網敷天満宮と椎田海岸を後に、国道10号線を大分方面に向かいました。
次に目指す目的地は杵築の武家屋敷です。
大分県は昔、豊後の国と呼ばれていました。その豊後の国で開発された梅の品種が「豊後梅」です。
「豊後梅」は美しい大輪の花を咲かせますので、杵築の武家屋敷の庭先には、必ず豊後梅が植えられているそうです。
私は秋田県角館市の武家屋敷に枝垂れ桜が咲く光景を想い出し、杵築の武家屋敷も何とか見てみたいと思ったのです。
国道10号線を大分方面へはしり続けました。
大分県に入って程無くすると、国道沿いに「国宝宇佐神宮」の看板が目に入りました。
宇佐神宮なんて初めて聞きますが、国道から脇道へ入って鳥居の横へ車を進めますと、窓に張られたポスターに「全国八幡宮本宮 国宝 宇佐神社」の文字が見えます。
え、あの鎌倉の鶴岡八幡宮などの八幡宮の本宮なの?
興味をそそられたので寄り道をすることにしました。
駐車場横の案内図を確認すると、今いる場所は西参道のようです。
屋根のついた橋が見えますが、呉橋と呼ばれる大分県指定の文化財で、鎌倉時代以前からあるとされ、呉の国の人が掛けたという伝承があるそうです。
案内図に種田山頭火の記載を目にしたので、見ていくことにしました。
山頭火と聞くと、今ではラーメン屋かと思う人もいるようなので、蛇足ですが、
俳人種田山頭火は1882年に山口県防府の大地主の家に生まれました。
早稲田大学に入学しますが、神経症の為に中退し、山口に戻りますが、父が始めた酒造業が失敗して九州へ逃れます。
九州で離婚し、出家した三頭山は乞食坊主となり、熊本から西日本各地を巡りながら俳句を作り続けました。
1940年に57歳の生涯を閉じるまでに8万4千句という膨大な数の作品を残しました。
山頭火の句碑は全国に500以上はあると言われ、“昭和の芭蕉”とも称されます。
山頭火は昭和4年と13年に宇佐神宮を訪ね、そのときの日記が石碑に刻まれていました。
山頭火の石碑を見た後、参道を本殿へと向かいました。
西大門 (さいだいもん)は1592年頃の建造とされ、安土桃山時代の様式だそうです。
本殿のある上宮には大きな楠が枝を広げていました。
私は正月に浅草寺へ行って仏教徒の作法で初詣し、受験の時は湯島天神に信徒の作法で願をかけ、クリスマスにはキリスト教徒みたいな顔でケーキを食べてきましたが、正直、八幡神社が何なのかを全く知りませんでした。
今回宇佐神宮を訪ね、改めて八幡様ってなんだろう? と興味を持ち、調べてみることにしました。
八幡神社は福岡県飯塚市の大分八幡宮が起源とされ、そこから宇佐神宮や筥崎宮が分霊されたようです。
八幡神は誉田別命(ほんだわけのこと)をお祀りする神社で、誉田別命は応神天皇とされるようです。
しかしなぜ、応神天皇が八幡信仰の神様になったのか、総本宮が宇佐神宮なのかは謎が多いそうです。
しかし、応神天皇の死後300年ほど経た奈良時代、国家の重要案件を決める際には奈良から宇佐に使いを派遣して、八幡様に伺いを立てるようになっていたそうです。
更には、平安時代の初めに、桓武天皇らが政治利用のために「八幡神=応神天皇」と説明したとする説が有力だそうです。
記録が少なく、謎解きは難しいようですが、八幡神は中世以降、源氏の守護神・氏神として信仰されたので、鎌倉時代に鶴岡八幡宮が建立されて以降、武士達が武運の神として自分達の領内に分霊を祀り、全国に広まっていったようです。
平和な時代を迎えた現在の日本も、以前は戦に明け暮れ、神に明日の無事を祈りたくなるような時代が長く続いていたようです。
※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。
九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1
他の花の旅 旅の目次