2012年10月21日、日曜日
いつものようにダラッとした午前の微睡み。
ノンビリとテレビなどを眺めていた。
携帯が鳴る。
従兄弟のトオルちゃんからだ。
滅多に鳴らぬ身内からの電話…
となると、嬉しい内容ではないことが多い。
トオルちゃんの母、オレの叔母が危篤とのこと。
3年前に危篤の報が来て、お見舞いに行った。
一時は、本当に危ない状態であったが、奇跡的に回復し
その後、トオルちゃんの弟・ヒトシちゃんの自宅に引き取られた。
それから3年。
「もう危ないんだよ…今日、明日かも知れない」
次に続く言葉こそ言わなかったが
「顔を見に来てやってくれ」と言いたかったのだろう。
場所は、千葉県の市原市。
ここからだと2時間近くかかるだろう。
しかし息子を除く親類の中で、おそらく一番叔母に可愛がってもらったのはオレだ。
行かぬわけにはいかない。
サッとシャワーを浴びてから出かける。
病院では叔母の息子、トオルちゃんとヒトシちゃんが待っていた。
既に叔母の意識はなく、目も見えていない様子だ。
しかし、こちらが声をかけるとそれに反応する。
病室で、叔母を見舞ながらいろいろと話した。
取りあえず、心の覚悟はできた。
おそらくこれが最後になるだろう。
日も暮れかけてきたので、暇をする。
10月23日、火曜日。
朝起きると、トオルちゃんからメールが入っていた。
「母 テル 10月22日23時25分
皆様のお見舞い、ご声援の甲斐なく永眠いたしました」
最後に、せめて顔を見ることが出来てよかった。
叔母は87歳。
オレがガキの頃は、実家のある松戸の家のそばに住んでいた。
トオルちゃんとヒトシちゃんは、オレの兄貴みたいな存在で
とくに次男のヒトシちゃんは年も近かったので
よく土曜日の夜には遊びに行って、夜遅くまでだべっていたものだ。
ここだけの話、悪いことはほとんどヒトシちゃんに教わった。
酒、タバコ、その他いろいろ…
小学生にしては、ませた音楽を聴いていたのもヒトシちゃんの影響。
そして、叔母の家に行くもう一つの楽しみは晩メシだった。
黄色いカレーに、厚めに切ったプレスハムを焼いた「ハンバーグ」
インスタントラーメンを初めて喰ったのも、叔母の家だった。
料理店だった実家のラーメンやカレーは商売用、いわばプロ仕様だ。
家庭で作る、黄色いモッタリとした甘口のカレーは
子どもには嬉しいご馳走だった。
通夜は、その週の金曜、告別式が土曜日。
仕事を休まずに済み、さらに日曜は休めるよう配慮されたスケジュールだ。
葬儀は滞りなく終わった。
話が前後するが、遡って、お見舞いに行った21日のこと。
病院の喫煙所で、ヒトシちゃんから意外なことを知らされた。
元々、母方の家族は北海道出身で、現在も親類が北海道に住んでいる。
その親類の中に、芦別という町に住む従兄弟・タツルちゃんがいて
3人いるタツルちゃんの子どものうち、二人は東京に出てきていることは知っていた。
長男は音楽の道を志し、すぐ下の妹・メグミも東京に来ていた。
もちろん二人とも学校を卒業し、ともに成人している。
そのメグミが、この夏8月に
住んでいた新宿のマンションから飛び降り自殺をしていたという。
まだ20代半ばだったはずだ。
20年以上前になるが、一度だけ、兄弟三人揃って東京に遊びに来たことがある。
オレは既に働いていたこともあり、スケジュールが合わなくて
長男と次女には会えず、奇しくも死んだメグミとだけ会うことができた。
北海道芦別市は、有名なドラマ「北の国から」の富良野の隣町。
ガキの頃に家族で遊びに行ったことがあるが、冬は相当に雪深い
よく言えば、自然に囲まれた街…悪く言えば何もない所だ。
そういうところで育ったメグミは、初めて来た東京の夜景が気に入ったようで
亡くなったオフクロと一緒に、池袋のサンシャイン60に遊びに連れて行った。
展望台からの夜景を、楽しそうに見ていた顔を覚えている。
後にも先にも、メグミに会ったのはそれきりだ。
大人になって、東京に出てからはどんな生活をしていたのかは知らない。
詳しくは聞かなかったが、水商売のようなこともしていたらしい。
どんな理由があったかはわからない。
同じく東京に住む兄に相談したり、いや、兄ばかりではない。
こちらには親類がたくさんいるのだし、どんな力にもなれたろう。
まだ20数年しか生きていないのに、死を選ぶような辛い目にあったのかと思うと心が痛む。
それよりも、遺体を引き取りに来たメグミの父・タツルちゃんの心を思うと…
叔母の葬式から一週間。
亡くなった叔母の妹、これもオレの叔母だが
その下の叔母から一通の封書が届いた。
ん?なんで叔母から?
手紙の文面を見て驚いた。
叔母の息子・シュンイチロウ。これもオレの従兄弟だ。
そのシュンイチロウが、今年の3月に亡くなっていたとのことだった。
年はオレよりひとつ下の51歳。
ハッキリ言うと、このシュンイチロウはオレとはそりが合わなかった。
ガキの頃は会うとケンカばかり、しかも取っ組み合いだ。
もちろん、お互いが大人になってからは普通に対応はしていたが。
彼には子どもが二人いたが、後に離婚して一人暮らしをしていた。
精神面で弱い所があり、一時は仕事もしていないようだった。
だが、最近は市民グループや、都内の障害者のケアセンター等の手伝いで
忙しくバイクで走り回っていたらしい。
このシュンイチロウの死は、母である下の叔母と
彼の弟意外には、誰にも知らされなかった。
下の叔母とは、通夜のときも葬儀のときも顔を合わせているし
弟とは、通夜で酒を呑みながらいろいろと話をした。
精神を患ってからは、ちょっと変わり者になっていたので
敢えて葬儀に来ない理由も聞かなかったが
シュンイチロウの話も出たというのに…
ショックだった。
若くして亡くなったこと以上に
なぜ教えてくれなかったのだろうと。
母方の祖母の法事があるので、電話をしたが通じず
心配した弟が、シュンイチロウのアパートを訪ねると
布団の中で眠るように死んでいたという。
医者から処方されたらしい風邪薬が枕元にあったので
もしやと、遺体を解剖したらしいが、自殺に可能性は極めて低いとのこと。
死因は病死ということだった。
もちろん遺書はなかったが、彼は常々母親と弟には言ってたらしい。
自分が死んだら、葬儀も墓も戒名も要らない。
骨は海に散骨して欲しい、と。
さすがにそういうわけにはいかないので、祖母の墓に入れたらしいが。
すぐに弟にメールをすると、詫びの返信がきた。
「親子兄弟の間でも色々ありましたが
交通事故や火事などで他人様を巻き添えにしないで静かに逝った事が
最後の親孝行だね、と、おふくろと話をしました。」
最後の親孝行…
ま、そう思って納得するしかないだろうが、オレは納得できなかった。
親より先に死んで、何が親孝行か。
最もしてはいけない、最大の親不孝ではないか!
病死のシュンイチロウは仕方ないが、メグミは自殺だ。
都会でどんな辛いことがあったかは知らないが
たくさんの身内がいるのに、誰にも相談せず
親の顔を見に北海道に帰ることもしないで
損傷した痛ましい遺体となっての再会…
先立たれた親はどんなに辛かったことか…
オレ自身も、親不孝者だと思うが
それでも、親の死を見届けたことだけが唯一の親孝行だと思っている。
なんだか、暗い話になってしまった。
トップの画像は、叔母の家族だ。
後列左から二番目が亡くなった叔母。
オレのオフクロは前列一番左。
10人もいた兄弟は、今は上の二人だけだ。
この年になると、周りの人間の死を多く見ることになる。
これは仕方のないことだ。
先年、亡くなった
印刷屋の社長が言っていた。
人間は死亡率100%だ、と。
叔母は、北海道生まれ。
今はロシア領になってしまった、いわゆる北方領土の樺太(からふと)で生まれ育った。
戦争で、命からがら北海道内に引き上げてきたという。
後にオフクロに聞いた話では、侵略してきたソビエト兵に
火炎放射機で焼き殺される寸前だったらしい。
叔母家族は戦後、先に東京に出てきたオフクロを頼って一家で上京。
いろいろと苦労はあったろうが、たくさんの孫や曽孫にも恵まれ
子どもらに見守られて息を引き取った。
奇しくも、叔母、シュンイチロウ、メグミと
親、子、孫の三世代の身内が亡くなってしまった2012年であった。
もう40年以上前のこと。
当時、まだ下の叔母は札幌に住んでいた。
その旦那さん、死んだシュンイチロウの父親が病気で危篤と聞いて
オフクロや、このたび亡くなった叔母達と北海道へ飛んだ。
オレが、まだ幼稚園の頃だ。
結局、その旦那さんは、オレ達が着いて間もなく亡くなった。
下の叔母は二十代で夫を亡くし、女手一つで二人の子を育てた。
初めて葬式というものに立ち会い、旦那さんの遺体が火葬されてお骨となった時
当時はまだ中学生だったであろうか、娘に先立たれたタツルちゃんがオレに言った。
「さとし、長生きしろよ」と。
叔母の孫や曾孫たち。
オレのオフクロも、今生きていれば曾孫の顔を見られたはずだ。
やはり長生きはしなければならぬ。