市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

テント劇団「どくんご」神柱神社境内上演 

2011-05-10 | 格差
どくんごの全国縦断旅公演がスタートした。4月23日水俣の公演は前夜祭とみられるようなので、宮崎県都城市が実質の初日になる。それで去年11月の宮崎市カフェ天空ジールの上演から、わずか半年しか経ってない。なぜかくも急ぐのかと、おどろきと不安をも感じつつ森につつまれた神柱神社境内に1観客として、宮崎市から自動車で一時間半、境内入り口に迷ったが定刻ぎりぎりに間に合うことが出来た。

 上演を図ったのは「劇団どくんご都城公演事務局」とあるが、去年テント演劇に感動した吉田さんが、授業の傍ら1人で受け入れをやり、売券に廻りで実現に漕ぎ付けたと聞き及んでいる。その奮闘の甲斐あってか、テント劇場はほぼ満席であった。そして、不思議なモノ静けさに満ちていた。観客の多くが「特設”犬小屋”テント劇場」の見出しに、あるとまどいと、物珍しさへの期待を息を潜めて待っているのだろう。ぼくはおよそ20年あまりも劇団に付き合ってきた人種なので、このテント劇場に入ると、水に戻った蛙のようにはしゃぐ気持ちを抑え切れなくなってくる。なにしろひさしぶりの祭礼の夜だからである。はしゃぐ気分を押さえるのに懸命になる。だが、テントの内外に、知り合いの顔が目に飛び込んできて、落ち着けない。どいの、五月、まほ、健太、鹿児島市の「少年期」の二人の女優、博多から駆けつけていた外山さん、10年ぶりに会う今回の主演、空葉景朗、11月に衝撃を受けた客演のワタナベ・ヨウコなどなど再会を喜んで、開演まえの会話を楽しまざるを得ない。かくして蛙のように跳ねるのを押さえこめないでもいたのだ。

 とにかく落ち着きをとりもどして、最前列のベンチに座る。左隣に宮崎市実行委員の梅崎さんがいて、右に初めてという若い女性が座りにきた。梅崎は、宮崎市上演の前宣伝を狙ってか、自分ののすぐ後ろの初老の夫婦に、このテント劇は初めてですかと気さくに声をかけだした。いろいろとそのおもしろさを彼が話しかけていると、夫人は、とつぜん、私らは「ドッグ・ショー」だと思ってきたんですがと、言ったのだ。ドッグ・ショー!!なんという連想、このステージで、生きた犬たちが、ショーを見せる、実に似つかわしく面白そうなステージではないかと、くりひろげられる犬たちの舞台が、猛然と眼前に現れる幻想で、衝撃を受けたのである。犬たちは言葉を話さない、しかし、芝居は成立するのではないか、そのリアリティに思いをそそられた。このチラシを読んで、「ドッグ・ショー」の上演と読み込む奔放、大胆なる発想、その思い込み、彼女こそ、どくんご芝居最高の鑑賞者、享受者になるやもしれんと、いや、そうだと、ただちにぼくは断定した。思ったとおり、開幕早々、彼女とご主人の笑いが、いきなりテント内に響いた。それは音楽のように心地よく、ぼくは夢見るように快感の誘いを感じさせた。

 犬は人間の言葉はしゃべらない。人間は言葉をしゃべる。人間は他人に話しをする。ぼくはそんな話相手と、何億回と遭遇してきた。話し手は、自分はしゃべっているつもりだが、しばしば、たいがい、予想以上に、相手を拷問しているだけなのである。かれらはそのことが、自覚できないのだ。話の内容が空っぽとか、新聞かテレビか本から拾ってきたような屑を、屑とも見分けられずにみせびらかすなどなど、拷問具となる。人間として、学識とか教養とか地位とかと関係はない。むしろ文化人といわれた層の大部分は会話欠陥人間が多いのではなかろうか。その共通症状は、相手の話を聞けないことである。自分が今しゃべることしか関心も余裕もないのだ。もし人間であると思うなら、しゃべる能力を訓練すべきだ。それには、まずは、なにより聞き上手になる訓練をつむことであろう。ぼくは、人間としゃべるよりも犬としゃべるほうが、ましだと思うことはしばしばある。犬のことばはかれの意識全体であり、そして、まさに愛に満ちているからだ。それに聞き上手だ。

 だから、想像できるのだ。ドッグ・ショーの楽しさを。そこには人間の言葉は存在しないが、言語はある。芝居は台詞という人間の言葉で成立している。そのたいていは日常性をもっている。どくんごテント芝居の言葉は、非日常的である。しかし、無意味ではない。日常的言葉は、舞台では、無意味になってくることがある。2年ほどまえに宮崎芸術劇場製作というギリシャ劇の「女の平和」を観た事があった。あの脚本には、ギリシャ古典劇の洗練された人間の言葉で構成されていた、と思えた。しかし、この演劇ではあらゆる言葉は殺されて役立たずになっていた。そのおどろきで、どう殺されたのか、その殺され方が興味があって、最後まで見たのだが、その意味だけだった。宮崎日日新聞文化面に演劇批評が掲載されたが、こういうものは、たいがいちょうちん持ちの一面をもたざるを得ないところもあるが、そのときだけは、この上演は無意味だと批判していたのだった。演劇の言葉は、このように複雑な様相を帯びるのである。

 そこで、どくんごの役者たちの特性の一面が思いを占めてくる。かれらは代表の伊能、五月、時折旬、暗悪健太、みほと、だれも無類の聞き上手であることだった。彼らは、どちらか言うと寡黙なほうだろう。しかし、うっとうしくはない。むしろ弾むような明るい会話をすぐに交換できだすのだ。ぼくが、テント劇を楽しめるのは、その上演もさることながら、会話に飢えている日常をひととき満たされるからでもあった。その夜は、劇団員のほかにもしゃべりのキャッチボールを楽しめる人間たちに出会えるからでもある。

 かくして「神柱公演 特設”犬小屋”テント劇場」は、ぼくの目の前で開演したのだ。涼しい、さわやか、季節がいい。こんなのは初めてだ

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