口からホラ吹いて空を飛ぶ。

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#ブログ読書感想文  ニンジャスレイヤー:ネヴァーダイズ

2016-08-20 | 小説

 詮無き事とは判ってはいるのだがつらつらと考える事がある。
 「悪意」はそれ単独で人を動かすものではあるが、「殺意」はそれ単独で人を動かすものなのだろうか?
 「殺意」と「悪意」は不可分なのだろうか、別個に在るものなのだろうか。悪意の無い殺意などというものが有りうるのだろうか?

 ニンジャスレイヤー第3部「ネヴァーダイズ」。この物語での本質的なテーマは「人間性」であると考える。
 第1部から読み進めるに、この物語は社会構造との戦いであることが読み取れる。
 「ネオサイタマインフレイム」は独裁者との戦い
 「キョートヘルオンアース」は階級支配との闘争
 そして「ネヴァーダイズ」では人的社会インフラへの抵抗と、複雑化していく。それに対して社会構造から失われていく「人間性」。

 復讐譚は主人公の「憎悪」が全ての起爆剤となり進行する。ベルセルクしかり、ニンジャスレイヤーしかり。
 はたして人間性とはなんであろうか。優しさ?気遣い?喜怒哀楽?それらの総称?
 
 ならば「憎悪」を「人間性」と捉えても間違いではあるまい。

 押し流すディストピア、管理社会の濁流に抵抗する為主人公、フジキドケンジが選択したのは、過去からうずたかく積み上げられた無念と憎しみを受け入れる事であった。無差別な殺人鬼と紙一重でありながら、それでも「人間性」を彼が保ち続けたのは何故か?
 書籍版に於いて「キリング・フィールド・サップーケイ」が書籍サブタイトルに選ばれたのには意味がある。
 
 「殺戮空間・殺風景」。
 
 この中篇はストーリーを見るだけならシンプル過ぎるほどシンプルである。まさしく「ニンジャが出て殺す」を体現したストーリーは、ただただニンジャのイクサ、ニンジャのカラテを殺伐と無慈悲に描ききっている。
 だからこそ相対するニンジャ、デソレイションの「ただ殺し、また殺す」無軌道と彼の虚無的心象風景を具現化したような「サップーケイ・ジツ」はフジキドに少なからず影響を与え、影を落とす。
 デソレイションは「きちんと」悪意を持って相手を殺していただろうか。
 作中で「魂と人間性をヤスリがけされるような感覚」とある。「水墨画めいた、モノクロームな光景」とある。
 魂に、心に色彩があるとして、虚無的に殺す存在の心に色彩はあるのだろうか。極彩色でも漆黒でもそれが「色」であるならばまだいいだろう。他の色を足せば色合いは変わるのだから。
 色褪せてしまった、削り落とされ色の乗る余地が無くなった魂に人間性など望むべくもないのだろうか。
 翻って現実での無差別殺人の報道や自爆テロ等を見るに犯人は本当に「憎悪を持って」人を殺していたのだろうか?
 とあるニンジャは「邪悪ではないニンジャなどいない」と語ったが、ニンジャとモータル(一般人程度の意味)の心根に違いなどあるというのだろうか?
 
 ならば人間性にニンジャもモータルもあろうはずもない。
 
 管理社会、ディストピアとは喜びも悲しみも、ましてや憎しみなど全てを押さえ込む社会である。ネオサイタマの人々は怒りの声を挙げた。力を持てない人々が挙げたのは祈りであった。対するは人間性を押し流すシステムである。
 大儀や正義などというものが介在する余地は無い。むしろこの物語は「そういったもの」を拒絶しているのではあるまいか。そんな気がする。
 俗に「憎しみの連鎖」という言葉が見受けられる事がある。正論だ。しかしそこに一抹の欺瞞がありはしないだろうか。勧善懲悪、復讐譚、ピカレスク、これらが廃れる事は無く、時に人々の慰めにすらなり得る。
 管理、抑圧とその正論は表裏一体、紙一重のバランスで成り立っている。現実は人間が裁き、調停するからこそ成立している。
 
 フジキドは既に死んだ者達だけでなく、今生きている者達の怒りも、更にはフジキドへの復讐者の怒りも全て抱えて決断的に拳を握っている。彼は狂人か?否。彼ほど憎悪と人間性を無限回で問い続けている存在は居るまい。

 我々が最も恐れるべきは自らの「殺風景」に飲まれる事だ。悪意と、殺意までは行かなくてもある種の「衝動」は誰にでもある。それを見つめ、問い続ける事だ。

 ニンジャスレイヤー:ネヴァーダイズ。個人の怒りから群像劇の様相を見せ、終盤は様々な局面から戦い、抵抗する人々が描かれた。フジキドやニンジャ達の戦いが全てではないだろう。力だけが怒りの表現ではないだろう。DJゼン・ストーム、デリヴァラー親子に見る気高い人間性。翻ってアマクダリ幹部連の削り落とされ色褪せた人間性。

「人間性」対「管理社会」。第3部とはそこに集約される。





 黄金立方体はまた音も無く回り続けるばかりである。