杵築(きつき)は国東(くにさき)半島の南端に位置しています。
室町時代初期に木付氏によって城が築かれ、江戸時代には松平氏3万2千石の城下町として栄えました。
今も中心部に、武家屋敷や商家など、江戸時代の街並みに紛れ込んだような景観が保存されています。
今回の旅は九州に梅を見ることが目的ですが、梅の品種は300を超えるとされ、それらは大きく3つの系に分けられ、その内の一つが豊後系と呼ばれています。
豊後系は更に豊後性と杏性に分けられ、豊後性はアンズとの雑種と考えられています。
昔、豊後とよばれた国は、今の大分県とほぼ重なります。
また、大分県は豊後梅を県木としていますので、豊後梅は大分県が発祥と考えますが、はっきりしたことは不明なようです。
しかし、杵築市のホームページには「杵築藩主が砂糖漬けにした梅の実を、将軍に献上し、採取用や観賞用として市内のあちこちに植えられています。」
との記載がありますので、今回の旅のテーマの一環として、何としても見ておかねばなりません。
杵築に着いて、最初に城を訪ねました。
杵築城は八坂川の河口脇の台山の上にあります。
南に八坂川が流れ、
正面には守江湾が広がっていました。
城の周囲は公園として整備され、市内各所で発見された石造物などが展示されていました。
また、法政大学創立者顕彰碑なるものを目にしました。
え!と思いました。
慶應大学を創設した福沢諭吉の出身地が、国東半島の北に接する中津市であることは今回の旅で初めて知りましたが、法政大学も大分県人が創設していたことも全く認識していませんでした。
ブログを書くに当って調べてみますと、法政大学の三人の創設者の内の二人、金丸鉄(かなまる・まがね)1852~1909と伊藤修(いとう・おさむ)1855~1920が杵築藩士の家に生まれているそうです。
私は今まで、大分県といえば別府温泉と久住山に咲くミヤマキリシマしか知らなかったのですが、今回の旅で大分県に対する認識を改めました。
豊後の国は学問好きな人が多いようです。
更に、城山公園で次のような掲示物を目にしました。
「 宮本武蔵 杵築(木付き)に
慶長17年(1912年)宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で、検分役を務めたのは杵築城代の松井興長であった。
決闘が終わって小次郎の門人たちに命を狙われた武蔵は、門司城代の鉄砲組に護衛されて養父無二斉のいる豊後へ送り届けられた。
松井興長は無二斉の門人であると記述されており、地元では武蔵が杵築に来たのではないかと言い伝えられている。」
と記されていました。
ほんとに、初めて知ることばかりです。
杵築城を堪能した後で、武家屋敷を見に行きました。
武家屋敷は商人町のある谷を南北から挟む台地の上にあります。
私は北台へ登る酢屋の坂を上がって行きました。
台地へ登ると、城の方角へ向けて、土壁の道が続き、
その両側に家老屋敷であった大原邸、
藩主の休憩所としての御用屋敷であった磯矢邸、
藩校の門などが並んでいました。
私は、桜に包み込まれた秋田県角館の武家屋敷のような光景を期待していたのですが、磯矢邸の庭の豊後梅が寂しげな姿を見せるばかりでした。
豊後梅の季節には早すぎましたが、北台の武家屋敷から城の方角へと下る勘定場の坂の途中で、白壁から覗く白梅が微かな香りを漂わせていました。
商人町を歩いていると、「伊能忠敬測量隊別宿跡」と記した石碑なども目にしました。
期待した豊後梅の花に巡り会うことはできませんでしたが、杵築で旅心を存分に満喫するひと時を過ごすことができました。
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