口からホラ吹いて空を飛ぶ。

 twitter:shirukozenzai 

キャベツ太郎

2016-04-26 | コラム

 だがしかし、アニメ面白かったですね。
 全12話というのも手頃で。サヤ師よかったなあ……ほたるさんもいいけどサヤ師だよなあ……
 ちょっとした疑問なんすけど、ぺたん娘って服装も何故か薄いっつーかルーズっつーか無防備?になりやすいんスかね?
 いやリアル知り合いにもそーいう感じの人いたりするもんでね?エロい要素はまるで全く無いけどね。

 んで本題。
 キャベツ太郎。ありますね。スーパーだったりドラッグストアだったりコンビニだったり。よく見かける。
 「だがしかし」でも紹介されてたりしましたね。
 で、ふと思ったのですよ。
 
  キャベツ太郎は駄菓子である←これ前提

 他の駄菓子って専用つーか大体まとまってコーナーとして陳列してるじゃないですか。でもキャベツ太郎は違う。ポテチなんかと同じ棚に並んでたりしますよね。
 つまりですよ?駄菓子のキャベツ太郎と同じ所に並んでいる訳だから、他のポテチや米菓子なんかも必然的に駄菓子である、と言えるんじゃなかろうか、と。
 つまりお店の陳列次第で、キャベツ太郎と並ぶ事で、カスタードケーキだろうとコアラのマーチだろうとリッツクラッカーだろうと全て駄菓子である、と言えるのではなかろうか、と。
 更には一緒に並ぶ事でゴディバのチョコであろうとブランデーケーキであろうと「駄菓子である」と認識されるのではあるまいか。
 
 キャベツ太郎はただそこに佇んでいるだけだというのに……っ!

 キャベツ太郎は「駄菓子である」が故に、周囲の認識を書き換える訳ですよ。ミーム感染を起こす訳ですよ。
 ミームとはなんですか?という質問も出ると思うのですが、コレね?従来は言葉一つにも時代によって色々意味が加えられていくけども、言葉そのものの認識は一定というか共通の認識をされているモノだったのですね。
 それを、ミームという概念はその認識そのものを書き換えてしまうのですね。
 間違った日本語の用法なんかもその一種と言っていいかもしれません。

 閑話休題。

 キャベツ太郎という存在が期せずして駄菓子という認識の枠を広げる可能性を示したと言えるけども、逆に、ならば
 駄菓子とはなんぞや?
 キャベツ太郎とはなんぞや?
 という認識のゆらぎを起こしてしまうのではなかろうか。

 あれ?これSCPになりません?SCP-■■■■ーJP-キャベツ太郎 みたいな。誰かTale書きませんか。
 高級菓子店の片隅にひっそり並んでたりするの。誰も気がつかないの。存在してるうちは店内のお菓子やケーキもなんもかも駄菓子と認識されちゃうの。1000円のお菓子が10円やそこらで売られちゃったりするの。
 で、太郎が何時の間にか居なくなって、閉店後の集計で店員さん蒼白になったりするの。
 最初は1袋のはずが、2袋、3袋と増えて世界中に広がったりするの。
 で、普通に食われたりもするの。
 何時の間にか世界経済が崩壊の危機に陥るけども誰も原因がわからないの。
 あ、やべえこれketerか良くてEucledか。

 オチはありません。

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胸育的概論

2011-04-09 | コラム

 (゜3゜)おっぱい見飽きたーーー!!!

そう、最近ふと一人になった時にしみじみと思ってしまうのだ。
近頃余りにも量産され過ぎた、言葉が過ぎるとは思うが「ブロイラー」とも表現できるようなおっぱいに溢れているのではないか…、と。
断っておくが近頃の条例どうのこうのというような下衆な勘繰りをされても困る。
今そんな事を断行するものならこの国難の時期に益々「日本の元気」が失われる事は疑いようがない。
エロこそが明日の活力を生む事もまた疑いようがないのである。
時の為政者には努々安易な運用をされない事を願う次第ではある。

さて話を戻そう。
最近の、特にアニメにおけるおっぱいのなんとやる気の無い事か。
巨乳などと表現できるうちはまだ良い。
ただ中にバレーボールでも詰めてるだけではないか、というような、ともすれば「媚びてる」と表現するのすら正しいのか考え込んでしまう胸部が散見される。
お胸に丸いの2個付いていればよい、といった話ではあるまい。
実際にはそういった「セクシー」を売りにした作品ほど実際にはおざなりなのではないか。実例を挙げると角が立つので止めておくが。
あくまで個人的な印象と仮定ではあるのだが、最近のそういった系統の作品は総じて、
キャラクターデザイン、ボディバランスなど見る限りアメリカナイズされたような良く言えば健康的、セクシー、悪く言えば大柄、大味なデザインが主流と思える。
それは峰不二子の昔からの伝統である「おっぱい古典主義」とも言えるものであり、大きいものは良い物だ、大艦巨砲主義的な価値観に回帰しているとも言えるのかも知れない。

そのカウンターとして「貧乳」「微乳」「ちっぱい」「バキュラ」などがあったりするが、これはおっぱいそのものに価値を置く、というより
その前提である「幼女・少女」と言う存在によって愛でる対象として認識されている為、正しく性的に対等な評価軸が存在するか、というのには議論の余地があるのではないかと思う。
ただ、ここに一つの句点を置きたい。

「貧乳は希少価値だ、ステータスだ」

泉こなたが発したこの宣言は、以前から一定の認識を得ていた貧乳に、新たな市民権を与えるに足る、
「こなた以前・以後」という解釈も成り立つのではないだろうか。

さて、ここまで書くにあたり、実は不遇といえる存在があるのだが。
いわゆる「普通」の胸である。
現実であれば、ほどよい、お椀型というか、美乳といえる良い型が多数派を占める筈なのだが、アニメ、漫画からのコンテンツ一般においてはそれは「没個性」の一言で終わってしまい、
この範疇に入るキャラは多方面からの個性により成立しているという現実がある。
「巨乳のメイドさん」「貧乳のメイドさん」はキャラとして成立し得るが、「普通乳のメイドさん」はもはや「普通のメイドさん」でしかない。
少々変化球ではあるが「私、脱いだら凄いんです」といったキャラもあるが、それはあくまで「基本は巨乳」という前提で成立するものである。
だがこの「普通のおっぱい」に、筆者の知りえぬ鉱脈がまだ眠っているとしたら。
指摘して頂けたら幸いである。


蛇足ではあるのだが、一つの提言をしておきたい。
これはおっぱいでもぱんつでもそうであるのだが。
簡単に「ぽろり」しても良いのか!?という疑問である。
深夜帯だから、というのはあるかもしれない。地上波では誤魔化し、ソフト化されてからというのも最近の主流であるともいえる。
それを売りにする手法については否定はしない。
だが日本のエロとは古来、「羞恥、恥じらい」の歴史であるのが他方指摘されているのは周知されている事と思う。

秘すれば花、秘せずば花なるべからず

侘、寂、粋、華。
これは我々消費する側も心の片隅に置いておく事柄かもしれない。
サービスシーンにどよめくのもいい。
だが、ただ脱ぐ、ただ全裸である事に風情などあるのだろうか。
普段の何気ないシーンにさりげなく描かれる谷間やチラへの「みえた!の精神」、これにこそ立ち返るべきではないだろうか。
長々と書いてきたが、これからもコンテンツ業界と日本の元気を支えるおっぱいライフの一助になれば幸いである。

それでは失礼して。
あぁ~やわらけぇ~やわらけぇ~~(゜3゜)

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twitter雑感

2010-01-21 | コラム

twitter初めて少々時間が経ったので今現在の雑感を書いてみる。
既に散々語り尽くされてるとは思うが、全くその辺は気にしない。

簡単に言ってしまうと「シンプルにしてディープ」。
どこぞの格闘漫画のようだが、実際そう感じる。最近は機能が追加されて複雑化してきているようだが、あまりその傾向はどうかとも思う。

このサービスを説明するのにどういった例えが判りやすいか考えてみたのだが、とりあえず、「川」に例えて見る事にする。

一人一人が個人的なことや時事問題、はたまたオタ方面や下ネタを「つぶやく」訳だが、それは川に例えれば「最初の一滴」に過ぎない。
だがその一滴を世界中のユーザーが流す事で大きくなり、twitterという大河が形成される。本当に巨大な流れである。
独りでつぶやき続ける事もできるが、それはささやかな流れでしかなく、大変寂しい。本来なら大河の一部に既に成っているのだが、その状態では夜の川みたいなもので、全く見えない状態である。

そこで流れの観測範囲を広げる為に、他に居る「水源」を探す訳だ。これが「フォロー」となる。
フォローが増えると観測範囲は広がり、川幅も流れも大きく、速くなる。勿論流れ込んでくる水も清らかなもの、暗く澱んだもの、はたまた化学反応でも起こしたのか奇妙な色合いの水も、と多種多彩だ。

面白いのはこの「フォロー」とはあくまでも個人的なレベルという点である。
相手もこちらをフォローする事でその相手は「フォロワー」となるが、それはあくまで流れの観測対象に限定される事であり、相手の流れに干渉する事はできない。個人のつぶやきページが用意されているのはつまりそういう事だ。
フォロワーとなったとて、相手の観測している川幅と自分の重なる部分はあるとしても全て重なる訳ではない。川幅の広い相手であれば尚更である。
逆に自らは流れに目を向けないが周囲からは注目され続ける人物もいる。芸能人、著名人などにそういう人物が散見されるが。

先程相手の流れには干渉できない、と書いたが、目を向けさせる事はできる。リプライやRTといった機能である。これによりフォロワー同士で交流、会話が成立する。
面白いのは、この「同期しているようで、実は隔絶している」構造により、フォロワー同士のやりとりがチャット的な使い方もできれば、メール的な使い方もある、という点である。

これはそのユーザーの存在も時間軸も曖昧である事が、一般に「twitterはゆるい」と形容されるように、許容されているからである。
本来チャットであるならばチャットルームがあり、ユーザーの存在は「そこ」に固定される。だがtwitterでは「僕はどこにでもいるし、どこにもいない」。
つい先程まで口角泡を飛ばし議論していた人物がふらっと居なくなったとしても、周囲はあっという間に忘れ去り、文字通り「流れ去られる」。
モバイル環境が構築されている点もそれに拍車をかけているであろうか。

逆に同時期にその流れに一つ石が投げ込まれると、波紋の様に広がる様も観測できる。それは時に助け合いであったり祭りであったりと様々であるが、その波紋は本来の川の流れとはまた異なり、twitterは「人の流れ」であることの証左である。
またその波紋を観測する、自分も参加する、という事はその個人の周囲との一般化、社会常識のすり合わせでもあり、ある局面では清濁併せ呑む許容量を試される場合もあろう。

シンプルな点も大きいだろうか。
一度につぶやけるのは140文字までであり、AAではなく精々顔文字であり、フォントの自由度も低い。
だがそれ故にその言葉は簡潔にならざるを得ず、長文による曖昧な表現、煙に巻く文章は制限される。何か意見を述べるにも自然と本質を思考しながら発言する事になり、文章より文節、文節より単語と表現に創意工夫が求められる。
一見した参加しやすさ、と裏腹な表現の難しさ、が逆にtwitterを奥深いものにしていると思うのだが。
それ故の参加者数と実際のアクティブユーザーにどれだけの乖離があるのかは興味がある所ではあるが、それを知るのは運営のみであろうし、今稿には関係ない話ではあろう。

さて長々と書いてきたが今現在の雑感であり、また時間が経つと違う感想も持つかもしれないが、この辺で締める事にする。
twitterは面白い。













あんま深く考えないで好き勝手絶頂に戯言言ってればいいんだけどな!
いえーいちんこちんこー( ゜∀゜)彡 おっぱい!おっぱい!

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答え合わせ~

2006-02-18 | コラム
えとですね、二つ前のエントリで「かしら、かしら、ご存知かしら?」などと言っていたのですが……

ううろんさん、お見事でした。ほぼ正解です。
それではイラストリクエスト、これは掲示板でも拍手でもここのコメ欄でもOKですのでお待ちしております~。
なんでもOKですよ~。

Akkyさん、これをコメントの返事とさせて頂きたいと思います。
模範解答……かな?
「それちゃうで」てな部分を発見した方がおりましたら指摘して頂けると幸いです~。
それでは、以下敬省略で失礼しまして……

まぶらほ:築地利彦 掲載紙:ドラゴンマガジン 因みに挿絵:駒都えーじ
まほらば:小島あきら ガンガンWING
マジカノ:百瀬武昭 マガジンZ (5巻の表紙を見た時「は い て な い ?」と思った(爆))
スクラン=スクールランブル:小林尽 週刊少年マガジン (俺は沢近萌えです)
らきすた=らき☆すた:美水かがみ 少年エース (最初はコンプティークからなのですよ)
ラブひな:赤松健 週刊少年マガジン (説明不要。)

では用語解説ですが、これは順番に、というより、「ヤマログ」を解説すると他の二つも自動的に説明する事ができます。

ヤマログとは……80年代から90年初期にかけてPC情報誌「LOGiN」に掲載されていた読者ページのタイトルなのですね。特に月刊時代の分厚い雑誌だった頃の。由来は
「南青山(ヤマ)(ログ)イン」の略からとられております。
当時編集部はアスキー社内での一部門でしかありませんでしたが、LOGIN誌の一コーナーでしかなかった「ファミコン通信」「MSXマガジン」などが単体で独立、その後にも「ログアウト」や「アスキーコミック(コミックビームの前身!俺愛読してた!)etc……と兄弟誌が増えるに従い、アスキー→アスペクト→から完全に一企業化して現在の「エンターブレイン」へと発展してきたわけです。
ファミ通は説明不要ですね。「ファミコン通信」が週刊化する際に雑誌名を短縮した物です。
このエンターブレイン系の雑誌の最大の特徴は、全雑誌ほぼ共通で読者ページが

 「イ カ レ て る(褒め言葉)」

事でしょう。それのそもそもが一番最初の「ヤマログ」から始まっている、ある意味「伝統」とも言える独特のカラーを持っている事だと思います。
特にファミ通は直系とも言える雑誌ですから「ゲーム帝国」やら「ファミ通町内会」やら「LETTERS伝言板」やら……
ある意味「ジャンプ放送局」と対をなす暴走っぷりでした。
(個人的には今のファミ通は普通、つーか落ち着いている、と思う)
それでは最後に「ぽげむた」ですが、そのヤマログ内で生まれた(と書くと語弊があるか)マークで、ニコちゃんマーク(写植BA-90)に毛が一本生えたマークの事を言います。
上の落書き、因みに沢近。彼女が持っているのが「ぽげむた」マークですね。割と適当に描いているのですが(笑)
因みに俺はRPGで名前を決める時は大概「ナマステ」か「ぽげむた」と付けます。


参考資料:ぽげむたの写植番号についてはWikipedia「ログイン」の項を参照させて頂きました。


こんな所ですかね~。古いパソコン誌やゲーム誌だと「マイコンベーシックマガジン」とか、「コンプティーク」(今月で通巻302号、25年以上!)とか、「テクノポリス」とか、「BEEP」(この前復刻版がでましたね……勿論買いましたとも)とかとかとか……きりが無いですね。この辺の話を始めると。
それでは今回はこの辺で。
また気が向いたらクイズやるかも~。難易度上げて。




さてさて明日は「フェブラリーステークス」だし、「ヘルシング外伝」の記事も書きたいし、ネタが押してる~、がんばろ~。
コメント (3)
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コンプの話かと思いきやサンデーの話だったり。

2006-01-11 | コラム

 
                 コンプカッテキタゾ
                   ∧_∧∩
                  (´∀`*//
                ⊂二    /
                `|  )  /
                口口/   ̄)
                  ( <⌒<<
                  >/
コンプティーク購入。発売日が俺の住む地域は一日ずれる。(ニュータイプなんかは発売日に出るのに。買ってはいないが)
付録がむやみやたらと派手だ。
一つはFate/Staynightのカレンダー。
もう一つは、らきすたおきらくがいどぶっく。
うむ。萌える。善哉(よきかな、と読んでいただきたい)

でも今日のお題はサンデー。
なんで話の枕にコンプを持ってきたのかというと、直接的ではないのだが、ちょっとネタ的に絡むからである。

昨年末、「こわしや我聞」が終わり、「クロザクロ」が終わり、新年早々「道士郎でござる」が終了した。それに伴い、「アルバトロス」を初めとする新連載が始まった訳だ。
更には秋月らせんさんが指摘していたが「D-LIVE」に巻きが入ってきているように感じるし、後どれだけ引っ張るのか(笑)判らないが「からくりサーカス」も確実に終盤であろう。個人的には「絶対可憐チルドレン」の掲載位置も気になる。

こういった事を書く理由・・・・・・
俺が気に掛かっているのは、サンデー全体の傾向が明確に変わってきている、と言うことだ。あにょかわわさんも指摘していたがサンデーの低年齢化志向、は確実にあるだろう。それと同時に俺は「萌え漫画志向」への変化もあるのではないか、と思うのである。
ならば「萌え」とは何か?といった話になるのだが萌えの定義などというのは存在しない。Wikipediaや竹熊健太郎氏のブログ「たけくまメモ」での議論を参考にしてもらえば判るかと思うが、適用できる用例、案件が広すぎるのである。
萌えというのは基本的に概念であり、イラストを見て単純に「可愛い」と思うのも、重厚なストーリーにおけるヒロインに深く感情移入するのもどちらも「萌え」と表現できるのだ。その際当人が「萌え」を自覚している必要は無い。
例を挙げると、
「タッチ」で朝倉 南に熱狂していた人達も、
「めぞん一刻」で音無 響子に感情移入していた人達も、
「こわしや我聞」の國生 陽菜にごろごろ転がっていた人達(俺含む)も、
「ハヤテのごとく!」のヒナギクに(*´д`*)ハァハァしている人達も、
全部「萌えている」のである。

だが前提条件として定義付けしないと、話が進まない。
そこで今回の話としてはより狭義の「記号的な萌え要素を多用する作品」と定義したい。
要するに、「メイド」や「ネコミミ」、「ツンデレ」といった、ある意味”わかり易い”要素を中心とした作品の事である。
少々乱暴であるが、上記の例でいえば(異論は勿論出るであろうが)上3作品が「ストーリーに入り込む事で萌える」作品であるのに対して下のハヤテは「記号、要素で萌える」作品である、と言える。
サンデーに話を戻すと、「あいこら」「ハヤテ」「アルバトロス」とそういった傾向の作品が増えてきている。

サンデー自体にそういった方向転換が起こってきているのではないだろうか。

勿論紙面全体がそう簡単に変わる事はあるまい。むしろそういった新しい方向性の作品を取り込む事で活性化を狙っているのかもしれない。「新しい血」というやつだ。
こういった事を書くのもまだ時期尚早かもしれない。
だが、しかし、である。
「マガジン」の例がある。
ここ数日のネットの中でのニュースではあるが、マガジンの発行部数が急落しているという。
昨年のマガジンを見ると、明らかに「萌え系漫画」が増えていた。
それにより従来の連載陣との温度差がある、もっと言ってしまえば「いびつな」バランスの誌面であったように思う。
「ネギま!」「スクールランブル」の成功が呼び込んだ現象なのかもしれないが、この2作品は「萌え漫画」である以前に完成度の高い「ストーリー」と「ギャグ」のある質の高い作品である。
「萌え要素」というものは、それ自体が即効性の高い強力な武器になりうる。
しかしそれと同時に作品の本質的な部分を遮ってしまい、「所詮萌え漫画」と斬って捨てられる、
逆に読者に読解力を要求する諸刃の剣となるのである。
「萌え」というものは作品単体のみならず、誌面を構成する編集側にも微妙なバランス感覚を要求するといえるのかもしれない。
ジャンプなどは意識的に「萌え」を避けている感がある。ジャンプの場合むしろ「お色気」か。ある意味「お家芸」ではある。だがジャンプにも閉塞感は感じられる。本稿の主旨とは外れるので触れないが。
サンデーの場合、変化はまだ始まったばかり、なのかもしれない。
俺の予想とは全然違う方向に行くかもしれないし、それはそれで面白い。
でも、ある意味伝統ともいえる「サンデー独特のカラー」は失わないで欲しい。

「今年のサンデーは面白かった」と年末に言えるような一年であってほしいものである。






思いっきり余談ではあるがサンデーは「ギャグ漫画」もトホホ・・・なんだよな。後で改めて書くつもり(あくまで予定。予定はあくまで未定)

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下手な考え休むに似たり。

2005-07-21 | コラム
で、前回の続き。
前回は「娯楽の必要経費(一定)の中で、通信費が増える一方、雑誌の費用が落ちているのでは?」
という話でした。
で、雑誌が通信に対して伍する状態に戻れるか?なのですが……
ごめん、思いつかねえ(爆)
通信ってものを考えると、
「定額」……最近はほぼこれですね。ナローな環境でもフレッツISDNとか。従量制ならやりくりってのもあるけど、テレホーダイなどできちっと管理するとか。むしろ余計に「費用」を食うか。
更に、あたりまえですが、モニター同士、回線で皆繋がっている訳ですね。「通信」だし。
これが強い。やっぱり「対人」なんですよ。
ネットが広告や、記事だけならこんなに広がりませんよね。
掲示板とかブログとか個人のHPとか、とにかくコミュニケーションの場所がある。
情報を「即時」に消費、ネタにして盛り上がる訳ですね。
基本的にネタはなんでも良かったりすると思います。盛り上がれれば。
「同じ場」で、「時間を共有」してものっ凄い速さで消費する。離れられませんやね。

で、本(広い意味で紙の書類も全部ひっくるめたいと思います。)なのですが、
無くなる事は無いでしょうけど、通信に対して(費用の上で)「勝つ」または「対等」には……。
通信の速度やセキュリティ等のインフレが行き着くところまで行って、通信そのものがタダ、もしくはとことん安くなるまでは無いのかもしれませんね。
ただ、本の良い所といえば、
「誰でも、何処でも、簡単に」読める所と、ネットが
情報、時間を「消費」し続けるのに対し、本は
情報、時間を「蓄積」している事だと思うのです。
例えば、ネットだと、一つのネタに対して、リアルタイムに付いていって事の顛末を見るわけですが、過去の情報はもう流れていってしまう。過去ログがある、と言われるかもしれませんが、データはデータ、いづれ消えます。保存して保管にしても、定期的なバックアップ、技術革新によるメディアの変更、予想外の出来事によるデータの損失は免れないでしょう。
最終的な保管は結局本になるのではないかと思います。
事の顛末の最初から最後までを時系列に沿って記録して物理的に保管できる。
ありきたりな結論なんですけどね。

ってここまで書いて思ったけれど、ファイル共有の本来ってこれだよな。
個人、または個別の団体の管理、保管の限界のあるデータを、公開と引き換えに分散させることで失うリスクを低くできる。あ~でも「公開出来ない」データだと意味無いか。結局文書ですな。

雑誌に限っての話だと、最近はカタログ的な雑誌がほとんどで、読める、保管するに値する雑誌が減っている……気がします。個人的な印象の話ですけどね。
ネットの速度がとんでもないものだから、追いつく為にいきおいカタログ的になる、のかもしれません。「読める」本が専門化して対象が狭くなる面もあるのでしょうけども。
下手に一般化しようとして中途半端な内容と値段の本より、
高くても深い所まで作り込まれたしっかりした本の方が(あくまで個人的に)好きなんだけどなー。一定の評価があれば長期に売れ続けると思うし。出版社の体力が続かないか。

「WIRED日本版」「Oh!X」なんかは面白かったと思う。

最後はなんかぼやきになってしまいましたが。
こんなんで勘弁して下さい。
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Refuse/Resist

2005-07-20 | コラム
最近、本屋に寄る事が少なくなったような気がします。
勿論仕事があるわけですから、帰る頃には閉店、てな事もまま、あります。
でも休日なんかでも、外出すれば以前なら少しは立ち寄ったりもしたのですが、
最近は足が向かない。
頭の中では、「あ~あの雑誌出てるな~」「あ~あのコミックス今日発売だな~」とは思ってはいるのですが。
ど~~~にも。向かない。
で、なんでだろう、と。

雑誌なんかは定期購入なに買ってたっけな。

「サラブレ」(競馬誌)

後は……あれ?買ってない?不定期に買う、気になる記事があれば買う、ただし月刊誌。
週刊誌なんかは全く買わない。
「惰性で買う」事が無くなったなー。と思った所で、あくまで私見なんですがね、

「娯楽の必要経費の中での、”書籍”の割合が小さくなったのではないか?」
と、思ったのですよ。
人間、娯楽は必要だと思います。そればっかり、も勿論不味いとは思うのですが、全く無い、のもそれはそれで不健康だと思うのですよ。
で、一定の「必要経費」があるのですが、このご時世ですから、そうそう増えるものではありませんね。でも面白いモノは沢山ある。
大概の面白いものってのは割と「選択/排除」が効くわけです。我慢ができる。
季節によるスポーツは判りやすいですね。その季節が来るまでワクワクテカテカしながら待ち構える訳です。
ゲームなんかもそう。少し時期を待って安くなる、中古で出回るのを待っている事もできる。
本なんかはゲームより単価が安い上、至る所に出回ってるから余計後回しになりますな。
でも、「後回しにできない、しにくい」ものが。
つまり「通信費」。
「携帯電話」「パケ代」「高速定額通信」などなどありますが、全部ひっくるめて「通信費」。
今、こうやって私もブログ書いていたりしますね。読んで下さっているあなたも毎月確実に払う訳です。個人差があるから金額の話は無意味でも、数年前には無かった「必要経費」。
この費用、数年前なら他の……手っ取り早く言えば「書籍」の代金になっているのでは?
とはいえ。
別に通信費が高いとか言う事ではないです。世界的にも日本は安いらしいですし。
商売で考えれば、今位が妥当なのかな、と。あとは自分のやりくりかな~。

じゃあ雑誌が通信(主にネット)と対等に戻るのか……つーと、
まだ頭の中でまとまってないので後日。


ってこんな話ネットのなかではさんざん既出なんだろうな~~~~。
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