Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

シアターコクーン『桜姫 現代劇ver. 清玄阿闍梨改始於南米版』A席中二階ML

2009年06月21日 | 演劇
シアターコクーン『桜姫 現代劇ver. 清玄阿闍梨改始於南米版』A席中二階ML

面白かった!なんとラテンアメリカのマジックリアリズムな芝居でした。鶴屋南北『桜姫』オマージュであり、ラテン文学の特にたぶんガルシア=マルケスのオマージュ。長塚さん、ラテン文学と鶴屋南北に共通点を見つけたんだと思う。物語が物語を内包するいわゆる「綯交ぜの物語」。ここを持ってきたってだけで私はもう楽しくてしょうがなかった。そして、そのなかで人として生きていくことの罪と罰、生きるということが何か、っていう所ときちんと向かい合おうとしている姿勢が良い。長塚さんは海外文学大好きっ子だと思う。私は長塚脚本は『sisters』と今回の芝居しか知りませんが、かなり私好みかもしれない。次も追いかけるよ、と思いました

今回の作品、ラテン文学好きには色々楽しめるかもよ~。原作の『桜姫』を知っているとなお面白いけど、知らなくても十分、おお、これはラテン文学オマージュですねっ、なところで絶対楽しめると思う。

ラテン文学の手法を使った、鶴屋南北『桜姫』を内包する長塚圭史『桜姫 現代劇ver.』でした。少しばかり頭でっかちで綺麗にまとめすぎている感はあるけど、よくぞ巧く嵌め込んだ、という面白さのほうが勝った。南米を舞台に『桜姫』を作ると聞いた時はどうするんだろう?と思ったんですけど見事に綯交ぜの物語にしてきた。非常に重層的な物語。そして舞台の空間、世界、時空の飛び越えをなんとも絶妙に使ってくる。正直言えば長塚演出で観たかった。もっとちゃんとマジックリアリズムを見せてきたんじゃないかと思う。

今回の串田さんの演出もかなり脚本の意図を汲み取っていたとは思う。長塚さんの意図を汲んでラテン文学、映画の手法も勉強してきたのではないかと思う。だけど、串田流の箱庭的調和が時々、脚本と噛み合わないかな?という部分があったのが少々残念。今まで観てきた串田演出作品のなかじゃ一番私のなかでしっくりはきたのだけど。私は串田さんの脚本に対する演出家としての姿勢は好きだけど内輪に向きがちな演出やミニチュアと人形に拘る演出がちょっと好みから外れるのだ。でもいつもよりは違和感を感じなかったし、かなり楽しめたことは確か。

今回もっとなんとかできなかったかな?と思ったところは「南米」が完全には立ち上がってきてなかった所。音楽の使い方や空気の捉え方がなんだかヨーロッパ的なのよ。どことなく空気が乾いていてラテンぽくない。なんだろな、あの濃いねっとりした空気、抜ける青空、乾いた赤土、みたいなものがもうひとつ伝わってこないのはなぜだろう?役者がラテンの濃さを出せてない、という部分もあったかもしれないけど。まあ日本の芝居でここを求めるのは酷かもしれないなあ。テキストが面白かっただけに求めてしまうけどね。

しかし、よくぞこれをコクーン歌舞伎のなかでやってくれました、という感じだ。もう、歌舞伎じゃないですよ。完全に現代演劇だもん。いくら現代劇ver.となっているとはいえ勘三郎さんのコクーン歌舞伎だからと行った人は多分「ん?」ってなったんじゃないかな(笑)。それと現代劇でもいわゆるマジックリアリズムの寓意性、不条理性を理解できないと面白味を味わえないかも、とも思うし。長塚さん、冒険してきたなあ。ラテン文学は日本ではマイナーっすよ。

さて、役者さんは一番良かったのはセルゲイ(清玄)の白井昇さん。役に合いすぎです。この芝居の主役はセルゲイでした。聖職者はいつでも内のなかの俗と戦わなければいけないわけで(笑)、その揺れ動きを見事に表現していた。聖職者たらんとする狂信的な浮世離れな部分が良かったなあ。純な部分の狂いがあった。

マリア(桜姫)の大竹しのぶさん、相変わらず上手いです。墓守とマリアのいったりきたりがお見事。ころころと絶えず変化する。どんな時でもこの二人がいつでも内包されている。そして墓守は語り部でありマリアは運命である。「女」としての一個のキャラとしてはたぶん描かれていない。大竹しのぶさんの芝居からはそう見えたのだが、さてどうなんだろう?脚本を読んでみたい。

ゴンザレス(権助)の勘三郎さん、アクの強い役をちょいムサイ感じで演じていて、悪くはないのだけどどこか浮き気味かな。欲望のまま悪事を働き、革命家として持ち上げられる、という「悪」のカリスマ性が欲しかったなあ。それがマリア(桜姫)に出会うことで矮小化していく、って感じのキャラのような気がするのだけど、最初から小悪党な感じで。感覚的な部分でゴンザレスに嵌りきれてない気がした。でも脚本的にも描ききれていない感じもしたので勘三郎さんのせいだけではないかもしれない。あと台詞が意外と聞きづらいところが…歌舞伎だとそんなことないのに。

ココーシオの古田新太(残月)、イヴァの秋山菜津子(長浦)は、それぞれ役者のキャラが活きていてとても良かった。二人の後半の場面は可笑しいと切ないが同居している、いかにもマジックリアリズムなシーンなのだけど(青トカゲの毒酒がブルーハワイに変わる、それが普通としてそこにある、そんな場面とか、色々ね)そんな場面をあれだけ演じきれるのは見事だと思う。この二人のシーン、好きだ~。台詞もあれこれも好きだ。「現在だけしか信じない」


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『桜姫 現代劇ver. 清玄阿闍梨改始於南米版』
原作: 四世 鶴屋南北
脚本: 長塚圭史
演出: 串田和美
出演:
マリア(桜姫)/墓守・・・ 大竹しのぶ
墓守/他・・・・・・・・・笹野高史
セルゲイ(清玄)・・・・・白井晃
ゴンザレス(権助)・・・・中村勘三郎
ココージオ(残月)・・・・古田新太
イヴァ(長浦)・・・・・・秋山菜津子
イルモ(入間悪五郎)・・・佐藤誓


4 コメント

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そう、南米です。 (yokobotti)
2009-06-22 23:25:04
ガルシア・マルケスやバルガス・リョサのイメージでしか南米を捉えてなくて、イメージの範囲なので、本当の南米がどうなのか、それは分からないのですが、長塚圭史さんが舞台を南米に持っていった慧眼には、参りました。おっしゃるとおり、この舞台の主役はセルゲイだと思いました。そして、聖職者の堕落を描くのには、聖と俗のコントラストが強い南米が最適かと思うのです。(あくまで私の持っているイメージの話ですが)
本当にこのお芝居、見に行ってよかったです。
本当の南米 (雪樹)
2009-06-24 11:25:32
yokobotti様

こんにちは。私もあくまでも物語のなかの南米しか知りません。本当の南米がどういうものかはやはりわからないです。でもイメージとしての南米、物語のなかの南米のなかに今回の「桜姫」はうまく嵌ったような気がします。長塚圭史さん、ここによくぞ嵌めましたね!と私も思いました。聖と俗のコントラストの強さ、そして幻想と現実の曖昧さ(マジックリアリズ)に違和感がない、という部分で現代劇にした時に「日本」ではなく「南米」にしたところが見事だったかなと。私もこの芝居は観に行ってよかったです。出来れば、他のキャストでも観て見たい芝居です。今回の1回だけではもったいない。
確かに… (yokobotti)
2009-06-26 08:25:07
そうですね。雪樹さんがおっしゃる幻想と現実の曖昧さ(マジックリアリズ)が、成立する場所と、しない場所ってありますよね。この芝居では、全然違和感なく成立していて、だからこそ、とっても豊かな空間が出来上がっていました。
歌舞伎版はご覧になりますか?清玄を演じられるのは勘三郎さん?
どう演じられるのか、どういう演出があるのか、興味津々なんですが、私は観劇予定がありません。雪樹さん、もし、見られるのなら、感想を期待しております。
そうそう (雪樹)
2009-06-26 15:22:56
yokobotti様、そうそう、そうなんです。空間を立ち上げる場所、って大きいですよね。どこを選ぶかによってまったく違ったものになる。今回のお芝居の空間、とても素敵でした。

歌舞伎版、チケットは一応入手済みなんですが観ようかどうしようか実は悩み中。歌舞伎の『桜姫東文章』には少々思い入れがあって…。孝・玉のを観たという幸せな体験をしているんです。でも、今回の現代劇ver.が思いがけず面白かったし思い切って観てみようかしら。辛口になりそうな気がしますが感想、頑張ります。