Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

新橋演舞場『三月花形歌舞伎 夜の部』 1等A席前方花道寄り

2013年03月23日 | 歌舞伎
新橋演舞場『三月花形歌舞伎 夜の部』 1等A席前方花道寄り

3/23観劇。

今月は諸々あり図らずも毎週夜の部を拝見することになりましたが役者の成長や舞台の変化、また役者の物語解釈の意図がよく見えて飽きずに観ることができました。

『一條大蔵譚』
冷たさの残る爽やかな暖かい春風、そしてこの時期に感じる未来への希望と不安が入り混じるそんな春らしい空気感を運んできた舞台でした。

一條大蔵卿@染五郎さん、寂寥感のなかに狂気を含むなんとも哀切な一條大蔵卿でした。作り阿呆の無邪気さと凛とした正気が紙一重。あまりに阿呆が馴染んでしまい偽りと本当の狭間で寂しい寂しいと叫んでいるかのようでした。身のこなしの阿呆の時の舞の華やかな柔らかさと正反対な正気での語りでのあまりの鋭すぎるキレ味がかえって二重性の奥に潜む「何者でもない者」が生きていく術として身に着けた身のこなしのように見えました。怖さではなく生きる人としての哀しさが前面に出た一條大蔵卿。

13代目仁左衛門丈でしたかしら「一條大蔵卿を演じる時は作り阿呆の部分でもまず公家らしい品位を保たねばならない」とおっしゃったのは。染五郎さんはまずその品位という部分を落すことなく公家らしい柔らかな呆けた愛嬌と凛とした武張った姿をしっかりみせてきていました。また吉右衛門さん写しでの台詞がほんとによく馴染んできて義太夫に乗せて凛とした低い声での武家言葉、地声に近いところでの柔らかな公家なまり、ちょっと甲高い阿呆の語りの使い分けがきちんと出来ておりそのうえの哀切さのある自分の語りとして伝えることができていました。ここまでしっかり語れるようになるとは!あとは輪郭を濃く深くしていき大蔵卿の狂気の裏にあるの世の中に対するまた自分への自嘲含めた憎悪まで表現していって欲しい。染五郎さんの大蔵卿の人物解釈は吉右衛門さんの大蔵卿に沿ってはいると思うのですがそのなかでも大蔵卿の哀しさの部分に共感を抱き掬いとっている感がありました。

それにしても本心を語る部分での空気を切るような大きさのある小舞は見事でした。またその武張った姿から砕けて鬼次郎夫婦に投げかける「とっとといなしゃませ」の公家なまりのさらりとした柔らかさい台詞づかいにはにちょっと惚れ惚れ。

播磨屋ならではの繊細な細やかさを積み重ねる大蔵卿は吉右衛門さんはすでに自分のなかで昇華しおおらかさの方向になってきていますが(昨年12月は明らかに造詣が今までの吉右衛門さんの演じ方から変化していました)染五郎さんではどう進化していくのかこれからが本当に楽しみです。どこかリアルな心理描写をのせていく播磨屋の大蔵卿をぜひ染五郎さんの味で確立していってほしいです。中村屋や澤瀉屋の作り阿呆と正気をはっきり明確にみせる古風なやり方もありますし様々な型が残っていけますように。

鬼次郎@松緑さん、源氏に一途に忠誠を誓っている信念の固さが今回は動きのなかに見せてこれたかなと。台詞は義太夫にしっかりのってるとはまだ言えませんが前回拝見した時よりだいぶ抑揚の部分で改善していました。

『二人椀久』
椀久@染五郎さん、松山太夫@菊之助さんの踊り手としての資質の違いが本当によく噛み合った間合いのよさ。愛情が通っているという情感ではなく世界観が同じであるための情感がたっぷりという感じです。物狂いの幻想というどこか張りつめた空気感と熱。

椀久@染五郎さん、リハビリ中とは思えない隅々まで神経が行き届いた踊りぶり。最後の最後まで観客に集中力を欠かせない。腕そして指先でだけの動きでも想いを伝えてくる。回を重ねるごとにどんどん乗ってきているように思います。ゆったりとした踊りでは愛おしい女を思う色気と物狂いの追いつめられたような惚けぶりの哀れさの両方が漂います。そして夢のなかでの幻影たる松山太夫と踊る時の熱に浮かされたようなどこか可愛げな恋狂いから身を投げだすような激しい踊りへと迎い終盤の松山太夫が持つ手紙に翻弄され絡み取られすれ違いの切迫感、そして幻影が消え去った後の愕然とした姿。椀久の心情を緩急とキレのある踊りで見事に表現していました。最後の心細そうにただひたすら太夫を追い求め崩れていく姿は本当に哀れで切ないながら狂いの怖さもありました。

松山太夫@菊之助さん、椀久が理想化した夢の女を艶やかにたっぷりとそれでいて虚空をみつめるような瞳で柔らかく踊っていきます。包み込むような姿でいながら男を翻弄する冷ややかさもどこか持つ。崩れない品のよさが美しく夢の儚さを体現。美しくたらんとする丁寧で柔らかに踊りぶりに溜息が出ます。