『《宮沢賢治》のさらなる彼方を求めて』
天沢退二郎・著/筑摩書房2009年
宮沢賢治といえば天沢さんを思い出すくらい、賢治のことを書いている人です。
鈴木三重吉が賢治の童話「タネリはたしかにいちいち噛んでゐたやうだった」をボツに……。下「」引用。
「-略-賢治が「認められた」とひどく喜んで送ったのが他ならぬこの作品の原稿だったのであり、三重吉が、不可解な単語を辞書で調べたりしたあげく、こんなものはロシアなら通用かるかも知れないがと呟いて、結局ボツにした、ということさえなかったら、「赤い鳥」の誌面に登場したはずだったからである」
アイヌ語。下「」引用。
「主人公の姓「ホロタイ」がアイヌ語で“深い森”を意味するということが、鈴木三重吉の引いた辞書に出ていたかどうかはわからないが、少なくともこの語が北方系であり、この名前が少年の“土地の精霊”的性格に相応していることは、三重吉も把握していたに違いない(だからこそ、《ロシアなら……》といった評言も出て来たのであろう)。」
賢治の大切なもの。下「」引用。
「第一にの、宮沢賢治が、仏教の教えを「ありがたい」ものだと心から思っていたことる
第二に、宮沢賢治が、「書くこと」すなわち文学への全的な自己投入を、「生きること」自体だとまで思っていたこと。」
「科学」と「宗教」。下「」引用。
「しかし「自然」や「科学」が賢治においては「宗教」と何ら矛盾するものではなかったこと、そして「文学」の方法自体でさえあったことはねすでにかれ自身が明らかにしてきたのであって、それらはむしろ「宗教」および「文学」に吸収あるいは包摂されるものであったというべきであろう。」
宗教を大切にする賢治さんなら、問題はないだろう……。
映画好き賢さん。下「」引用。
「もちろん、生前の宮沢賢治さんも、映画を見るのが好きだったことは、今弟静六さんにいくつかの証言がある(*1)。賢治さんはトルストイだのチェーホフだの、文学作品を読むのも好きだったし、浅草オペラも好きだったし、歌舞伎だの、芝居を見るのも好きだったし、美術館で絵を見るのも好きだった。」
映画と同年齢の賢さん。下「」引用。
「最初に見たように、宮沢賢治さんと《映画》とは一歳ちがい、つまりほとんど同年齢だったのであるから、賢治さんが物心ついて楊少年期を送るのと並行して《映画》も幼少年期を経過し、《映画》が沸騰する青年の冒険時代に突入したとかき、賢治さんの内なる詩人《宮沢賢治》もまた、少年期の短歌形式から脱却して、日本近代詩の沸騰する青春のただなか、詩と童話という二つの形式に、新しい冒険を挑んだのであって、この並行関係はじつに歴然としている。」
もくじ
目次
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天沢退二郎・著/筑摩書房2009年
宮沢賢治といえば天沢さんを思い出すくらい、賢治のことを書いている人です。
鈴木三重吉が賢治の童話「タネリはたしかにいちいち噛んでゐたやうだった」をボツに……。下「」引用。
「-略-賢治が「認められた」とひどく喜んで送ったのが他ならぬこの作品の原稿だったのであり、三重吉が、不可解な単語を辞書で調べたりしたあげく、こんなものはロシアなら通用かるかも知れないがと呟いて、結局ボツにした、ということさえなかったら、「赤い鳥」の誌面に登場したはずだったからである」
アイヌ語。下「」引用。
「主人公の姓「ホロタイ」がアイヌ語で“深い森”を意味するということが、鈴木三重吉の引いた辞書に出ていたかどうかはわからないが、少なくともこの語が北方系であり、この名前が少年の“土地の精霊”的性格に相応していることは、三重吉も把握していたに違いない(だからこそ、《ロシアなら……》といった評言も出て来たのであろう)。」
賢治の大切なもの。下「」引用。
「第一にの、宮沢賢治が、仏教の教えを「ありがたい」ものだと心から思っていたことる
第二に、宮沢賢治が、「書くこと」すなわち文学への全的な自己投入を、「生きること」自体だとまで思っていたこと。」
「科学」と「宗教」。下「」引用。
「しかし「自然」や「科学」が賢治においては「宗教」と何ら矛盾するものではなかったこと、そして「文学」の方法自体でさえあったことはねすでにかれ自身が明らかにしてきたのであって、それらはむしろ「宗教」および「文学」に吸収あるいは包摂されるものであったというべきであろう。」
宗教を大切にする賢治さんなら、問題はないだろう……。
映画好き賢さん。下「」引用。
「もちろん、生前の宮沢賢治さんも、映画を見るのが好きだったことは、今弟静六さんにいくつかの証言がある(*1)。賢治さんはトルストイだのチェーホフだの、文学作品を読むのも好きだったし、浅草オペラも好きだったし、歌舞伎だの、芝居を見るのも好きだったし、美術館で絵を見るのも好きだった。」
映画と同年齢の賢さん。下「」引用。
「最初に見たように、宮沢賢治さんと《映画》とは一歳ちがい、つまりほとんど同年齢だったのであるから、賢治さんが物心ついて楊少年期を送るのと並行して《映画》も幼少年期を経過し、《映画》が沸騰する青年の冒険時代に突入したとかき、賢治さんの内なる詩人《宮沢賢治》もまた、少年期の短歌形式から脱却して、日本近代詩の沸騰する青春のただなか、詩と童話という二つの形式に、新しい冒険を挑んだのであって、この並行関係はじつに歴然としている。」
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