連載エッセイ しとせいかつ 第11回 枕元の『現代詩100周年』、つながらない冒険者たち。 亜久津歩

2015年11月14日 | エッセイ

 「切迫早産」になってしまった。妊婦健診へ行ったその場で「できればすぐに入院を」と言われるもすみません無理ですとヘコヘコ帰宅し、極力横になっていること・4時間おきに服薬することというお達しを遵守している。前回書いた「産前さいごの祭り」もすべて泣く泣くキャンセルした。まだ出てくるには小さいのだよ、次男坊!

 飲み始めた薬の副作用が顕著である。ふるえは何の中毒かしらというほどで滑稽にさえ感じるが、動悸と吐き気は眉間をMの字に硬めてやり過ごすしかない。そんな状態のため長い作業や読書が難しく、TOLTAより企画刊行されたばかりの詩集『現代詩100周年』を枕元に常備している。アンソロジーなのでつまみ食いも比較的気がラクなのだ。

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 初読の際は、早産の不安から逃れるようにふるえる指でページを開いた。そして捲るたびに薬の作用とは別の高鳴りを覚え、また快感がひろがっていった。

 約100篇の現代詩、は似ていない。TOLTA代表・河野聡子氏の「はじめに」にある「『現代詩』というジャンル全体の特徴は、『特定のスタイルのスタンダードをつくらない』ということ」「無定形の現代詩は、それぞれの詩人が自分だけの定型、自分だけのリズムをつくり、言葉を組み合わせ、詩の意味を見出すことを、そのつどそのつど行います」という言葉のまま、それぞれが進もう、進めよう、残そう、遊ぼう、拡げようとつくられた作品が並んでいる。

◆「はじめに」全文(刊行意図・序文)

 一つの見開きが一つの個室、いや異なる世界でありそこに、ひとりひとりの詩人の気配が色濃くある。模索という冒険がある。緊張と余白があり、土と道があり、風通しはよく、息がしやすい。これもわたしが詩、特に現代詩をすきな理由の一つだ。

 詩人の集まりは数多く存在するが、個々人の理想思想、問題課題意識、「すき」のツボや琴線はさらに多岐にわたる。当然、共感や同意のできないものもある。きらいなものも。ただ、その「違い」がすきだ。これを厳しさと捉える人も甘さと捉える人もいるだろうけれど。

 わたしは変わらない顔ぶれで定期的に物事を続けることが不得手である。方向性や慣習を一にするものは特に。事実がどうであれ、己の内に滞りや濁りを強迫的に認めてしまう。また他人との関係性は距離と粗さがないと息苦しい、それが善意や優しさに満ちたものであっても。そうして集団や連帯からはみ出したところに、いつも詩はいてくれた。

 およそ詩は儲からない。分野自体、死んだ終わったと言われ久しい。ほめられない。ほめられたらほめられたで馴れ合いだ権威主義だ商業主義だと指さされもする。わからないとか自慰だとか、否定的な意味で言われる…こともある。正解も共有しやすいステップもない。努めたぶん伸びるものでもない。自分が何のために何を書いているのかわからなくなる…ことも、ある。そんなことはとうに受け容れ、詩をつくる。書いていく。

私たちはそのつど自分で詩を見出していかなければなりません。私たちはくりかえしていかなければなりませんし、詩を書き続けなければなりません(同「はじめに」より)

 誰も、わざわざ手を引いてなどくれない。こちらへ行けと背を押さない。いや、時に押され、拒んできた。わたし自身が求めていないのだ。けれどこのアンソロジーを読みながら、心強いまぼろしをみているようなあたたかさが、ふとこみあげてきた。「いつも詩はいてくれた」そう思ってきたように、詩人の存在を感じて。

 わたしに詩を「やめる」ことなどできやしないとかねがね思ってきたが、改めて確信する。ずっと詩と生きるだろう。いつかやどこかにいる詩人を感じながら歩むだろう。詩をつくるのだろう。最期まで。



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