時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

蒲殿春秋(一)

2006-04-07 22:30:34 | 蒲殿春秋
春の日ざしがうららかなある日、その日ざしの中から抜け出けるかのように
一人の少年が姉の前に現れた。
「三郎・・・」
と思わず姉はつぶやいた。

長寛三年(1165年)三月、二条天皇の御世のことである。

久しく兵乱のなかった平安の都に、先年保元・平治の乱という武力衝突が吹き荒れた。
その両乱の後武力抗争は暫くなかったが
二条天皇とその父君後白河院の間の対立は激しく
都の政局は混迷を極めていた。
そして、間隙を縫うかのように平治の乱終結の立役者平清盛が
宮中の中で重みと発言力を増しつつあった。

皇位、治天の君を巡る争いと摂関家の内紛に端を発し武力衝突に発展した保元の乱、
保元の乱の後の不安定な政局の中突如勃発した平治の乱は
ごく少数の勝ち残りと多数の敗北者を産んだ。
保元の乱では後白河院の兄君崇徳院、左大臣頼長、その一党に加わった源平の武士達。
平治の乱では院側近の藤原信西、藤原信頼、二条天皇の側近の藤原経宗、藤原惟方
そして、一連の政争に完全に巻き込まれてしまった清和源氏の源義朝。
これらの人々は多くは命を失い、あるいは都から追放された。
一方、勝ち残ったのは後白河院、二条天皇、前摂政藤原忠通、そして平清盛であった。
乱の直後実力者藤原忠通は没し
院と天皇の対立は激化、清盛も政局をすべてを単独で動かすには至らず
残された都の貴族達の多くは
対立する院と天皇のはざまにあって右往左往していた。

一方敗北者達の運命は過酷であった。
保元の乱にかかわり敗れ去ったもの
━━ 崇徳院は讃岐へ幽閉され、
頼長は戦闘中に負傷しその傷がもとで死去、その他貴族達は流罪。
平忠正、源為義など武士と呼ばれる人々には死罪が待ち構えていた。
薬子の変以来久しく行われることの無かった死刑の復活であった。
平治の乱においても、信西、信頼は死へと追いやられた。
武士と呼ばれる人々が次々と信頼を見限っていくなかで
最後まで信頼陣営を抜けることのできなかった源義朝は敗走中に謀殺された。
その長男義平は処刑、次男朝長も敗走中死亡。
乱に加わった義朝の子のうち三男頼朝のみ例外的に死罪をまぬがれて伊豆へ流刑となった。
この戦で源義朝の一族は没落を余儀なくされた。

そんな中、源義朝の子が一人遠江の国*にひっそりと遺されていた。
彼は六郎と呼ばれていた。
父という庇護者を失った六郎は縁あって武蔵の寺に稚児として入門した。
そのままいけば武蔵の寺の片隅で一生を終えるはずであった。
しかし、数年後実の父を失った六郎に突然養父という新しい親が現れ未来が変わった。
養父の名は藤原範季、都の貴族の一人である。

月日は流れ、十四歳になった春、六郎は範季に都に呼ばれ元服。
元服した名乗りは「源範頼」となった。
養父範季から「範」の字と源氏代々伝わる「頼」の字をとってのことである。

鏡を覗き込むと童形姿のさっきの自分とは違う自分がいる。
髪を結ってもらい、烏帽子をかぶせてもらったとき
もう今までの自分とはまったく別の自分になって
今まで出来なかったことがなんでもできるようになった気がした。

範頼は嬉しかった。
けれども、その反面心の奥に孤独を抱えていた。
元服したとき自分の身内と呼べる人は誰も側にいなかった。
一人前の男になった姿を自分と血の繋がった誰かに見せたかった。
しかし、実父はすでにこの世に無く、母は生き別れて後行方知らず
同腹の兄弟はいない。天涯孤独の身の上であった。
そんなときまぶた浮かんだのは幼い日自分を慈しんでくれた異腹の姉であった。
そして、血の繋がった肉親で現在唯一会うことが出来るのも姉だけだった。
せめて姉にこの姿を人目見せたい。
そう願って姉に対面を申し出た。

そして、日ざしうららかな日、姉が身を寄せている館へ赴いたのである。
しかし、姉の口から出た言葉は
「三郎」という姉と同腹の六郎の兄すなわち源頼朝を指すものであった。

*遠江国 現在の静岡県西部地方

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