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ダウン症児の将来と人生という「不安な航海」についてーシンガー『生と死の倫理』より

2010年02月16日 | 生命・環境倫理
ピーター・シンガー・樫則章訳『生と死の倫理 伝統的倫理の崩壊』(1998年,原著1994年)に、ダウン症児に関するもので、印象深い文章がある。

たとえば出生前診断で我が子が「ダウン症児」として生まれる可能性が高いとわかったら、産まないほうを選択する人もいるだろう。

このことはどう考えればよいのだろうか。

これは、今生きているダウン症の人たちが生きなくてもよい、ということを言っているわけではない。

親たちは、わたしたちの人生という「不安な航海」を目の前にして悩んでいるのだ。

>ダウン症の人たちは特有の外見をしていて、協調運動(四肢を組み合わせた複雑な運動)がうまくできず、さまざまな程度の知的障害がある。しかし、まったく痛みはなく、何度も手術を繰り返す必要もない。ダウン症の人の多くは性格が明るく、暖かみや思いやりがある。ベビー・Cやベビー・Jとは異なって、ダウン症の人たちの生命を「苦しみに満ち、その苦しみを補うだけの要素がない」と表現することはできない。それではどうしてサー・ダグラス・ブラックのようなすぐれた医師が、アーサー医師の公判で「ダウン症の子どもが生存しないようにすることは倫理にかなっている」と言うことができると思ったのだろう。(262p)

>これらの疑問に対する一つの答えがある。かつてシェイクスピアは人生を不安な航海にたとえた。私たちは親として、あるいは親になろうとする者として、自分の子どもには航海の途中で何が起こってもよいようにできるかぎり万全の備えをしてその航海に出て欲しいと思う。「自分の子ども」という表現はすでに生まれている特定の子どもだけを指す必要はない。私たちにはまだ子どもがなく、これから子どもをもとうと計画している場合でも、私たちが欲しいと思っている子どもに、人生という不安な航海にさいして幸先のよいスタートを切らせてやりたいと願うのはもっともなことである。そのほうがー広い意味でー私たちの子どものためになるだろう。しかし、私たちがダウン症の子どもを育てないことを選択するかもしれないのは、「そのほうが子ども自身のためになるから」という理由だけからではない。子どもをもつことは、私たち自身の不安な航海の中心的部分でもある。子どもが10 代になるまで、私たちはその世話をし、子どもの人生を導いていく。子どもが私たちからひとり立ちするようになっても、私たちはなお子どもを愛し、子どもの喜びと悲しみを分かち合うだろう。

>ダウン症の子どもをもてば、正常な子どもをもつこととはたいへんちがった経験をすることになる。それは暖かみのある愛情に満ちた経験でありうるが、自分の子どもの能力については多くを期待することはできない。ギターを弾いたり、SF小説を鑑賞したり、外国語を学んだり、ウディー・アレンの最新の映画について話し合ったり、バスケットボールやテニスなどの一流選手になったりするのをダウン症の子どもに期待することはできない。ダウン症であれば、成人になっても自立できないかもしれない。そしてダウン症の人が自分の子どもをもつことはあまり例のないことであって、彼らの手におえない問題を生じるかもしれない。ダウン症児の親のなかには、こうしたことをまったく問題にしない人もいる。そのような親にとっては、ダウン症の子どもを育てることはじつに多様な意味で報われる経験である。しかし、ダウン症の子どもを育てるのがたいへんな親もいるのである。

>行く末が雲に覆われていれば、「自分の子ども」のためにも、そして私たち自身のためにも、自分の子どもが人生という不安な航海に出るのを私たちは望まないかもしれない。船出の直後にこのことがわかれば、新たな出発をする機会もまだあるかもしれない。このことは、私たちとその子をすでに結びつけはじめている絆が断ち切れなくなる前に、生まれた子どもに別れて自由な身になることを意味している。もっと先に進んで、その状況を最善のものにするために精一杯の努力をするかわりに、私たちは「いやだ」と言ってはじめからやり直すこともまだできる。これこそモーリー・ピアソンが、ダウン症児を産んだと聞かされたときに「ダック、わたし、その子は欲しくない」と夫に言ったときにしたことである。(シンガー『生と死の倫理』263p-264p)