氷見市街の朝日丘に鎮座する八幡神社(はちまんじんじゃ)を訪ねました。
石鳥居の先の石段を上ってゆくと、小丘の頂部に社殿が据えられていました。
「御由緒」によれば、
「創建は大友家持と伝えられ、昔、悪亀が汐を吹き上げ田に害をなしたため、磐で圧し殺し鎮めた場所で、「シヅメの森」「鈿女(うづめ)森」「雀森」とも呼ばれた。
これは海抜ゼロメートルの湖西湖の逆流によって田畑が被害を受けたため、付近一帯の岩磐浅瀬を利用して治水を行った祖先の姿を語るもの」だそうです。
八幡神社の周囲は、幾本かのツバキの花で飾られていました。
市街を少し離れ、下久津呂の八幡宮にやって来ました。
境内に見える幾多のツバキが、淡緑色の苔に紅の花を落とし、社殿背後の崖の上にもツバキの古木が立ち並んでいました。
崖の上に育つツバキは陽当りも良好で、環境保全さえ心がければ、将来はきっと、県内有数の巨樹群になるはずです。
布勢の円山(ふせのまるやま)は氷見市街の南西4Kmほどの場所にある、周囲 約三百メートル、高さ約二十メートルの小丘陵で、水田に囲まれて島のように盛り上が っています。
急な石階段を登った頂に、布勢神社と大伴家持を祀る御影社(みかげしゃ)があります。
円山の眼下には田園風景が広がっていますが、今から約1300年前は、円山の周囲一帯は「布勢水海」と呼ばれる大きな水海でした。
大伴家持は、746年から751年 までの5年間、越中国守として越中国府(高岡市伏木古国府)に住んでいました。
家持は天平20年(748年)、奈良からの使者、田辺福麿を「明日はまず越中の名所布勢の水海へ案内しましょう」と誘い、福麿が、
藤波の咲き行く見ればほととぎす 鳴くべき時に近づきにけり
(巻十八・四〇四二)
と詠んだのに対し、家持が、
明日の日の 布勢の浦みの藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも
(巻十八・四〇四三)
「明日眺めようという布勢の海辺に咲き匂う藤の花に、ほととぎすが来て鳴かないで、せっかくの花をむなしく散らしてしまうのではなかろうかと気がかりです」と答えました。
山頂にはその歌碑が建立されていました。
布勢の円山を下るとき、石段の脇に赤い花を咲かせるツバキの姿を認めました。
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