2月7日
昨晩は大分の牛丼屋で夕食を済ませ、今いる吉野梅園までの道を30分程もはしり、梅林脇の空き地で夜を過ごしました。
翌朝は、夜明けを告げる太陽が、光りを投げる車内で目を覚ましました。
夜明け前の寝袋の中で寒さを感じましたが、目が覚めて車外を確認すると、車の窓ガラスや鉄板がカンカラカンに凍り付いていました。
「寒いはずだよな」と呟きながら、ダウンジャケットを羽織って、吉野梅林へと足を運びました。
吉野梅園には、地を這うように枝を伸ばした臥龍梅があります。
その臥龍梅には、下記の如き解説が添えられていました。
「臥龍梅の由来
建久3年(1192)京都堀川御所騒動のとき、藤原信近が都を退いてこの里に来て住んだ。
その子近里は山に薪をとりに行き、出会った翁の教えにより太宰府に参籠し、梅花一輪を賜った。
近里はこれをこの地に挿し祈念すると、その枝が芽をふき成長した。
その後梅樹は繁茂し地を這い臥龍梅と呼ばれるようになった。
また、永禄3年(1560)豊後国主大友宗麟がこの地で観梅の宴を催した時、活花にしようと御用人に梅一枝を折らせた。
その途端、御用人は気絶したが、暫く我に返り「吾は、天満大自在天紳なり。汝はこの地主たるが故に、この度だけは命を助くべし、今後一枝たりとも折るべからず」といって再び人事不省となった。
宗麟は己の非礼を謝罪し、神殿を造り年々祭りを怠らなかったと言う。
あるとき、大分城主 松平不騫公が参拝し紳園をご覧になり
よし野芳野 かしこは桜 ここは梅とお詠みになった。
また、安政6年(1859)に、この地で開かれた芭蕉忌の折に、芭蕉の句
この梅に 牛も初音啼つべし
の句碑が建てられた。」
と記されていました。
古の頃からの伝承を伝える梅園のようです。
それにしても、本当に寒い朝でした。
梅園内のベンチが白い霜で覆われていました。
そして一枝にのみ、陽を浴びた白梅を認めましたが、
石鉢に張られた、氷の上に吹き寄せられた枯葉が、この季節に咲く白梅の健気を語っていました。
梅園を擁する吉野神社の境内は、凛として冷ややかな気配にたたずみ、清しい心地よさを感じさせてくれます。
もしかすると、全ての梅枝に花が溢れる季節より、一枝に白梅がほころぶ今の季節だからこそ、吉野梅園の神髄を見せてもらえたのだろう、と思いました。
満ち足りた思いで吉野梅園を後にして、国道10号を南へ向かいました。
犬飼で大野川を渡り、国道236号の三国街道に入ります。
山の中の道をはしり、幾つかのトンネルを抜けて行きます。
吉野梅林を出てから小一時間もはしると、駐車場の山壁が紅梅で飾られた「道の駅 宇目」に至りました。
道の駅を出て橋を渡れば、そこはもう宮崎県です。
私はこの道の駅で目にした「アジ姿寿司」を買い求め、ハンドルを握りながらの朝食を得ました。
パッケージに張られた「釣り」のラベルが食欲を刺激します。
寿司は新鮮なアジに包まれ、飯の間にシソ葉が隠されていました。
寿司を口に含めば、シソの香が口いっぱいに広がり、その直後に、アジの旨味が舌から喉の奥へと伝わります。
私の朝食としては、いつもより量が多いと思えたのですが、瞬く間に二本の姿寿司が腹の中に納まりました。
朝から満ち足りた気分に包まれて、快適なドライを続けながら、車は延岡へと近づいて行きました。
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ですね。ゆっくり読ませてもらいます。