルチアの上述の公式的な断言にもかかわらず、あの[インチキの]発表は後になってもなお彼らの1982年7月/8月号において公表した彼らの明らかにインチキのインタビューに言及する無分別な大胆さを持っていた。彼らはこのことを1983年5月/6月号、並びに1983年9月/10月号において行った。その組織は彼らの明らかに偽りの立場を擁護するために、少なくとも1984年初めまで、このインチキのインタビューを真正のものとして言及し続けた。その出版物の1983年5月/6月号においてわれわれは「シスター・ルチアは奉献はなされたと言った」と書かれているのを読む。

それに委ねられた霊魂たちを混乱させるために、その出版物は、奉献は為されたと強調し、しかしそれが「不十分」であったと示唆する、という手段を取った。「達成されるべき非常に重要な行為がなお残っている...この『最後の局面』は来ることができるであろう...」そして、「ロシアの奉献の最初のそして最も重要な局面が今やなされた。」「最初の局面」と「最後の局面」についてのこのすべてのナンセンスがその出版物の編集者の発明であることに注意しなさい。これらの概念はシスター・ルチアの言葉とファチマの聖母の言葉に矛盾している。聖母はかなりの長さの時間によって分けられた奉献の連続的な行為についてどこででも語っておられず、同じ日の一つの行為をはっきりと指定なさった:すなわち、それは「教皇」による、そして「それぞれが彼自身の司教座聖堂において、...教皇と同じ時間に[行う]、カトリック世界のすべての司教たちによる」ロシアの奉献の公的、荘厳な行為、である。

問題を明らかにするために

あの組織がこれらの諸々の誤謬と歪曲を広めることによって造り出した混乱を終わらせるために、ファチマ・クルーセイダーは、1983年5月に、なぜ奉献がなされなかったのかを正確に説明するシスター・ルチアの逐語的なテキストを公表した。シスター・ルチアの言葉を含む1982年7月18日の手紙にはこうある:「教皇様によって為された奉献は、聖母がそのように強調して要求なさったものではまだありませんでした。」これは上述の、前に引用した1936年5月18日付け、および1930年6月12日付けのテキストと共に現れた。1983年10月と1984年9月に、ファチマ・クルーセイダーはその中で彼女が奉献は為されなかったと明白に主張しているシスター・ルチアの検証され、真正のものと認められた書簡と公式的な断言とを再現した諸論考を公表した。*

* この書物の p. 159 以下を見よ。

しかしながら、その組織はその誤った立場から一歩も引き下がらなかった。誤りを犯したと認め、自らを正すよりはむしろ、その組織の1983年9月/10月号は p. 14 で、ロシアの奉献に関するその論考(1983年5月/6月号)によって現状のままであると公表した:それはこう言っている。「われわれは申し分のない情報の出所によって、この論考がこの主題に関するシスター・ルチア自身の考えを完全に反映しているということを今や知らされた。」そしてこれは、1982年5月のインチキのインタビューを明白に暴露しているシスター・ルチアの公式的な陳述の後である。彼らが、その1983年9月/10月号において1983年3月18日にシスター・ルチアによって述べられた公式の陳述に明らかに矛盾するこの虚言をそのように愚かにも印刷したことは信じがたいことであるが、しかしにもかかわらず、真である。これが単なる見落としあるいは間違いでないことは、その組織の出版物の1984年1月/3月号によって明らかとされた。p. 8 の論考「共同的奉献、然りか否か」は、「シスター・ルチアは共同的奉献が起こったと述べているものとして記録されている」と言いながら、1982年5月の偽のインタビューを引用している。

欺瞞に加えられた欺瞞

あの組織の出版物の1984年1月/3月号の中で、共同的奉献に関する同じ論考のうちに、われわれは一つの付加的なそして古典的な故意の誤報の一部を読む:「1946年の奉献の後に、彼女は...それはなお神が要求なさったものではなかった。われわれは1982年奉献の後にはシスター・ルチアからそのような陳述を聞かなかった。」これは明らかに事実に反する。シスター・ルチアは1983年3月19日に教皇代理に対して彼女の公式の陳述を提出した。その中で彼女は「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようには、為されませんでした」とはっきり述べた。ファチマ・クルーセイダーは、1983年10月に非常に大きな活字で p. 3 にシスター・ルチアのこの陳述を公表するスペースを見出した。確かにあの組織はそれがそのように重要なものであり、そして情報に基づいているという振りをしながら、1984年1月までには1983年3月19日のシスター・ルチアの公式の陳述を受け取っていたのである。(最終的に3年後の1986年3月/4月号において彼らは公式的陳述のニュースを受け取っていたということを認めている。)

他の欺瞞と取り替えられた一つの欺瞞

あの組織は、その1986年3月/4月号の p. 8 において、シスター・ルチアが1983年3月19日に教皇使節(モンシニョール・サンテ・ポルタルピ)に、「1982年5月の教皇ヨハネ・パウロ二世の奉献は聖母の要求に従ったものではなかった」と語ったことを最終的に認めている。この承認がつい二三年前までは強く主張されていたインチキのインタビューを明白に撤回しないのだけれども、この陳述の明白な含意は、例のこの出版物の読者たちはあの当時誤り導かれていたのである。

この欺瞞が放棄されたのは、ただ1984年3月25日に起こったマリアの汚れなき御心への教皇ヨハネ・パウロ二世による世界の奉献のゆえにだけであると思われる。その奉献について、あの出版物は彼らの1986年3月/4月号の p. 22 において、「教皇は、1929年6月13日の御出現において要求されたように、マリアの汚れなき御心への奉献を、世界のすべての司教と一致して、なさった。」と明瞭に述べている。そのメッセージは、1982年の出来事についての以前の主張が事実に反し、そして詐欺の資料に基づいたものであったことは問題ではないということであると思われる。なぜなら、1984年の出来事が奉献を達成したから「というわけである]。

ルチアの公式的な陳述は1984年奉献に対する最新の主張に矛盾する

まず第一に、1984年に用いられた奉献のテキストは1982年5月13日の教皇の以前の奉献のテキストと実質的に同一であった。そのテキストに関して、シスター・ルチアは1983年3月19日に、ロシアの奉献は1982年には達成されなかった、なぜなら、ロシアが明白に奉献の対象ではなかったからであり、また、各々の司教が彼自身の司教座聖堂においてロシアの奉献の公的、荘厳な儀式を行わなかったからだと、公式に述べた。このように、シスター・ルチアの公式の陳述が彼らの以前の主張(1982年5月13日の行為はファチマの聖母の要求を満たしたという主張)は詐欺的なものであるということを認めることによって、あの「例の」出版物の編集者たちは、1984年奉献もまた、聖母の命令を遂行することに失敗したということを必然的に認めなければならないのである。

これは必然的にそうである。なぜなら、ロシアは明らかに、聖母によって要求されたようには、いずれの奉献の対象でもなかったからである。誠意のある一組織がどのようにして、聖母の要求を満たすのに十分でなかった1982年に用いられた同じ言葉が1984年に繰り返されたとき十分だったと、主張することができるのか?

不幸なことに、あの出版物の編集者たちによって採用された矛盾する「二重思考」の態度は何ら新しいものではない。1972年に、あの出版物は奉献はなされなかったということを明らかにしている。1973年(1973年7月/8月、pp. 9-10)には、彼らはロシアの共同的奉献が第二バチカン公会議で(そこでは、その奉献においてどんなロシアへの言及もなされなかった)果たされたということを提案した。次に、1975年4月に、彼らは「ロシアの」共同的奉献のために教皇に請願を提出する署名キャンペーンを始めている。

「組織」によって採用された編集者たちが何年にもわたって偽りと歪曲の普及によって彼らの信用性を失ったということは十分に悪いことである。しかしその組織はその立場のしばしばの逆転によってその信用性をさらに堀り崩した。あの組織が、首尾一貫した立場を取るに十分な節度を示し、曖昧でない、事実的な態度において真理を普及している何らかのグループあるいは出版社の信用を落としたりあるいは沈黙させたりするあまり良心的でないキャンペーンに乗り出したのは、おそらくそれが根拠薄弱な前提の上に立っているということを理解してであろう。

補遺

ファチマ・クルーセイダーは、これまで単純に欺瞞や歪曲なしに諸事実を公表することによって、この組織の怒りを招いた。この組織は公然たる中傷発言を突然やめて、ファチマ・クルーセイダーがどういうわけか教会法上の合法性を欠いているという印象を創り出そうとしたように思われる。

混乱は西海岸における曖昧なグループに関連させることによって蒔かれた

1985年に二度、その組織は、ワシントン州スポケインに根拠地を持つファチマ・クルーセイダーズの一つの曖昧な、そして実践的に未知の分派的グループについての人目を引く警告を公表した。これらの警告の終りに、一つの後から思いついたこととして、一行の否認が、彼らは「カナダにおけるファチマ・クルーセイダーズ」には言及していないと注記した。しかしながら、「カナダにおけるグループ」は「ファチマ・クルーセイダーズ」と呼ばれていない。-- そのような組織は存在しない。「ファチマ・クルーセイダー」(単数形)、という雑誌は、国際ファチマ・ロザリオ十字軍およびナショナル・ピルグリム・ヴァージンの公式の出版物である。

再び彼らの最近号において、あの組織の出版物はこの種の歪曲の手続きに頼っている。ファチマ・クルーセイダーを非カトリックの諸組織に関係づけるこの欺瞞的な実践は、ファチマ・クルーセイダー(雑誌)がどういうわけか上述のスポケインのグループと関係を持っているという印象を創り出すための意図的な試みであると思われる。このことは、編集者たちが、ワシントン州のスポケインにおける分派的な組織がカナダにおける「ファチマ・クルーセイダーズ」とは区別されるべきであると巧妙にも強調し、一方でファチマ・クルーセイダーとあの分派的なグループとの間にはどんな関連も絶対にないという事実についてのすべての言及を巧妙に欠落させているということにおいて、明らかである。

いかなる「公式の」ファチマ使徒職もない

教会は平信徒あるいは司祭のいずれの団体の教会法上の承認をも要求しないからである。このように、「自己宣言した公式の」ファチマ・メッセージの担い手は、どの組織が合法的なものとして認められるべきかを宣言する法的権限を持っていないのである。

その司教の意見は少なくともその含意において、教会法とは折り合わない。教会法は、私的個人lは「聖職者あるいは平信徒、あるいは聖職者と平信徒が一緒であろうと、団体を構成する権利を持っている」(教会法 298-299)と明白に述べている。

換言すれば、彼らの故意の誤報によって創り出された偽りの印象にもかかわらず、カトリック教会の今日の実際の法律はファチマ・クルーセイダーおよび国際ファチマ・ロザリオ十字軍のために教会法上の承認を必要としないのである。

さらに、彼らの団体もまた教会の承認を必要とないし、また、彼らがそれを持っている振りをしているとしても、一つの「公式的な」教会法上の地位を持ってもいないのである。

彼らの組織がある場所において認められたという単なる事実は彼らに何らかの公式的な教会法上の地位を与えない。彼らは教会の名において語る何らの法的権威も持たない一平信徒団体にとどまる。この事実は、あの司教にあの平信徒の団体の長の地位を引き受ける許可をあたえる文書において適切に証明されている:その文書は1982年2月3日付けのものであり、教皇立平信徒協議会によって発布された。その文書は単に司教に対する許可であり、それはあの組織に何らかの地位を与えるものではない。

  1. Soul Magazine はファチマの聖母のブルー・アーミーのアメリカ合衆国支部によって発行されている。
  2. Approaches Supplement to Issue No. 82 "Fatima May 13, 1982 What Actually Happened". を見よ。また、Fidelite Catholique April 1983, The Fatima Crusader issue No. 13-14, p. 3 および issue No. 16, p. 22 をも見よ。この書物の p. 159 以下を見よ。

 

 


世界の奴隷化か、それとも平和か(24)

2011年10月23日 | Weblog

第 IX 部(続き)

 ウクライナのカトリック司教たちはロシア共産主義者の迫害に抗議する 

1980年11月25日から12月1日までローマにおけるウクライナ・カトリック司教会議の間に、司教会議は1946年のいわゆる「リュヴィヴ司教会議」(1971年にロシア正教会によって正式に裁可された)の教会法上の無効性と違法性を正式に宣言した。ロシア正教会は一方的にウクライナ・カトリック教会を廃止し、そしてそれをロシア正教会へ統合した。司教会議はその宣言を次のように述べた:

神なる救世主は御自分が創設なさった教会に、聖ペトロの後継者、教皇の指導と警戒の下に、使徒たちの後継者、司教たちによって教会に固有のすべての問題が共同的に解決されることを許す一つの組織的な権限を委ねられた。

ウクライナ・カトリック教会はローマの使徒の司教座との一致を更新する決定をした1956年にブレスト・リトヴスクに集まった司教たちの会議においてこの原理に従った。そしてウクライナ・カトリック教会はこの聖なる一致を、すべてのウクライナの司教たちが彼らの主教たちと共にそれに加わった数十年後に完全に達成されるものと考えている。

それゆえに、1946年リュヴィヴ(レオポリ)においてソビエト政府当局からの強制の下に数人のウクライナの司祭たちの発議で召集された会議(司教会議ではない) -- そしてその会議は自らを「司教会議」と宣言した -- はいかなる仕方においてもわれわれの教会の合法的な司教会議であることはできないし、また決してそうではなかったのである。なぜなら、それ(その会議)はウクライナ司教たちがそれに参加することを妨げたからである。聖職者と平信徒の何人かのメンバーの列席はどのキリスト教会においてもそのような「司教会議」の法的正当性のためには十分ではない。さらに、大多数のメンバーはわれわれの教会とわれわれの人民の敵どもによって参加することを強制された。

ローマの聖なる使徒座は、1946年のその回勅 "Orientales Omnes" および同様に1952年12月15日の彼の荘厳な宣言において教皇ピオ十二世から、そして1979年3月19日、および1980年2月5日の文書においてヨハネ・パウロ二世から、ウクライナ・カトリック教会が法と事実において存在するということをすべての人に知らせた。そしてまたウクライナの司祭たちに対して犯された権力の乱用を非難した。そしてこの理由のために、その歴史的偽りを強調しながら、「1946年リュヴィヴ司教会議」の教会法上の正当性 canonicity は無効であると宣言した。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の承認もって召集され、われわれの教会の父であり長であるリュヴィヴ大司教およびキエフ・ハリクの首都大司教ヨゼフと彼の未来の後継者補佐大司教ミロスラフの周りに集まったわれわれ、ウクライナの司教たちは、この宣言と共に、在俗および修道会所属の聖職者のすべてのメンバーたち、ウクライナの信徒および外国に散らばっているすべての信徒に、それによってわれわれの教会がローマの使徒座との聖なる一致を廃止された[とされる]司教会議が決して開催されなかったこと、そして1946年のいわゆる「リュヴィヴの司教会議」なるものは、ペトロの後継者、ローマ教皇、地上におけるキリストのその長であり、代理者たる、キリストの神秘体、普遍的教会の忠実なメンバーであり続けているわれわれウクライナ教会とは何らの共通するものも持たなかったし、また現在も持っていないということを周知させるものである。

教皇が今なおバチカン・モスクワ協定を守っていない1986年のしるし: 教皇ヨハネ・パウロ二世は1962年バチカン・モスクワ協定が教会にとって悪しきものであるということを理解された。共産主義者たちは今なお教会を迫害し、協定を守ってこなかった。教皇ヨハネ・パウロ二世は1984年2月から3月にかけて繰り返し、リトゥアニア、ロシアおよびアルバニアにおけるカトリック教徒の迫害を非難された。1984年9月には共産主義体制一般を鋭く批判した解放神学に関する文書が教皇ヨハネ・パウロ二世の明白な命令で公表された。1985年には、教皇ヨハネ・パウロ二世はウクライナカトリック司教たちに対する彼の講話の中で、彼らが今なおソビエト・ロシアの下で迫害を受けているという彼らの結論に同意された。1986年5月には、ほとんど25年の間で始めて、教皇は回勅 "Dominum et Vivificantem" の中で共産主義に反対して書かれた。ここに鍵となる節がある:

マルキシズムは教会に対して戦争をしかけている

「不幸なことに、聖パウロが人間の心の中に起こっている内的、主観的次元における緊張、闘争および反逆として強調している聖霊に対する抵抗が歴史のあらゆる時期に、そして特に現代の時期にその外的な次元を見出している。それは文化および文明の内容として、哲学大系、イデオロギー、行動のため、および人間の行動の形成のための計画として具体的な形を取っている。それは、思想体系として、その理論的形式において、そして諸事実を解釈し評価する方法として、また同様にそれに相応する行動の計画として、その実践的形式において、その両方の形式における唯物論のうちにその最も明白な表現に達している。思想、イデオロギーおよび実践のこの形式を最も発展させそしてその極端な実践的諸結果へともたらしたその体系は、今なおマルキシズムの本質的な核として認められている弁証法的歴史的唯物論である。

原理において、そして事実において、唯物論は世界における、そしてとりわけ人間における霊であられる神の現存と行動とを徹底的に排除する。基本的にこのことは、本質的にそして体系的に無神論的である体系であるものとして神の存在を受け入れないがゆえである。これはわれわれの時代の際だった現象である。すなわち、それは無神論であり、第二バチカン公会議はそれにかなりのページを捧げた。(242)。

(マルクス主義者たちの)この解釈に従えば、宗教を社会から、そして人間のまさに心から取り除くためには、宗教は、時と所の諸状況に従った最も適切な手段と方法をもって戦われるべき、一種の『観念論的幻想』としてのみ理解され得るということが帰結する。

それゆえに、唯物論は、聖パウロによって『肉の欲は霊に反する』という言葉で非難されたあの『抵抗』と反対の体系的、論理的な発展であると言い得る。しかし、聖パウロが彼の金言の第二の部分において強調しているように、この対立は相互的である:すなわち、『霊の欲求は肉に反する』。霊の救いの働きを受け入れそれに従って、霊によって生きようと望む者は、反宗教的『唯物論』としてのそのイデオロギー的および歴史的表現においてもまた、『肉』の内的および外的な傾向と主張を拒否せざるを得ないのである。」

編集者注:

 バチカン・モスクワ協定が今なお(少なくとも部分的に)効力を持っているということを指摘している記事は1987年にフランスの Arnaud De Lassus によって書かれた一節である。この論考の翻訳 "A Sign in the Heavens, Fatima" は1988年5月に Apropos No. 3 によってスコットランドで公表された。

1984年以来、聖座のいくつかの文書はマルキシズムのイデオロギーを強く批判してきた。特に1984年8月6日に信仰教義聖省によって発行された解放神学のいくつかの局面に関する教えはそうである。しかしそれらのうちのどれ一つ、ピオ十一世およびピオ十二世によってこのことが表明されてきたようには共産主義体制の非難を更新しなかった。両教皇の批判は、1955年のクリスマス・メッセージにおける教皇ピオ十二世の次の陳述によって要約され得る:「われわれはキリストの教えによって社会組織としての共産主義を拒否する。」

 

教皇はバチカン・モスクワ協定から離れることを望んでおられる - しかしそれをなお放棄しないように強制されておられる

親愛なるイエズスとマリアの友人よ、

教会は戦闘状態にある。それは教会によって選ばれた戦争ではない。それはむしろ悪しき人々が教会を挑発するために選んだ戦争である。それは何よりもまずファチマの聖母と聖母に従う人々に対する悪魔とその追随者たちの戦いである。祝せられたおとめマリアは悪魔に勝利されることが定まっており、聖母は蛇の頭を砕かれるであろう。聖母の最終的な勝利は確保されている。「最後には、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

共産主義の諸勢力との教会の戦いは教会 -- 新しいエルサレム -- が罪を避けるよう人々を促進し、育て、教えるという事実に基づいている。すなわち、罪、悪魔、悪魔の高慢な振る舞いと仕事、肉の欲望、そして罪の追求に身を捧げた人々との戦いである。教皇ヨハネ・パウロ二世はわれわれがマルキシズム、そして共産主義に対する戦闘状態にいることを知っておられる。彼は1986年に公表された彼の回勅の中ではっきりとそう言われた(適切な節のテキストのためにこの書物の p.350 以下を見よ)。

今日あるいは昨日に出発したのではなく、何年も前に出発した組織化された戦闘的無神論に対するこの戦闘に直面して、教会、すなわち、教皇、司教たち、司祭たちそして平信徒は、異なった選択肢 -- それは本質的に二つの選択肢に分けられる -- すなわち、戦うか、それとも戦うことを放棄するかのいずれか -- に直面する。他の選択肢があるように見えるが、しかしこれはただ見かけ上のことにすぎない。

まず何よりも、教会が一つの強力な敵に直面しているということを思い起こそう。悪魔のすべての諸勢力そして悪魔の追随者たちのすべての勢力が結局は様々の仕方でこの敵に彼らの支援を送っているのである。敵は国内的にもまた国際的にも力、影響力、金銭、政治的力を持っている。それは社会のあらゆる段階に強力な共鳴者たちを持っている。それは軍事力を持っている。それはそれをバックアップするための拷問と秘密警察を持っている。

物理的な力に対して -- 教会は何も持っていない。教会の財政力は共産主義体制が世界中に持っている数千万ドルに比較すれば無である。教会は今なお高く評価されている道徳的な声をもっている。しかし、これに対して、北アメリカにおける、また世界中の戦闘的無神論者たちはメディアの大部分の支配権を持っている。その結果、教会および教皇のメッセージは非常に明瞭には伝わらない。さらに、教会がその地盤を失い続けるようにその道徳的権威に対して隠微な攻撃が為されている。

世俗の権威の役割は神の律法を擁護すること、そして教会の、神から与えられた諸権利を守ることである。無神論者たちがロシアにおいて権力を握って以来、教会は、それをロシアの軍事力から護るために「自由な」西側に依存している。しかし1917年以来、そして特に1945年以後、-- 教会はロシアの鉄のカーテンの背後の羊の群を護るために西側に依存することができなかった。

実際、ソビエト支配の前進はますます続いている。今や、ニカラグア、アフガニスタン等々がある。15億人の人々が捕らわれた民族を解放する準備のある自由国家を持つことなく奴隷化されている。世界のおよそ三分の一がすでにソビエトの支配下にあり、そして世界の残りの部分も安全ではない。実際、われわれは非常に大きな危機に直面しているのである。ソビエトの人間たちがもっと多くの場所を間もなく支配下に置く準備ができているという証拠がある。

例えば、ニカラグアの共産党大臣トマス・ボルヘは、彼らがすべての中央アメリカ諸国を侵略する意図があるということを公的に述べた。そして、メキシコを含むそれらの諸国すべてを奴隷化した後に、彼らは数百万のアメリカ市民を殺すという公言された意図をもってアメリカ合衆国を侵略しようと意図している。そのような見通しに対して、共産主義ロシアは変化しているがゆえに、われわれは心配する必要はないのだという考えをもって自らを、そして彼らの追随者たちを欺いてきた人々がいた。ロシアは回心しつつある。そのようなナンセンスは新しいものではない。1950年代のおそらく敬虔なファチマ・サークルにおいてさえ、ロシアは残りのわれわれの世界的な奴隷化というその目的を放棄したのだと言う少数の無分別な楽観論者がいた。しかし、1960年以来、非常に多くの人々がソビエト・ロシアとその手先どもによって奴隷化され、拷問を受け、殺されてきた。多くの国々が全部奴隷化されてきた。

共産主義ベトナムに留まるよりは、生命を危険にさらして海へ逃げた(数千人もの多くの人々は海で死んだ)1970年代のベトナムのボート・ピープルの例を思い起こしなさい。その国の全人口の半分を殺した共産主義者の主人公たちによって1975年から1978年の3年間に殺された300万人のカンボジア人を思い起こしなさい。明らかにロシアと共産主義者たちは変わらなかった。しかしカトリック教徒やファチマを促進している振りをしている人々さえからのそのような宣伝はソビエトのプロパガンダ機構が当時いかに効果的であったかを示している。

ソビエト・ロシアが今日変化しなかったし、またその宣伝も変化しなかったということは今日もなお真である。この古い嘘を広めることに最近の号の多くのページを捧げているある「カトリック」雑誌が存在するという事実を1987年に観察しよう。にもかかわらず、戦争がアフガニスタンで荒れ狂っている。貧しいアフガニスタンの人々に対する拷問、残酷、殺人が衰えることなく続いている。共産主義ロシアによる主権国家アフガニスタンの軍事侵略は止まなかった。むしろそれは続いている。いかなる弁解も存在しない、ソビエト軍隊のいかなる撤退もない。犠牲者たちや難民のいかなる停止も存在しない。そして "Soul" magazine はロシアが回心しつつある、とわれわれに告げている!注1)ニカラグアにおいては、モスクワはそのサンディニスタの傀儡政権を通じて今なお教会と戦っている。軍事力、財政援助、国営テレビおよび新聞によって、サンディニスタ傀儡政権は新しい大衆教会を「創設する」ことによって教会を攻撃している。この戦略によって、共産主義者たちはカトリック教会を共産主義者たちの道具である傀儡教会と置き換えることによってカトリック教会を滅ぼそうと努力している。そこではサンディニスタは司教たちを怯えさせるために彼らを攻撃している。

サンディニスタは、ニカラグア・カトリック司教会議議長であるニカラグア人ヴェガ司教が1986年7月に強制国外退去させられた後、ニカラグアに戻ることを、1987年3月現在、許さなかった。もし主張されているロシアの回心が本当のものであったならば、そのときヴェガ司教は帰国することを許され、そして「大衆的」サンディニスタ教会は解散させられていたであろう。そのとき、現在ソビエトの刑務所にいるリトゥアニアや他の諸々の場所のカトリック司祭たちは釈放されたであろう。彼らは釈放されなかった。彼らは今も尚不当に刑を宣告され、そして苛酷に取り扱われている。

ウクライナにおいて、そこの東方典礼カトリック教徒はすべてソビエト人たちによる公共政策の問題としてひどい扱いを受けている。1946年リュヴィヴの偽の司教会議(ファチマ・クルーセイダー、第22号、p. 30*を見よ)とK.G.B.によって公式に認められたスパイロシア正教会を押しつけることによって、ロシア共産主義者たちは東方典礼カトリック教徒が彼らの信仰を実践しローマに忠誠であり続けることを非合法化した。

* この書物の p.347 を見よ。

彼らはこの偽の司教会議によって、もしあなたがウクライナにおいて東方典礼ならば、そのときあなたは分派的なロシア正教会へ行かなければならないと決定した。にもかかわらず、ロシア人たちは、ウクライナ人たちは彼らの宗教を実践する自由があると主張している。このことは今日までなお続いている。教皇はこのことを知っておられる。そしてロシア共産主義者たちによって押しつけられたこの偽の司教会議を公然と非難された。

教皇はこのすべての迫害を止めるために彼がファチマの聖母に従うべきであるということを知っておられる。しかし、彼はもっと多くの助けを必要としていることを感じておられる。彼はあなたたちの祈りとあなたたちの道徳的支持を必要としておられる。しかし教会が存在している大きな諸領土に対する共産主義者たちの力のゆえに、教皇はいかにひどく彼があなたの助けを必要としているかをあなたに知らせるために非常に声高に、明白にそして繰り返し声をあげることがおできにならないのである。

彼は今なお(全教会からの -- 特に「自由世界」と呼ばれているところに住んでいる地域における -- 十分な支持を彼が感じるまで)共産主義者たちと交渉することを強いられておられる。なぜなら、彼は鉄のカーテンの背後の人々を助けようとしておられるからである。モスクワとの交渉の諸項目の一つは、教皇と司教たちが共産主義の諸々の誤謬を公然と非難しないということである。

この沈黙は残りの人々を偽の安全において生活させている。なぜなら、見張り番(教皇と司教たち)は沈黙を守ることを強いられてきたからである。このようにして、共産主義者たちはずっとわれわれすべてを奴隷化しようと望んでいる。なぜなら、われわれの指導者たちの大部分は沈黙させられてきたからであり、羊の群はずっと、その沈黙がすべてがうまく行っている指標であると理解しながら、遅すぎるようになるまで彼らが陥っている危険を理解することなしに進んで行くだろうからである。

一方において、ソビエトのプロパガンダは沈黙していない。いわゆる「カトリック」諸新聞と諸雑誌は疑うことを知らない信徒の精神の中へそっと共産主義的諸観念を導入している。ソビエト人たちはプロパガンダ戦争に勝利することを望んでいる。 -- それによって、信徒はいつか目覚め、そして共産主義を歓迎するであろう。なぜなら、彼らは共産主義がキリスト教と両立可能であると信じるように導かれてきたからである、と。司教たちによって反対されない一方で、十分にしばしば繰り返されてきたそのような嘘は、すでに数百万の人々を誤り導いてきたし、またもしそれが続くならば、さらに数百万の人々を誤り導くであろう。

そのことは、アメリカ合衆国やカナダにおいてさえ起こっていることである。司教たちでさえがマルキシズムをあたかもそれが良いものであるかのように、促進しているのが見られる。他の人々はこのことを言わずに、教会の名声と金を共産主義運動に与えることによって共産主義を促進している。このことは教会の中に存在するようになったさまざまのグループを通じて為されている。(ファチマ・クルーセイダー、第19号、p. 7 におけるこのことに関するハーミッシュ・フレイザーの論考を見よ。)*

* この書物の p. 336 を見よ。

教皇と司教たちがロシアを奉献せよというイエズスの命令に従わないならば、もう間もなくわれわれは皆奴隷化されるであろう。そのとき、カトリック司教たちは、1931年にスペイン、リアンジョにおいてシスター・ルチアに与えられた恐るべき預言においてイエズスが指摘なさったように、投獄され、処刑されるであろう。

簡潔に言えば、そのとき、教会は戦うか、共産主義について沈黙を守るか、それとも戦いを放棄し、共産主義を受け容れるかのいずれかが可能である。もし教会が諦めるならば、われわれは皆共産主義者となり、カトリックであることを止めるであろう。

このことは共産主義を受け容れる教会の明白な結果であろう。この明白な結論に対して、教会は時の終わりまでとどまるであろうとイエズスが語られたがゆえに、共産主義ロシアの支配下に落ちる教会について心配する必要はないと暗示する人々がいる。これに対しては、われわれは、イエズスがまた、自分が戻って来る前に信仰からの大きな離脱があるであろうとも告げげられたということを指摘しなければならない。

聖書は大棄教があるであろうとわれわれに告げている(1テサ2:11)。それゆえ、少数の人々が忠実なまま残り、そしてそれゆえに、最後の審判の日に、教会は実際時の終わりまで残るであろうという真理を証明する一方で、世界的なソビエトの抑圧下での大多数の人々にとっては、彼らは棄教し、そしてそれによって彼らの霊魂を失うであろう。

もし教会が沈黙することを選ぶならば、われわれはそのうちに皆、上に説明したように、共産主義者になるであろう。もし教会が共産主義と戦うならば、単に教会の貧弱な自然的手段でもって共産主義に反対することは十分ではない。教会は神の武具を用いなければならない。教会は神のこの計画に従わなければならない。

モーゼにとって旧約聖書における神の民の選ばれた指導者であることは十分ではなかった。彼と民とがエジプト軍の軍事力を逃れる前にモーゼは神を信じ、神に従わなければならなかった。彼は彼に要求された信仰と従順の単純な行為をしなければならなかった。彼は紅海の上に彼の手を伸べなければならなかった。教皇と司教たちはファチマのメッセージを通じて与えられ、聖母によって表明されたものとしてのイエズスの命令に従わなければならない。注2)

しかし、われわれはわれわれの役目を果たさなければならない。教皇は現在のところ、聖母が求めておられることをしようと望んでおられる。同時に彼はそれをまだできないと感じておられる。そうしているうちに、彼は共産主義と交渉しなければならないと感じ、そしてこのようにして必要なだけ繰り返し声をあげることができないのである。

このようにして、われわれは結局のところ彼の政策が最後には屈服へと導くということを見る。しかし彼は逃れるためのはかない望みを抱く。逃れるための神の摂理における一つの計画があると思われるであろう。

世界を救うその計画は天の平和計画:すなわち、ファチマの聖母のメッセージである。他のいかなる計画も働かないであろう。教皇が、すべての司教たちと一緒に、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献されるとき、そのとき(そしてただそのときのみ)神は全世界に平和の一時期を与えられるであろう。絶え間なく祈ろう。そしてバチカン・モスクワ協定の拘束から教会を自由にするために教皇を援助し、ファチマの聖母の要求を満たすための努力を惜しまないようにしよう。

1."Soul Magazine" はこのことをさまざまの号において示唆した。例えば、1987年3月・4月号を見よ。

2.この書物の p. 90 以下を見よ。また第 V 部全体もまたこの点をさらに説明している。


世界の奴隷化か、それとも平和か(23)

2011年10月22日 | Weblog

第 IX 部

数人の教会人たちが教皇に反対している一方で、教皇はバチカン・モスクワ協定から離れておられる

カトリック位階の諸々の地位内部で、そしてローマ教皇庁において進行している闘争がある。カザロリ枢機卿のようなある人々は、教会がバチカン・モスクワ協定を尊重し続けることを欲している。ウォイティラ枢機卿としてかつて、共産主義者たちと交渉することは不可能であると言われた教皇は教会をその協定から逸らそうと試みておられる。ソビエトの人間たちは結局のところレーニン主義者である。そして次のように書いたのはレーニンであった。「嘘は神聖である。そして欺瞞はわれわれの主要な武器であるだろう」また、「必要なのは、敵対者を確信させることではなく、彼の地位を打ち砕くこと、敵対者の誤謬を正すことではなく、彼を破滅させること、地の面から彼の組織を拭い去ることである」と。カザロリ枢機卿は、レーニンの諸原理に従って働いている共産主義諸政府とわれわれは交渉することができるし、また交渉しなければならないという原理に従って教会の政策を命令している。

この第 IX 部において提示された諸論考は教会の政策を、破滅を招くその協定から逸らせる仕事において教皇を助けようと努力している位階の高位にある人々がいるが、一方で同時に教皇に抵抗している高位にいる裏切り者たちも存在するということを示している。


変化のしるし:教皇ヨハネ・パウロ二世はカトリック者を迫害している廉で共産主義政権を公然と非難しておられる

教皇はバチカン・モスクワ協定が悪しきものであるということを理解しておられる。彼は教会を迫害しているゆえに共産主義諸政権を非難することによってこの協定から既に個人的に離れて行き始められた。さらに、信仰教義聖省長官、ラッツィンガー枢機卿は教皇からの命令の下に、解放神学の名の下に偽装した共産主義の諸々の誤謬の公然の非難を公式に発表した。彼は、さらに、同じ公式の文書において15億人の人々のロシア共産主義による奴隷化を公然と非難した。彼はそれを「われわれの時代の恥辱」と呼んだ。

リトゥアニアにおける状況

リトゥアニアは厳しい迫害にもかかわらずその人口の大部分がなおカトリックである一つの国である。全人口がわずか317万8千人であるその国には254万2千人のカトリック教徒がいる。ロシア共産主義による教会の迫害はイエズス・キリストの教会に大きな犠牲を払わせる原因となった。リトゥアニアには共産党政府の前には今よりももっと多くのカトリック教徒がいた。リトゥアニアには1940年にはおよそ287万5千人のカトリック教徒がいた。1965年までに権力の座にある共産主義者たちは875人の司祭を国外追放にし、他の230人以上の司祭がリトゥアニアを離れるよう強いられた。1956年にはすでに、リトゥアニアの共産党支配の始まり以来700人の司祭と700人の修道士や修道女がシベリアへ強制送還された。

リトゥアニアは今日なお厳しい宗教弾圧を経験している。修道院や神学校は共産主義者たちによって閉鎖された。カトリック新聞と宗教教育計画は禁止されている。カトリック教会はイエズス・キリストによって創設されている。そしてその成員たちはカトリック信仰を実践し、信仰告白し、公然と教える神から与えられた、奪うことのできない権利を持っている。にもかかわらず、サタンは、彼の人間的代理者である共産主義者たちを通じて、共産党支配下にあるリトゥアニアおよび他のヨーロッパ諸国におけるわれわれのカトリックの兄弟たちや姉妹たちを迫害しているのである。

教皇ヨハネ・パウロ二世は1984年初めに声をあげておられる

教皇はリトゥアニア、アルバニアおよびロシアにおける教会に関して公的な声明を出された。イタリア南部の港町、バリへの2月26日の訪問に際して、教皇はアルバニアおよびソビエト連邦における教会の状況を公然と非難された。

バリでは、カトリック信仰が迫害にもかかわらずロシアにおいてなお存在していると述べる一方で、教皇はこう言われた:「私の思いは、人間人格の基本的権利である彼らの信仰を公然と表明することができないアルバニアにいるわれわれの兄弟姉妹たちにさえ拡がる」と。

教皇ヨハネ・パウロ二世は3月3日-4日、リトゥアニアおよびポーランドの守護聖人である聖カジミール死去500年記念祭を祝うバチカンの儀式の間にリトゥアニアのために祈られた。

その話の中で、教皇はリトゥアニア系の人々にリトゥアニアにいる人々のために祈り、彼らの宗教的および文化的伝統を「注意深く保つ」ように促された。

聖カジミールの「純粋さと祈りの生活は、あなたの信仰を勇気と熱意をもって実践し、近代の自由放任的な社会の欺瞞的な魅力を拒絶し、恐れのない信頼と喜びをもってあなたの確信を生きるように招いている」と教皇は3月3日にリトゥアニアの千人の人々に言われた。

リトゥアニアにおける宗教的状況は危機的な段階に達しているであろう。最近懲役刑を受けた二人のリトゥアニア人司祭の釈放を要求する13万人以上のカトリック教徒の署名のある請願がソビエト当局に提出された。

バチカン・ラジオは請願署名者たちは罰金刑を受け、そしてソビエト司法大臣は署名を集めた人々を逮捕し起訴すると脅しながら、テレビに出た、と報じた。

その司祭たちは「ソビエト共和国を誹謗した」と宣告された。彼らは、自分たちは宗教の自由を保障しているソビエト憲法およびヘルシンキ協約の違反における乱用、信徒の諸権利に対するソビエト当局による乱用に対して単に声を挙げたに過ぎないと主張した。

教皇は彼らの国が第二次世界大戦の間にソビエト連邦に併合されて以来、宗教的迫害を知ってきたリトゥアニアにおけるカトリック教徒の苦境を思い起こされた。

「あなたたちの祖先がどのように彼らの血を流してさえそれを保ち、守ったかということを思い起こしながら、あなたたちが受けたキリスト教信仰の賜物を述べ伝えることに堅固でありなさい。そして神に熱心な嘆願をし、彼らを聖カジミールの配慮に委ねることによってリトゥアニアに住んでいる人々を援助しなさい。」


教皇ヨハネ・パウロ二世とラッツィンガー枢機卿は鉄のカーテンの背後の共産主義政権についての真理を教えている

ここに1984年8月6日の日付の解放神学に関する指示からの一節がある。それは共産主義政権による奴隷化を「われわれの時代の恥辱」として公然と非難している。そしてこの陳述についてのカザロリ枢機卿の公的な批判 -- それはカザロリ枢機卿が今なおバチカン・モスクワ協定に愛着を持っているということ、それから、教皇ヨハネ・パウロ二世とラッツィンガー枢機卿が教会を救い出そうと努力しているということを明らかに示している -- がある。

われわれの時代の主要な事実は彼らの兄弟たち:まさに人々の解放の名において暴力的、革命的な手段によって権力を握った全体主義的、無神論的諸政権によって彼らが奪われた基本的な自由を回復することを合法的に求めている数百万人のわれわれ自身の同時代人たち:の真の解放のために真摯に働こうとしているすべての人々の熟考を呼び起こすべきである。われわれの時代のこの恥辱は無視されることはできない。彼らに自由をもたらすと主張する一方で、これらの政権は全国民を人類に相応しくない奴隷状態にとどめている。おそらく軽率にも、自分たち自身を似たような奴隷化の共謀者としている人々は彼らが助けるつもりである非常に貧しい人々を裏切っているのである。

階級なき社会への道としての階級闘争は改革を遅らせ、貧困と不正を増大する一つの神話である。この神話に魅惑された状態の虜になることを自らに許す人々は歴史が提供しなければならなかった、それが何処に導くかについての苦い例を熟考すべきである。そのとき彼らは、われわれがここで何らの実践的結果も持たない理想のために、貧しい人々のための闘争の手段を放棄することについて話しているのではないということを理解するであろう。反対に、われわれは自らをまともに福音とその実現の力に基づかせるために錯覚から自らを解放することについて話しているのである。

必要な神学的是正のための条件の一つは教会の社会的教えに適切な価値を与えることである。

この教えは信仰の教義のための聖なる委員会の通常会議において採用され、その公表を命令された教皇ヨハネ・パウロ二世聖下によって、署名した枢機卿長官に与えられた謁見において承認された。

1984年8月6日、われらの主の御変容の祝日に信仰教義聖省においてローマで与えられる。

ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿長官

大司教アルベルト・ボヴォーネ秘書

ラッツィンガー枢機卿と聖省に反対するカザロリ枢機卿

以下は、ウルトラ・ネオ近代主義のロンドン・レビュー、”The Tablet”の1984年11月24日号において公表された「ラッツィンガーに対する非難」と題されたレポートのテキストである。

「9月3日に信仰教義聖省によって公表された解放神学のいくつかの局面に関する教えの公的な批判が今や国務省長官カザロリ枢機卿によって為された。彼は、彼がその教えについて相談を受けたということを否定した。そして彼がその内容に対して何ら責任を持っていないということを明らかにした。枢機卿が、もし彼が教皇ヨハネ・パウロ二世によってこのような仕方でその文書から離れた立場に立つことを許されなかったならば、辞職していたであろうと考える人々がいる。なぜなら、彼の特別の関心はバチカンと共産主義諸政権との間の関係であったからである。そしてこの仕事は、文書が全国民を『人類に相応しくない奴隷状態にとどめているわれわれの時代のこの恥辱』として共産主義に言及するとき、問題の中へ投げ込まれた。正しいにせよ、間違っているにせよ、そのような判断は東ヨーロッパのカトリック教徒にとって明らかな含意をもつ政治的な判断である。そしてそのようなものとして信仰教義聖省の領域によりはむしろ国務省の領域に属する。」

換言すれば、カザロリに従えば、国務省の純粋に政治的な機能(それは教皇パウロ六世の時にミンセンティ枢機卿を裏切り、彼にモスクワの傀儡であるハンガリー国家の囚人としての証人となり続けることを命じた)は教義の問題そして特に共産主義を「本質的に悪しきもの」であるとして注1)、「歴史においておそらく例を見ない悪魔的に効果的な宣伝の組織」注2)をもった抑圧の制度として定義した教会の真正の社会的教説に優越し続けなければならないのである。

バチカンを沈黙させる協定の主要な支持者カザロリ枢機卿

もちろん、政治的な便宜の名において教える教会に口輪をはめようとするカザロリによるこの試みには何ら新しいものはない。それは単に第二バチカン公会議の教父たちに課された沈黙の継続でしかない。彼らは、「バチカンと共産主義諸政権との間の関係」という同じ口実において、「これらの同じ逸脱(すなわち、共産主義の逸脱)を人間社会のまさに核心に陰険に潜入し、それを絶滅をもって脅かす致命的な疫病として記述された」注3)レオ十三世を含む歴代の教皇たちによって共産主義の非難を再主張することは愚か、議論することさえ禁じられたのである。

簡潔に言って、カザロリの政策はバチカン・モスクワ協定の継続した強化にしか過ぎない。バチカン・モスクワ協定は教会と現代世界との間の関係に特に関わるエキュメニカルな公会議にかつて知られた教会と国家に対する最大の脅威を議論することをさえ禁じたのである。( The Fatima Crusader , Issue No.16,page 5,および No. 17,page 4 を見よ。)*

* この書物の p.249 そして p.269 を見よ。
このことはわれわれに推薦できる明白さでカザロリ枢機卿がバチカン・モスクワ協定の撤回に、そしてそれゆえにまた、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献に断固として反対せざるを得なかったということを告げている。それゆえに、教皇が彼の辞職を受け入れることによって彼のこけおどしに挑むことができなかったことは非常に遺憾なことである。

1.Divini Redemptoris, paragraph 82, Encyclical on Communism by Pope Pius XI.
2.Ibid. paragraph 26.
3.Ibid. paragraph 6.


ファチマの聖母が従われていない理由:教皇ヨハネ・パウロ二世は司教たちの公然たる反乱を恐れておられる

Hamish Fraser 著

多くの人々はこう尋ねる、「なぜ教皇ヨハネ・パウロ二世はすべてのカトリック司教たちと一緒に荘厳、公的な仕方でマリアの汚れなき御心にロシアを奉献しなさいというファチマの聖母の非常に緊急のそして本質的な命令に未だに従っておられないのか?」と。雑誌 "Approaches" の編集者であり、カトリック教会における現代の諸問題に関係するものとしての共産主義に関して国際的に認められた専門家であるハーミッシュ・フレイザー氏はこの問いに答えた。フレイザー氏は現代の諸事件および最近の歴史の光に照らしてなぜ教皇がすべてのカトリック司教たちにロシアを奉献するように命令する彼の義務を果たすことができる前に非常に並々ならぬ恩寵を得るためにわれわれの祈りを必要としておられるかを説明している。

多くの司教たちが今や共産党に鼓舞された諸々の運動や集団を支持している現代の状況に導いたのは第二バチカン公会議が共産主義を公然と非難することを怠ったからである。司教たち自身の正義と平和委員会が共産党の諸戦線を積極的に促進している。これらの司教の多くは反共産主義的であるいかなる集団あるいは個人にも反対している。

ファチマの聖母のメッセージはそのような誤り導かれた司教たちのこれらの行動や態度を公然と非難している。

しかしながら、司教たちは逆に、彼らの諸々の誤謬から回心するよりはむしろファチマの聖母に反対するであろう。それゆえ、教皇はほとんど不可能な状況に直面しておられるのである。しかし、教皇とすべてのカトリック司教たちによるロシアの奉献は教会と世界が直面している多くの問題に対する唯一の真の解決である。教皇はこれらの事実に直面して並々ならぬ勇気を必要としておられる。教皇はわれわれの祈りをこれまでよりももっと多く必要としておられる。

シンポジウムにおけるハーミッシュ・フレイザーの演説のテキストが以下に続く。

メッセージの本質

ファチマの聖母のメッセージの本質は1917年7月13日に聖母によってはっきりと説明された。そのとき聖母はこう仰った。「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献されるでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう」と。

次に1929年6月13日に、シスター・ルチアに従えば、「聖母はそれから私にこう言われました。『神が教皇に、世界の司教たちと一致して私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするように命じられる時が来ました。』

さらに、どんな疑いをも取り除くために、1982年5月13日のファチマでの教皇の奉献の行為の後に、二人の有名なポルトガル人神学者に伴われたリスボン教皇使節の列席の中でインタビューを受けたとき、シスター・ルチアはファチマの聖母によって要求された奉献は次のようなものでなければならないとということを強調した:

(1)ロシアの、マリアの汚れなき御心への[奉献]

(2)完全に共同的な[奉献]、それは彼女の説明によれば、各々の司教が彼自身の司教座聖堂においてロシアの奉献の荘厳な儀式を取り決めることが要求されているということを意味する 注1)

教皇の認識

少なくとも一つの事柄に関しては可能的な疑いの余地は何一つ無い。すなわち、それはマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献の必要性についての教皇の認識である。なぜなら、(1982年5月13日からそうであるように)すでに2年の間に教皇は三回マリアの汚れなき御心に世界を奉献されたからである。そして三度目の機会(1984年3月25日)に、教皇は奉献の行為を行う際に司教たちに彼と共に共同的に加わるよう要求された。

さらに、それぞれの機会に、教皇は自分が聖母によって要求された奉献がまだ為されていないということを理解していると指摘された。

私はまた、臨時司教会議 *の終わりを特徴づけるために汚れなき御宿りの祝日(1985年12月8日)になおもう一つの奉献の行為が期待されるであろうという情報を得ている。

* 教皇ヨハネ・パウロ二世は1985年12月8日に司教会議の閉幕に当たって再びマリアの汚れなき御心に世界を奉献された。これは彼の三つの同じような奉献の行為と同様に世界のすべての司教たちと共に荘厳、公的な仕方でロシアを特殊的に奉献するようにというファチマの聖母の命令を満たしていなかった。

それゆえに、誰にも、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献は教皇の頭の中にはまったくなかったと言わせてはならないのである。

なぜこれまで奉献がなされなかったのか?

一方においてマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献についての教皇の心配、そして他方において1984年3月25日のマリアの汚れなき御心への世界の奉献への司教たちの参加への教皇の要求によって引き起こされた恥ずべき敵意 注2)を考慮に入れると、一つの事柄が特にこれまでマリアの汚れなき御心にロシアを共同的に奉献することにおいて彼に加わるように普遍教会の司教たちに命令することから教皇を妨げてきたということが道徳的な確実さをもって、推論され得る。すなわち、それは、そうすることが形式的な分裂を引き起こすという教皇の恐れ、である。その恐れはもちろん、実質的な司教たちの分裂がすでに世界のさまざまの地域において広まっているという彼の理解に根づいているのである。注3)

そのことについては、より詳しく後に述べよう。同時にわれわれは、司教たちが共同性についての概念に取りつかれているときに、天の元后が、教皇と一緒に彼らがマリアの汚れなき御心にロシアを共同的に奉献することを要求なさったということを思い起こさせられることよりも彼らの多くの者の怒りをかきたてるものは何も無かったという余りに重大な事実に注目した。

なぜ司教たちはファチマを嫌うのか

そのように多くの司教たちが、ファチマのメッセージが言及されるときにいつでもなぜまったく文字通りかっとなるのか、そのいくつかの理由がある。

(1)共産主義は「本質的に悪しきもの」である。

まず第一に、ファチマの聖母が、彼女の要求が聞き入れられないならば、ロシアは世界中にその諸々の誤謬(すなわち、共産主義の諸々の誤謬)を広めるであろうということを明らかになさったという事実がある。教会が「本質的に悪しきもの」であるとして定義したのは、南アフリカのボタ氏の誤謬、フィリピンのマルコス大統領の誤謬、ニカラグアの「コントラ」の誤謬、チリのピノチェト将軍の誤謬、あるいはレーガン大統領の誤謬、正義と平和のための司教委員会の大多数のお化けたちの誤謬ではなくて、共産主義によって支配されたロシアの諸々の誤謬である。

換言すれば、ファチマがなぜそのように多くの司教たちにとって我慢できないか、そしてなぜ彼らがまた強く教皇の権威に憤慨するのか、その第一の理由は第二バチカン公会議以前には諸教皇が首尾一貫して共産主義を「本質的に悪しきもの」として非難してきたのに、第二バチカン公会議以後たいていの司教会議が今や「本質的に悪しきもの」であるのは共産主義ではなくて、いかなる形あるいは形式においてであれ反共産主義であるという仮定において行動しているように見えるからである。

司教たちの態度のこの変化はなぜ第二バチカン公会議から始まったのであろうか?それはなによりもまず、ロシア正教会のオブザーバーたちが第二バチカン公会議に送られるならば、共産主義は公会議において議論されないであろうということをクレムリンに保証したローマ・モスクワ協定のゆえである。またそれは議論されなかった。公会議に出席した教父たちの一角からの要求にもかかわらず、第二バチカン公会議はこれまで諸教皇の一貫した教えであったもの:すなわち、共産主義は「本質的に悪しきもの」であるということを再び断言することさえ許されなかった。

公会議の後に、共産主義が合法のものとなったと言い張ること、そして公会議の名においてそうすることが可能となったのはこの犯罪的な脱落のゆえである。この犯罪的な脱落は、なぜカトリック教徒たちと共産主義者たちの提携を主張すること、そして単純に「キリスト教的」偽装における革命的マルクス主義である「解放神学」を採用することさえ可能とした理由である。

簡単に言えば、もしそのように多くの司教たちがファチマの聖母のメッセージを憎むとすれば、それはロシアの諸々の誤謬へのその論及が実質的にすべての司教団によって承認された「正義と平和委員会」そしてまたCAFOD(イギリス)、SCIAF(スコットランド)、Trocaire(アイルランド)そしてCCFD(フランス)のような諸カトリック「発展局」の政策を非難しているからである。注4)なぜなら、これらの組織は今日、公会議以前の教会の決定された反対に対してそのような苦痛を発生させることになった一種の「国民戦線」のための基礎をもつ「革命」を準備しているからである。キリスト教徒たち、特にカトリック教徒たちを動員することによっていたるところで転覆を促進している「国民戦線」は革命的な運動を支持して、しかし特に、モスクワがその帝国主義的野心を抱くために不安定にしようと決定しているフィリッピン、南アフリカそして中央アメリカのような地域においてそうである。

(2)ファチマは新しいカテキズムを非難している

ファチマがなぜそのように多くの司教たちをかっとさせているか、その第二の理由は、司教たちによって承認された多くのカテキズムのテキストにおいて、地獄がほとんど言及されさえしていず、また確かに非常に重大なものとして考えられていないのに対して、ファチマの聖母は三人の若い幻視者たちに地獄の最も恐るべき幻視を与えることを必要だと考えられたということである。

(3)ファチマは性教育を非難している

同様に、慎みと純潔の必要性並びに避妊の重大な罪を強調している回勅 "Humanae Vitae" および "Familiaris Consortio" の両方を無視しながら、多くの司教たちが、彼らが責任を負っているカトリック学校において、そのあるものがポルノすれすれの、非常に問題の多い形式の「性教育」を課してきたのに対して、ファチマの聖母は、教会の道徳的教説への厳格な忠実の必要性、そして、三人の幻視者たちのうちの最も年下のヤチンタに「大部分の霊魂を地獄に導くのは肉の罪です」注5)と告げられながら、特に慎みと純潔の必要性を強調された。ヤチンタ自身が後に報告したように、「神の御母は貞潔の誓いに縛られたより多くの処女の霊魂を求めておられる。慎みを欠く女性に禍いあれ」注6)。

教皇使節による裏切り、等々

完全にあからさまに言えば、もしこれまで教皇が天の元后の要求を果たすことが可能であると見出されなかったのは、彼が、公会議後の教皇使節や使徒的代表たちによって追求されてきた諸政策の結果として彼が今やただ名においてだけカトリックである近代主義者の司教たちの主人役に満足しなければならないということを理解しているからである。

その理由のために、教皇が今やファチマの聖母の要求を満たすことができるただ一つの手段だけが存在する。彼は、そうすることを彼らが拒否する出来事におて直ちに職を辞するという苦痛においてマリアの汚れなき御心へロシアを共同的に奉献する際に彼に加わるようにすべての司教たちに命令することを要求されるであろう。

最後の決断の必要性

しかしながら、司教たちをファチマの聖母の要求に応じるようにさせることからまったく離れて、反抗的な司教たちに対する何らかのそのような最後的決断は母なる教会におけるカトリック秩序の回復を始めるためにさえ不可欠である。なぜなら、事態がそうであるように、教皇が言われることが何であれ、それは多かれ少なかれ完全に無視されているからである。ある若い司祭(彼はおそらく彼の司教の精神を単に敷衍しているにすぎなかった)の次の言葉において、私はそのことを知っている:「教皇は誰も何の注意も払わない多くの無意味なことを喋りながら世界中を廻っている単に愚かな老人に過ぎない。」と。

そのような司祭たち、そのような司教たちは教皇が単に言っているに過ぎない何事をも真面目に受け取ろうとしないのである。教皇の権威は、ただ教皇が、ちょうど敵の面前で裏切りのために免職にされた将校が彼の連隊の前で公的に名誉を剥奪されるように劇的に、少なくとも一人の名声のある反抗的な高位聖職者の聖職を剥奪する時にのみそのような人々に通じるであろう。

ああ、悲しいかな!今や普遍教会を通じて広まっている不信のムードを考慮に入れると、個人的に名声のある高位聖職者を聖職から辞任させることによって、あるいはマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するに際して彼に共同的に加わるように彼らに命令することによってかの何れかで、司教たちとの決着をつけるために、教皇の側でのまったく並はずれた道徳的勇気が要求されるであろう。、

実際、現在、第二バチカン公会議の後に、存在しているほどに教皇の権威の行使に対して偏見を持っているような状況に、かつていずれかの教皇が歴史において、直面したことがあったかどうか、疑わしい。確かに、現在の状況を十分に理解している人は誰でも教皇を非難する、あるいは何らかの仕方で見くびるほどに愚かな者はいないであろう。なぜなら、今までのところ彼はカトリックの秩序を回復するために明らかに必要であることをすることが可能であるとは見なかったからである。

そしてこのことはそのような行動が明らかに必要であるという事実にもかかわらず、そうなのである。それはなさねばならないことである。なぜなら、実質的な分裂が長く許容されればされるほど、それだけ司教たちは手に負えないものとなるからである。というのも、日毎に彼らは彼らの菓子を持って、それを食べることにますます貪欲に習慣づけられるようになっているからである。すなわち、彼らは形式的な分裂の不利を何ら持つことなく、実質的な分裂の有利な点を持っているからである。

さらに、実質的な分裂(重大な問題における教皇への不従順)が長く続けば続くほど、それだけ形式的分裂の出来事において彼らと共に彼らの群れを連れて行くことができる司教たちの見込みは大きくなる。

しかしながら、一つの決断が必要であるという事実はそれを実際に行うことを容易にするものではない。乗組員あるいは乗客の残りの側での明らかな反対なしに、ほとんどすでに船が岩にぶつかろうとしている時に、彼の船をハイジャックした彼の航海士たちの何人かを懲戒する必要に直面した船長の類似した立場を考えてみよ。

そのような状況の下では、船を -- この場合にはペトロの船を -- 敵の手に陥ることから妨げるために必要なことをすることは人間的に見て不可能であろう。

そのような状況下では、ただ神からの並はずれた恩寵だけが、厳密に言って、彼の義務であることをすることをさえ一人の人間に可能とすることができる。またこのことは決してただ教皇についてのみ真であるのはない。そのことは、英雄的行為、英雄的聖性さえ、が唯一卑怯の確信に代わるものである時に、ほとんど確実な死を意味する何かあることをするように命令された下級の兵士たちや警察官のような人間の最も地位の低い者たちにさえしばしば起こるのである。

教皇のために祈る必要性

だからこそ、教皇を批判するのではなくて、彼が人間的には不可能であると思うことをする恩寵を得ることができるように教皇のために祈ることがそのように必要なのである。そのことはまさにファチマの聖母がわれわれにするように望んでおられることである。

なぜなら、シスター・ルチアは、神はマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献の恩寵を、ただ十分な数のわれわれが、なかんずく、われわれの生活状態に適切な諸義務を果たすという償いをするということを強調しているファチマのメッセージに応ずる時にのみ、許されるであろうと警告したからである。しかし人の生活状態がどんなものであれ、絶えず教皇のために祈ることなしに、真にカトリック的であることはまったく不可能である。

そしてわれわれ自身のために...

しかしながら、教皇のために祈るわれわれの義務であることからまったく離れて、われわれは、もしわれわれがわれわれの文明の未来について関心があるならば、すなわち、もしわれわれがわれわれの子どもたち、そしてわれわれの子どもたちの子どもたちについて関心があるならば、、そうする以外のいかなる選択肢も持たないのである。なぜなら、ロシアがファチマの聖母によって要求されたようにマリアの汚れなき御心に共同的に奉献されないならば、そしてこのようにして遅すぎない前に[ロシアが]回心しないならば、ファチマの聖母がわれわれに警告なさったように、われわれは人間の歴史において前例のない破壊的な懲罰を経験することを期待することになるであろうからである。その懲罰は、胎児の見境のない大虐殺と現在の不自然のそのように恥ずべき伝染病 -- その両方とも現代の自由放任の社会に由来する -- のゆえに、単に[その懲罰に]値するだけではなく、実際長い間、[その懲罰の]機が熟しているのである。

軍縮討議とサミット会議の空しさ

われわれの司教たちの多くの者によって提案された一方的軍縮を通じて可能である平和、あるいはどれだけ多くの「サミット会議」でのクレムリンとの対話の結果としての平和、についていかなる幻想もあってはならない。なぜなら、共産主義は、全世界がひとたび共産主義によって征服されたときに共産主義が「平和」と呼ぶものが存在するだろうから、「資本主義的帝国主義」から「解放」されなければならないと彼らが主張する非共産主義世界に戦争 -- 階級戦争 -- をすることを誓っているからである。だからこそ、共産主義的展望においては、戦争は平和への道なのであり、共産主義的慣用句においては「平和」は「戦争」を意味するのである。

奉献だけが唯一の救済策

そして、ロシアが回心するまではそのようであり続けるだろう。なぜなら、そのときにのみ、ロシアは破壊と野蛮な攻撃の道具であることを止めるであろうからである。そのときにのみ、キリスト教的使徒職の原動力となることによって、ロシアは、代わりに、世界における平和のための主要な力となるであろうからである。しかしこのことは、ロシアがマリアの汚れなき御心に共同的に奉献されることを前提とする。そのことは、教皇がこれが要求する超自然的な力を持つ時にのみ、可能となるであろう。だからこそ、われわれは教皇のために祈らなければならないのである。

1."Fatima May 13, 1982 What Actually Happened?" The Fatima Crusader , Issue 16, p. 22. See p. 159 of this book.
2.Cf. "March 25, 1984 Consecration in retrospect", Supplement to Approaches No. 85.
3.Cardinal Gagnon Report, The Fatima Crusader ,Issue 15, p. 15.
4."Comite Catholique Contre La Faim Et Pour Le Developpement" i.e. The "Catholic Committee Against Hunger and for Development."
5."Fatima: The Great Sign" by Francis Johnston, Tan Books and Publishers, p. 5.
6."Fatima: The Great Sign", p. 84.