5月末に、伯母が亡くなった。
92歳だった。
彼女のことを書いておこうという気持ちになれなかったのは、彼女と我が家との間には全く付き合いがなかったことによる。
物理的にはすぐ近くに住んでいるのに、精神的には他人より遠い存在でしかなかった。
”我が家的”に言うと、ここ十数年の嫌な出来事は全て彼女がらみであり、彼女によってずっと苦しめられ続けた。
それは彼女の意図するところでもあったのも知っていたから、書くこともなく気が重かった。
92歳で逝ったのだから、世間的には大往生なのだろう。
しかし現実は、病院のベッドで、誰にもみとられず、誰にも泣いてもらえず、ひっそりと一人で逝った。
それがどうしてなのかは、たぶん本人が一番知っているだろうから多くは語らない。
せめてもの救いは、最後はもう良い記憶も悪い記憶もさっぱり忘れて苦しまずに逝けたことだろう。
子どものいない伯母にとって、唯一の生き残りのきょうだいである父(伯母にとっては長弟)に代わって、私が彼女の死後のあれこれを取り仕切らざるをえなかった。
あれだけ苦しめられた父も、彼女の死を伝えた瞬間は信じられないような、とても寂しそうな顔を見せ、私に「精一杯のこと」をするように頼んだ。私もそれに従い、粛々と事をすすめることにした。
病院への「お出迎え」から通夜~葬儀、四十九日、納骨までを、従妹(伯母にとっては末弟の娘)とふたりでなんとか悔いなくやり切った。
従妹もまた、身内が彼女に散々苦しめられた被害者の一人でもあったから、「なんだか変な感じ」と二人で顔を見合わせた。
人もうらやむような最高の戒名をいただき、亡くなった祖母の形見の着物を着せ、大好きだったイケメンプロゴルファーとの写真と寄せ書きを御棺に収めた。そして、大好きだったゴルフのボールの形の骨壺に遺骨はおさまった。
「どんな方でしたか?」
葬儀を前に、葬儀プランナーや、お坊さんに聞かれた。(そう聞かれても困るのだけれども・・)
「まぁ、一言でいうと”生まれてくる時代を間違えた人”でしょうね・・・」
あと10年後に生まれていたら、彼女はもっと自分の人生を生きられたかもしれない。
誰も恨まず、こんな孤独な最期を迎えずにすんだかもしれない。
そう考えると、人の一生などなんと無常なものだろうか。。。
とにかく派手な人だった。欲が深く、なんでも手に入れたい人だった。
18年前に夫を看取ってからは独り身を謳歌し、大好きなゴルフに明け暮れ、社交的な性格もあって若くイケメンのプロを家に招いてはパーティ三昧の日々を送っていた。
軽く一千万を超えるお金をひいきのイケメンプロたちに貢ぎたおした、結構な豪傑である。
しかし、悲しいかなさすがの豪傑もここ数年衰えが進み記憶を失い始めた。
時すでに遅く、その頃には手元に置いてあった札束が次々となくなっていたという。
”認知の老女”のたわごとと、警察も信じてくれなかったそうだ。
危険を察知した民生委員の計らいで弁護士が後見人につき、一切の財産を管理してくれるようになってからは、その「取り巻き」たちはピタリと姿すら見せなくなった。
「家族のような」つきあいをしていたくせに、所詮は金の切れ目が縁の切れ目。
たまに”正気”に戻ったとき、彼女はどれほど悲しかっただろう。
どうして誰も来てくれなくなったのか・・・とノートに書き殴る文字が切ない。
死去の知らせを送った某プロゴルファーの方たちからは、もちろんお悔やみの返信も何もない。
一人暮らしの田舎の老女に貢ぐだけ貢がせておいて、最後はこんなものなの?
マメな叔母はすべての金銭のやり取りを帳面に記録していた。落ち着いたらじっくりと金銭の出納を整理したい。
だって彼女が浪費した大金はみな、私の大切な祖母がこつこつためたお金だったのだから・・・。