福岡県の香春町から国道201号を東にはしり、みやこ町豊津の豊津梅林を目指しました。
事前に調べていた住所は「福岡県みやこ町豊津大字二月谷」でした。
しかし、ナビに住所を入力すると、「みやこ町豊津」から先は番地を指定する画面が現れ、二月谷は通称としての地名らしいことが分かりました。
しかたないので、豊津主要部をナビに入力し車をはしらせてきました。
ナビが「目的地へ到着しました」とアナウンスしたのは、みやこ町役場支所の前でした。
平日の昼前でしたから、周囲に人影はありません。
支所の中に男性が一人、机に向かう姿を認めましたので、支所の窓口まで行って、「すいません、東京から来て、九州の梅園を廻っていますが、豊津梅園の場所を教えて頂けないでしょうか」とお願いしてみました。
支所の方は「豊津梅園は廃園になっているんじゃなかったかな?」と言いつつ、親切にネットで地図を検索し、それをプリントして、行程をマーカーで塗り分けてくれたのです。
教えて頂いた通りに車をはしらせ、豊津梅園に着くと、支所の方のお話の通り、梅園の梅の木は朽ち果て、周囲には竹藪が茂り、荒れ果てた姿を見せていました。
このような光景を目の当たりにすると、梅がどれ程多く人手を介して花を咲かせていたかが理解できます。
改めて、花が見られるのは、平和な時代であればこそ、花を育てる平穏な生活があってこそとの思いを深めました。
わざわざ廃園に足を運ぶ機会はありませんから、めったに見れない貴重な光景を目にすることができました。
支所の方に、豊津には豊前国分寺があって、そこにも梅の花が咲くはずだと教えてもらったので、豊津梅園の後で、国分寺へ向かいました。
豊前国分寺の三重塔は福岡県の重要文化財に指定されています。
石盤に記された解説には、
「豊前国分寺は、奈良時代の天平13年(741)聖武天皇の勅願により建設された国立の寺院の一つである。
戦国時代に焼失し、明治28年に塔が再建されたが、昭和27年に落雷を受けて大破後、昭和62年に、全町民や企業の寄付を得て、明治建立時の忠実な再現に留意して修復工事を完了した」とありました。
更には、「この三重塔は、奈良時代豊津の地に国府・国分寺が設置され、この地が国府政治・文化の中心であった往古を象徴する建造物である」と結ばれていました。
石盤の記載の末尾には 昭和62年5月 豊津町 とあります。
現在はみやこ町ですが、2006年3月に京都郡の犀川町・勝山町・豊津町が合併してみやこ町となったようです。
京都郡と書いて、みやこ郡と読むと、これも支所の方に教えて頂きました。
この地の歴史的な背景や特性が想像されます。
みやこ町を出発して、築上町の網敷天満宮を目指しました。
網敷天満宮はナビ任せで、難なく到達することができました。
間もなく、この辺りの地名を冠した梅祭りが始まるようです。
境内に参拝者の姿は殆ど見えませんが、鳥居の横では梅ヶ枝餅の屋台が、にぎにぎしくも手持無沙汰な様子を見せていました。
ここも花の季節には早すぎましたが、手入れの行き届いた梅の木の見事な姿が、最盛期の賑わいを想像させます。
境内の一隅の稲荷に向かって、赤い鳥居が重なります。
赤い鳥居の横で白梅が数輪、遠慮がちに花をほころばせていました。
満開の季節に、白梅が赤い鳥居を包み込めば、華やかな風情に満ち溢れるだろうと思います。
境内には寛永14年(1638)に植栽したと推定される、樹齢370有余年の大蘇鉄が枝を広げていました。
これだけ大きな蘇鉄が育つのですから、九州はやっぱり温暖の地なのでしょう。
蘇鉄の木を見ると、頭の中に田端義夫の「島育ち」、赤い蘇鉄の~♪ 実も熟れる頃~♪ と云うメロディーが条件反射的に浮かんできます。
昔は、関東周辺で蘇鉄が育つのは伊豆大島ぐらいのものですから、この辺は同程度の気候と考えて良いのでしょうか。
そして何よりも嬉しかったことは、網敷天満宮の境内の先に広がる周防灘の静かな広い海でした。
午前中まで、雪景色だったのが嘘かとも思える暖かな陽射しの海岸に立つと、「気になるあんなことやこんなこと、もうどうでも良いわい」と云った感慨が胸に広がります。
いや~ホント、私は安上がりな人なのかもしれません。
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