口からホラ吹いて空を飛ぶ。

 twitter:shirukozenzai 

STG衰退についてゲーム性以外から考えてみる

2009-02-09 | ゲーム

お久しぶり。既に日記じゃないですがまあそれはそれで。
で、本題。既出ネタかもしれんし頭の中でまとまってる訳でもないので例によりgdgd書いてみる。

ネット上で「シューティングゲーム(以下STG)の衰退について」語られると、十中八九難易度や稼ぎ、弾幕といったシステム面、ゲーム性の話になっている気がする。

何故か?

STGを考えてみると、ジャンル全体を見てもその始まりは相当に古い。
現代STGの基礎をどこまで遡ればいいのかはよく判らないが、固定画面のインベーダーからスクロール、3D、斜め視点、と手法は数あれど、根本部分は変わらない。

撃って、避ける。

それだけだ。
その単純さ故に、インカムを含めたシステム的にも限界点が見えてしまう。
現状は、その「限界点」に対して皆が「どうやってシステムに多様性を生み出そうか」と思案している状態なのだろう。



ただ、その限界点は「システムだけではない」のではないだろうか。
一つはストーリー。
STGにおけるストーリー性を考えてみると、あくまで撃って、避けるが基本にある為必然的に「闘争、戦争」が主題となる。
古典と位置される「ゼビウス」もしくは「ファードラウト・サーガ」から現在までそれは変わらない。
(余談ではあるが、ゲーム全ジャンルを通じても「ゲームのバックボーンに深いストーリー性を持たせた」のはおそらくゼビウスが最も古いのではないだろうか。)
ただ、その主題故に、世界観を作りこめば作りこむ程、その世界は狭まっていく。
80年代後半~90年代にかけて、タイトーシューティングを初め、名作が多数生まれたが、その精緻に作りこまれた世界観の為か、「一作限り」の物が多い。
元来、ゲームというものは「一話完結」が基本である。
それはいわば「連続ドラマ」よりは「映画」に近く、良くて「全×作構成」とするのが精々である。
更にはその主題から重いストーリーである事も多く、物語のラストが所謂「鬱エンド」である事も少なくない。
ただ、暗いばかりではなく、ストーリーを読み込み、やり込む事で希望を感じ取る奥深さを持ち合わせた作品もある。
その領域に辿り着き、語る事の出来るプレイヤーはごく限られた者だけだが。

STGに活気があった時期とは、同時にジャンル全体にそういった重苦しい印象が広がり、一般層が敬遠し始める時期でもあったのではないだろうか。

勿論、重いSTGばかりではなく「パロディウス」や「超兄貴」、最近では「オトメディウス」と云ったキャラゲー、バカゲー方向の作品もある。
これらはネタがネタだけに正当な評価とカテゴリとして認識されているのかは甚だ疑問ではあるし、タイトルの絶対数は多くない。
だがこれ等作品が生み出すイメージがある意味ジャンル全体を「救ってきた」側面もあると思う。

パロディウス、オトメディウスの名前が出た所で、原点となる「グラディウス」ではあるが、この名作シリーズのストーリーの基本は到ってシンプルな所が興味深い。

「外宇宙から飛来した敵を迎撃する」

これだけである。シリーズである為、作品によって多少の差はあるがそれ程深くストーリが作り込まれている訳ではない。
逆に言うとこういった「ユルさ」故に、今現在も新作を生み出すキャパシティーを維持できているのかもしれない。
反対に、アイレムの「R-TYPE」は初期こそそれ程凝った世界観ではなかったのが、シリーズが進むにつれて新しい設定が加えられる事で遂には「FINAL」をリリースするに到り、「STGとしては」打ち止めとなってしまった。
こういったストーリー的にユルい作品も相当生み出されているのだが、今度は逆に

「物語的に語るべき部分が少ない」

為、冒頭に書いたように「システム方向で語る、考察する」しかなくなってくる。

STGの衰退とは、システムの限界が生む物語性の限界を示しているのではないだろうか。



本当は音楽性の方向からも書こうかと思ったけども長くなったのでここまで。
続き書くかは未定。「書け」言われたら書くかも。

コメント (6)
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