磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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長崎にあって哲学する-核時代の死と生-

2008年12月02日 | 読書日記など
『長崎にあって哲学する-核時代の死と生-』
   高橋真司・著/北樹出版1994年

またも、永井隆批判です。
何度も読んでいるのですが、
どうして、このパワーでABCC批判をしてくれないのですか?

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--被爆者のことを本当に考えていたら、永井隆よりもABCC批判でしよう!
それに関わる学者と闘うべきでしょう!

--もし戦っていてくれたら、チェルノブイリの事故での被害者も減っていただろう……。

--そして、今も続くし、未来にも関わるのだから、批判してもらいたい!



この人たちゼロサムゲームをしているようにボクには思えてしょうがない。

イデオロギー団体の利益のために書いておられるように思えて仕方がない。

リフトンについての批判はある……。下「」引用。

「リフトンは死との遭遇から生じるこの死の罪意識を「生存の優先順位」(survival priority)という斬新な概念によって説明した。彼が死んでわたしが生きのびたことから死の罪意識が生じる、とした。」

一応の批判はしているが、いろいろなケースがあるだろうともボクは思う。


批判されたら、批判されるのは当然! 下「」引用。

「ところで、永井隆とかれの思想を自由に真っ向から批判することは、長崎においては、いぜんとしてタブーの気味がある。70年代のばしめ、長崎の詩人山田かんは「聖者・招かざる代弁者」というすぐれた一文を『潮』156号(1972年5月)に発表した(ただし『潮』編集部は「偽善者・永井隆への告発」と改題して発表した』。それに対して、地元の『カトリック・グラフ』(1972年7月)がただちに「反証」の特集を組み、『永井隆の生涯』の著者片山弥彌吉は「電話でどなり込んできた」という経緯がある。-略-」

永井隆が、「燔祭論」をつくったように書いた者こそ、反省すべきではないか?

諸外国でのホロコーストにも問題があるというのか?

書いたものに、責任をもっている片山は著者として当然だとも思う。

山田と顔見知りであるなら、電話も別に問題はないだろう。

もし、顔見知りでないなら、文章を送る方がよかったろうと思う。

このことも、ケースバイケースで批判されるべきで、一方的に山田かんのいうことを鵜呑みするのも理解できない。

--カトリックの人たちが、「反証」されたのは、当然のことだと思う……。

この著者も「神の摂理」を人間の摂理としてしまっているように感じる。

「人間のしわざ」と法皇が「神の摂理」にたいするものとして生み出したとしたら、神を冒瀆したことになるだろう……。

しかし、そんなことはないとボクは思うが……。

「人間のしわざ」をも超えたところに、「神の摂理」はある!

共産主義者などには神がないのだから、「神の摂理」を理解するのはできないかもしれないが……。

「神の摂理」は、永井の摂理でもないし……。

永井たちは一信徒として語っている……。法皇もそれを超えられるとはボクは思わない……。

--私はキリスト教徒ではないが、この位は西洋哲学を理解するためには、基礎の部類と思っている。

他の哲学者のいうことも、これでは理解できないだろうとボクは思う……。

シモーヌ・ヴェイユですら、理解できないのではないか?……。

吉本隆明さんも理解できない人たちなのかもしれない……。









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