時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

工藤祐経の経歴 -伊豆国武士の主は誰?-中

2010-10-14 05:34:38 | 蒲殿春秋解説
では、治承寿永以前の伊豆国の武士達に強い影響力を与えていた人物は誰でしょうか?
最低でも二人いると思います。
一人は伊豆国の知行国主を長年務めていた源頼政。そして、もう一人は伊東祐親の荘園の領主だった平重盛などの平家一門。
しかし、治承寿永の乱が勃発すると頼政は敗北して死去します。
そして次に来た知行国主は平清盛の義弟平時忠。目代は時忠の検非違使庁における部下だった山木兼隆。
そうなると頼政との関係が深かった伊豆国住人達は平家に近い立場だった住人達の圧迫を受けることになります。

そのような中で伊豆国の住人たちは新しい主を探そうと模索したと思われます。その中で見つけたのが以仁王の令旨を貰っていた源頼朝です。かれらは事態を打開すべく頼朝を担いで挙兵し目代を討ち取り伊豆国を占拠します。
しかし、彼等が最初に担ぎあげた源頼朝は石橋山で敗北します。
その時点で頼朝に従って敗北者となった伊豆国住人たちが新たなる保護者を求めるのは当然の成り行きであると思われます。

中山忠親が記した「山槐記」によると頼朝が伊豆国を占拠したのと同じ頃武田信義が甲斐国を支配下に収めたように記されています。
つまり同時期に武田信義率いる甲斐源氏が反平家の立場で甲斐一国を占拠したであろうことが見て取れます。
そうだとしたら伊豆国住人達が甲斐に逃げ込んだ理由が見て取れます。
彼等は自分達の安全を図り伊豆国での復権を賭けて今度は甲斐源氏の元に従うのです。少なくとも反平家という立場は同じですから。
その後北条時政や加藤景簾は甲斐源氏と行動を共にして鉢田の戦いに参戦します。

さて、その後源頼朝が勢力を回復し相模国に進出します。さらに鉢田の戦いで甲斐源氏は駿河国に進出します。
そして富士川の戦いで源頼朝、甲斐源氏連合軍は平家を追い返します。(この戦いは甲斐源氏が主導的立場にあったという見解が最近では強まっているようです。)

そうなると伊豆国の西側駿河国は甲斐源氏それも一条忠頼の制圧下にあり、東側相模は源頼朝の制圧下にあるということになります。伊豆国はその地理的条件から水運が非常に重要な地域だったとみられ、相模湾駿河湾とも重要な地域だったと思われます。

その状況が伊豆国住人達の「頼朝、忠頼への二股」という事態を引き起こした要因の一つであると思われます。


この地図は日本の白地図
をダウンロードしたものを加工して作成いたしました。

解説一覧へ

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
甲斐源氏と三浦一族 (ゆたりす)
2015-02-11 09:57:41
伊豆国武士というタイトルには沿わないのですが、和田氏と加賀美氏は姻戚ですよね。三浦義村の妻は一条忠頼の娘だとか。
このような甲斐源氏と三浦一族の姻戚関係の根拠となる史料は不明ですが、もし本当なら甲斐源氏からみて1ランク下の三浦一族との婚姻にどんな意味があったんでしょうね。
Unknown (ゆたにまち)
2021-01-09 02:50:59
三浦義村の妻は一条忠頼の娘というのは、どうもでたらめらしいです。ある系図学者の筆がはしってしまっただけで。某書籍の著者に質問したら、だれそれが作った系図にあるという返答しかもらえませんでした。

コメントを投稿