連載エッセイ しとせいかつ 第4回 紙上の標本から、いつか世界をうつすものへ   亜久津歩

2015年04月09日 | エッセイ

劇的な読書体験から詩作を始めたという話をしばしば聞くが、わたしはそうではなかった。読書量の少なさを恥じつつも劣等感を動機に読み漁るのは無粋に思え、必然性のある、または直感的な巡り合いの到来を待ち焦がれている。運命的と言い換えることもできる。存外、ロマンチストなのだ。そして怠け者である。

さてここに、ウンメイテキに出逢い、今も家族のように居る一冊がある。「私の好きな詩人」でも書いた、谷郁雄著『自分にふさわしい場所』だ。先日、久しぶりに読んだ。この詩集はガードレールなので、「久しぶり」ということは、わたしがそれなりに順調に暮らしているということだ。

 

そしてゆっくり

言葉が詩になってくれるのを

ぼくは煙草を吹かしながら

待ってみる

 

「詩」

 

一日が

短い映画なら

一生は

たった一つの言葉

 

(「見上げる空に」より)

 

この「ぼく」の中に、谷さんはどのくらいいらっしゃるのだろう。「すべて」でも「いない」でもあり、「そんなことはどうでもよい」とも言える。詩を読む際の、わたしの基本姿勢は「どうでもよい」だ。しかし、この「ぼく」の中にだけは、ほんの少しでもいいから谷さんにいてほしいと願ってしまう。なぜだろう、「技術」はつめたいものではないのに。わたしが詩の中で「自分」を、あるいは詩を「自分のもの」のように思い違え、手放せないものだから、「ぼく」にもそこに居てほしいと望むのかもしれない。

こういった技術に包容されるとき、わたしの書く詩はわたしの話ばかりしているなぁ、と痛感する。わかりやすい詩こそが善い詩とも、数多く共感されたものだけが良い詩とも思わない。「共感」さえ疑わしく、代弁や自己犠牲など信じることができない。だが、自分にしかわからない話を自分を救うためだけに書いていても、「自分の救い」にすらならないということ。いい加減、ハラに落ちてくれ。

「私は」「わたしは」と書き留めることは、拡散する同一性を虫ピンで刺す行為である。ふわふわと千切れ散らばる自我や身体感覚を、紙の上に表出し確かめてきたが、次はここから自由になりたい。

詩は自己表現ではない、内面の発露ではないということについても。知識としては納得いくが、体感がまだ追いつかない。詰まっているものが邪魔なのだ。ただ、汲み上げ続けてきたせいか、喉元までせりあがっていたものが、心臓に至ることはなくなった。

わたしはもうしばらく、発露を続けていくだろう。このどぶ浚いを終え、いつか詩人の目と手を持てるものなら、「自分」を超え、どこまでも自由に透けて、世界をうつしてみたい。

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