Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

シアターコクーン『桜姫 現代劇ver. 清玄阿闍梨改始於南米版』S席1階後方上手寄り

2009年06月29日 | 演劇
シアターコクーン『桜姫 現代劇ver. 清玄阿闍梨改始於南米版』2回目 S席1階後方上手寄り

『桜姫 現代劇ver.』前楽、2回目の観劇です。先日の1回だけの予定でしたが友人からチケットを安く譲っていただいていそいそと行ってまいりました。もう1回観てもいいなあと思っていたので行けて良かったです。私にとってはこの芝居、複数回観る価値ありの芝居でした。やっぱり面白かった~~。若干、求心力の弱いところはあるけど、役者を変え、演出を変えて再演してもらいたい。

物語のなかの物語。運命に支配され、そのなかで蠢く人々。生きることの切なさ。外からの支配と内からの支配。

この脚本、やはり好きだな。

二度見ても面白い部分は変化なかった。しかし筋を追わない分、どこが物足りないかも見えてしまった。それでも好きだけどね、この芝居。特に二幕目のココとイヴァが暮らしている場のシーンがなんともいえず好き。

串田和美さんの演出、今回観たほうが内輪に向きがちな演出も、まあ在りでもいいかなと、そこは気にならなかったけど、一番欲しかった、南米の空気はやはり足りない、という感想を強くした。どことなく空気感が小洒落すぎてる感じがあるんですよね。音の使い方はヨーロッパの特に中欧・東欧あたりを連想させてしまうのでもっと南米を表現するにはベタな音を使ったほうがよかったと思う。

あとは前回の感想では書かなかったけどマリアとゴンザレスの衣装が気に入らない。何か違うような気がする。マリアは終始白にするべきじゃないかなあと思う。色があってはいけないキャラクターだと思うのよね。あとゴンザレスはセルゲイの裏側なのだから黒基調にすべき。セルゲイはあのままの衣装で良い。白から薄汚れていく様は象徴的でこの物語に合っている。

今回、マリアのキャラがやはり一人の人格としてのマリアとして描かれていない、というのがハッキリわかった。語り部、外からの干渉「運命」の器としてしか機能していない。いわば「無」でした。人格があるマリアは父が殺された瞬間に崩壊したのかも、と今回思った。だから何者でもない者になり、運命(自己決定がない)そのものに絡み取られる。

笹野さんも色んな役を演じてたけどすべて墓守り(語り部で運命をつかさどる役割)としての存在だった。物語の外枠の存在。そこにまた物語がある、という多重構造の使い方。

しかし、この物語を表現するうえで、ゴンザレスがやはり弱い。脚本?と思ったんだけど、それだけじゃない。やはり勘三郎さんが演じきれていない。現代劇の手法を会得できてないせいだ。ゴンザレスというキャラを体現しきれてない。終始、同じトーンの佇まいに台詞回し。ゴンザレスのカリスマ性、屈折、弱さなどが現われていない。なのでセルゲイを見事に体現している白井さんに負けてる。セルゲイと表裏一体、という部分がまったく見えない。歌舞伎役者が現代劇を演じる難しさを感じた。天才と言われる勘三郎さんだけど、それでもいわゆる現代劇の手法は勉強していないのだから、簡単に会得できるわけがない。勘三郎さんにとっては冒険でしたね、やはり。

ゴンザレスには革命家としての狂信的な部分が必要。そのうえで俗を体現しなければセルゲイと表裏にならない。今回残念ながらそこが見えない。

実はエルモの役者も物足りなかった。もっと存在感、威圧感、屈折度が必要かなあとか。ゴンザレスやセルゲイと同格じゃないとね。

ココ@古田新太と老婆(=マリア)@大竹しのぶさんの毒酒(ブルーハワイ)に絡んだハプニングに見えるいかにもアドリブなやり取りはアドリブではなく演出でした。初見だとアドリブでフォローしたようにしか見えないですね、あそこ。

ラスト、セルゲイとゴンザレスは「運命」にあがらうことで自己が成り立つ。自己の解放。運命の糸から解き放たれる。しかしあくまでも物語のなかの自己でもある。物語としての物語。そのうえで人が生きることへの問い掛けがあったように思う。

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『桜姫 現代劇ver. 清玄阿闍梨改始於南米版』
原作: 四世 鶴屋南北
脚本: 長塚圭史
演出: 串田和美
出演:
マリア(桜姫)/墓守・・・ 大竹しのぶ
墓守/他・・・・・・・・・笹野高史
セルゲイ(清玄)・・・・・白井晃
ゴンザレス(権助)・・・・中村勘三郎
ココージオ(残月)・・・・古田新太
イヴァ(長浦)・・・・・・秋山菜津子
イルモ(入間悪五郎)・・・佐藤誓