大分県から福岡県に入り、うきは市の屋部地蔵公園に寄ってみました。
屋部地蔵公園は、西久大運輸倉庫株式会社が保有する土地を公園として無料開放しています。
約300本の梅が植栽され、108体のわらべ地蔵と108体の羅漢像が個性ある表情で並んでいました。
予想通りに、梅の花を見ることはできませんでしたが、5000坪という広大な敷地をこのような形で無償解放する行為は、久留米の石橋文化センターを寄付したブリジストンや、江戸末期に私財を投げ打って白洲に灯台を建てた岩松助左衛門にも共通する、福岡県人の県民性を示すものとして、私の記憶の中に深く刻まれました。
うきは市から八女の谷川梅林へまわってみました。
集落の周囲に連なる明るい丘陵地帯に梅林が広がり、午後の暖かな陽射しを浴びていました。
丘陵地の下には田が広がり、水の届かない場所には梅が栽培されていました。
梅は主に梅干しを作る為に栽培されている筈ですから、米を主食とする日本の原風景を見ていることになるのでしょうか。
梅は中国が原産で、紀元前200年ごろの馬王堆から、梅干が入っていたらしい壺が見つかっています。
稲作が日本に普及した弥生時代には既に、梅も栽培されていたようです。
弥生時代前期から古墳時代にかけて、山口県、大阪府、奈良県、京都府、石川県、東京都などの遺跡から梅の遺物が出土しています。
但し、梅干が広く我が国に普及するようになったのは江戸時代に入ってからのことのようです。
八女から朝倉へ向かいました。
朝倉へ向かった理由は、朝倉市の北に接する古処山が花の百名山だからです。
田中澄江が「花の百名山」に、秋の日の一日、古処山に登ってシュウメイギクを見付けたと書いています。
私は登るつもりはありませんが、山容だけでも見ておきたくて、麓の朝倉市秋月へと向かいました。
秋月に着いて、秋月という名を何処かで見た記憶が蘇りました。
宮崎県の高鍋です。
戦国時代末期に豊臣秀吉の九州征伐に敗れた秋月種実が、降伏後に宮崎県高鍋に移封され、秋月氏は幕末まで高鍋城を居城としたのでした。
そして私が訪ねた朝倉市秋月地区は、優雅な時間が流れる、重要伝統的建造物群保存地区に選定された旧城下町だったのです。
朝倉に来たのは、秋月氏の足跡を辿る目的ではないのですが、思いがけない旅の偶然に驚かされました。
秋月の街で、緒方 春朔(おがた しゅんさく)顕彰の碑を目にしました。
碑文には、「秋月藩医であった緒方 春朔はジェンナーに先駆けること6年前、天然痘患者から採取した痘痂を鼻から吸引させるという種痘を完成させ、天然痘予防に大きな業績を残した」と記載されていました。
そう言えば、若山牧水の生家を訪ねた記事を書くときに調べた資料に、
「牧水の祖父、若山健海は文化8年(1811)所沢市神米金の農家に生まれました。
長崎で西洋医学を学び、宮崎で医院を開業。
その後、オランダ人モーニッケより種痘の方法を学び、宮崎で実施。
日本における種痘の先覚者としてその名を残しています。」
とあったのを思い出しました。
様々な出来事が、土地と時間とが織りなす、縦糸と横糸に組み合わさってゆく様子を目の当たりにしたような充実感に浸ることができました。
秋月地区からの帰り際、街外れから古処山を振り返ると、麓の町で、人々が泣いて笑った年月を見続けてきた山が、今日も穏やかな表情で旅人の視線を受け止めてくれていました。
さ~て、そろそろ博多の酒盛りの席へ移動することにしましょうか。
※ 他の記事へは index をご利用頂くと便利です。
九州の梅を訪ねて 花の旅 index 1
他の花の旅 旅の目次