時のうねりのはざまにて

歴史小説もどきを書いてみます。作品と解説の二部構成で行こうと思います。

工藤祐経の経歴 -伊豆国武士の主は誰?ー 上

2010-10-11 06:01:00 | 蒲殿春秋解説
さて、小説もどきに登場した工藤祐経さん。彼について面白いことがわかりました。
工藤祐経さんといえば「曽我物語」の重要人物(曽我兄弟の敵役)です。
そしてその「曽我物語」等の影響で祐経さんは源頼朝のお気に入りの人物というイメージが強いようです。

しかしながら「吾妻鏡」を読んでみると意外なことがわかります。

なんと工藤祐経は「吾妻鏡」元暦元年(1184年)6月16日条の一条忠頼殺害事件まで名前が一切出てきません。(実際に殺害が行なわれたのは4月26日の可能性が高いそれにつきましてはこちら)
それから後、工藤祐経はちょくちょく「吾妻鏡」に登場することになります。

とうことは何を意味しているのでしょうか。
可能性の一つとしてその一条忠頼殺害事件まで工藤祐経は頼朝には仕えていなかったというように見ることもできるでしょう。

では、それまでの間工藤祐経は何をしていたのでしょうか?
それも推測ですが、そのころ駿河に進出していた甲斐源氏一条忠頼に仕えていた可能性があります。

彦由一太「十二世紀末葉武家棟梁による河海港津枢要地掌握と動乱期の軍事行動(中)」(『政治経済史学』100号、1974.4)によると伊豆国住人は頼朝が石橋山の戦いに敗れると、甲斐源氏に接近した。そして頼朝が房総で勢力を回復して鎌倉に入った後は頼朝と甲斐源氏双方に「二股をかけて」仕えたのではないか、と書かれています。

その傍証として例の一条忠頼殺害事件の際に同じく登場する天野遠景を挙げておられます。「吾妻鏡」治承四年10月に記載されて以降元暦元年6月16日まで一切登場しません。
その一方で伊豆と駿河の経済的な結びつきを根拠にその間一条忠頼に仕えていた可能性を示唆されています。

この彦由氏の論文を読んだ後「吾妻鏡」を読んでみると、治承四年8月の石橋山の戦い以降「吾妻鏡」からしばらく姿を消した伊豆国に武士がもう一人いました。
堀藤次親家です。彼もまた義高殺害事件まで「吾妻鏡」に登場しません。

さらに以前書かせていただきましたが、石橋山の戦いで頼朝軍に加わっていた後「甲斐」に逃げ込んだ人物が多数存在しました。
例えば加藤景簾。かれは「吾妻鏡」によると「富士山麓」に隠れたとのみあります。
(ちなみに富士山麓は駿河甲斐両方にまたがっています)しかしながら「延慶本平家物語」によると景簾は甲斐国に入ったとあります。
また、「吾妻鏡」寿永四年(1180年)10月18日条によると加藤景簾は「鉢田の戦い」(甲斐源氏と駿河目代橘遠茂と戦った戦い)に甲斐源氏方として参戦したというように書かれています。(そのことに関してはこちら

また頼朝の舅である北条時政さえも石橋山直後安房に向かわず甲斐に逃げ込んだ可能性があります。(それに関してはこちら

このような事を考えると伊豆国豪族は甲斐源氏、なかんずく駿河に進出して一条忠頼と関係をもっていたと考えるほうが自然であると思われます。

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2 コメント

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ご先祖 (工藤隆)
2013-01-20 01:26:54
祐経の子孫は秋田県にいますか? 本家(秋田県)に系図があるようですが、真偽は????です。
工藤隆さまへ (さがみ)
2013-04-15 05:39:41
レスが大変おそくなり失礼いたしました。
>祐経の子孫は秋田県にいますか?
どうでしょうか?
そのあたりはよくわからないのですが歴史のロマンということになるでしょうか?

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