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連載エッセイ しとせいかつ 最終回 死と詩と私、と生活 亜久津歩

2015年12月12日 | エッセイ

2015年、師走。出産予定日も近づいてきた。おかげさまで「早産」の時期は越え、いつでもドーゾ状態だ。はやく抱きあげ、笑いたい。

さて、当エッセイも最終回。締めに何かいいことを言いたいなどと考えてみたものの、やはりダメで。結局、あまり人に話したことのない―話したいかもわからないけれど誰かに聞いてもらいたいような―とても個人的な話をさせていただくことにした。最後だしとかこつけての、読んでくださっているあなたへの、甘えである。

 

詩と死

わたしのつくる詩には、昔から「死」が頻出する。このつよい言葉には、ドートク的にどうとかいうよりも作品がよりかかりやすいので安易に用いるべきではない、と考えてはいる(詩において安易に用いるべき言葉などないが)。だが、ただ、馴染みの深いものなのだ。こどもの頃から「死ぬ」と「死ね」と生きてきたから。

 

しかし死は、ためこみ過ぎると浮腫み澱み、具合が悪くなる。だから詩のなかに排出してきた。詩はどれほど無様な絶叫でも勝手な射精でも受けてくれたし、吸収された死はまるで作品の一部のような、他人のような顔をするのだ。おかげでわたしは、やや歪みつつも生活を続けて来られた。「たぶん 死ぬかはりに/殺すかはりに 書いたからだ//死にたい/と書くことで/死なないですむのなら/詩はクスリみたいな役に立つ」(吉原幸子「自戒」)を読んだときには、心から首肯いたものだ。こうして詩を利用し、詩に生かされてきた。

 

死と生活

夢も野望も全滅したら死ねばいいから、限界までがんばってみよう。長く、そう考えてきた。死にもまた、生かされてきたのである。エミール・シオランのいうところの「自殺に寄生してきた」(詳細不明・参考1 2)感覚に近いかもしれない。やさしい食卓のかわり、いつかは帰る胸、そんなものだった。

 

今がそのとき、という六月があった。じき二児の母になろうとしている身でいうが。わたしは、二十代半ばに子をひとり堕胎している。短く言えば、わたしが弱すぎたのだ。この子を殺すなら、ともに死ぬべきだと考えた。そういう考え方を持つ人間だった。

 

けれど死ねなかった。こわくなったのだ。詫びることも悲しむことも痛がることも違うと塞ぎこんだ。動揺し混乱し、申し訳なく情けなくただ苦しく真っ暗だった。椅子に立ち薄いふくらみに手をあて見下ろす床は、真夜中の冬の海に似ていた。波打ち際を歩くこと、潮騒に耳を寄せること、黒い揺らぎの照り返すひかりを眺めることはすきなのに、崖から、どうしてもどうしても飛べない。あのとき死が、かぞくやふるさとなどではなかったと思い知った。わたしは全身の液体を逆流させながら、奪うと決め、奪ったものに、絶対にちゃんと生きると誓った。「わたしに生きていく価値などあるのか」はもとより疑問であったが、それよりも自ら死ぬ資格、選択が消えたのである。都合のよい話だ。

 

その後「ちゃんと生きる」ため、生活基盤を移しながら心療内科通いを続けた。それまで頑なに譲れなかったことも決して認めたくなかったことも、火を放つように捨てられた。やがてわたしは結婚し、妊娠し出産し、生活を送り、妊娠し、今に至る。

 

もう自殺をおまもりにしなくても、詩を書かなくても、生きていける。そう知っている。

 

しとせいかつ

白い紙を前にしていると、浮かんでくる声がある。

「わたしの書くべきことを、わたしは書き終えてしまったのではないか」

「わたしにはまだ、詩が必要だろうか」


いつからか、今の自分には切実さが足りないと感じてきた。だが違ったようだ。わたしは詩に縋り、詩に依存している状態を「詩と生きる」ことと混同してきたに過ぎない。詩を愛してきたつもりだったが、ただ自己愛の中でもがき、不安と空しさに酔っぱらい、甘えてきたのかもしれない。振り向けば、やけくそにやり散らかしたセックスのような断片が敷き詰められている。詩を汚すな、という言葉が甦る。それどころか、わたしは詩を死なせてきたのではないか。自分のかわりに。

 

はじめ、わたしがいて、詩があって、その向こうにいるのもわたしだった。やがてわたしの先の、詩の先にいるのは、他者になった。ときに社会とか世界とか曖昧なものにもなった。わたしは「詩」そのものを読み、見てきたろうか。書けたことがあったのか。

 

前のやり方を、あるいは今もそのように生きている人を否定するつもりはない。ただ、わたしは変わりたい。何度目だろう。もう一度、詩を始めたい。大切に読み、知り、大切につくりたい。詩を「利用」しなくても生きられるようになったからこそ、ゆっくりと、「切実」に、向き合えるものもあるはずだ。今、ここにいるわたしに辿りつくために踏みこえてきたシをひとつずつ拾い、抱えあげ、見つめ直したい。別れるものは丁寧に弔い、この手で磨けるなら、今度こそ詩として生かしてみたい。

 

それが、これからのわたしにとっての「詩と生きていくこと」だと思うから。

 

 

 


以上で連載エッセイ「しとせいかつ」を終わります。1年間 全12回、本当にほんとうにありがとうございました。またどこかで、お目にかかれましたら幸いです。


◆亜久津歩/Facebook:亜久津歩 Twitter:@ayusuke_

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