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木戸孝允-維新前夜の群像 4- 中公新書169

2009年11月26日 | 読書日記など
木戸孝允-維新前夜の群像 4- 中公新書169』
   大江志乃夫・著/中央公論社1979年

桂小五郎……。下「」引用。

「本書の題名は「木戸孝允」であるが、私は、この一冊を、あえて「木戸孝允」ではなく、「桂小五郎」として書いた。維新の三傑の一人とされている政治家木戸孝允に関する関心からではなく、一人の裕福な医師の家に生まれ、偶然から幼い時に長州藩の家格高い武士の家を継いだ青年が、政治にめざめ、世界に眼を向け、実践活動にはいってゆきねついに藩論のリーダーにまで成長してゆく過程を描いてみたかったのである。
 桂小五郎にはふたつのイメージがある。
 江戸の斎藤弥九郎道場練兵官の塾頭としてのそっそうたる青年剣客、テロリズムの嵐の吹きすさぶ京都の鴨河原を舞台とした美妓幾松との恋物語の主人公という、劇的なイメージである。いまひとつは、奔放な坂本龍馬、暴れ牛の高杉晋作というようなイメージとも、刻苦立身した伊藤博文や山県有朋のようなイメージともちがい、着実に順調に人生のコースを歩いた秀才青年のイメージである。」



木戸と大久保の日記。下「」引用。

「西郷隆盛は日記を残していないが、木戸と大久保は日記を残している。この二人の日記を読みくらべてみると、じつに対照的である。大久保の日記は、およそ無味乾燥といってもよいくらい事務的に簡潔さをもって書かれている。これにたいして、木戸の日記は感情の起伏をむきだしにして、不平不満をながながと書いている。ちょっと読んだところ、政治家の日記というよりも、文士の自己観察記録といった印象の方が強い。そして、この日記からうける印象のように、明治政府成立後の木戸の進退も、どうもすっきりしない。」

竜馬と癸丑の年……。下「」引用。

「小五郎や竜馬が、一八五三年(嘉永六)の癸丑(きちゅう)の年に江戸で修業中であったということは、たいへんなことであった。よく、幕末、明治維新のころのさまざまな文書に、「癸丑以来」という言葉がつかわれているように、この癸丑の年こそは、日本の民族的めざめの画期的な年であった。この年、六月三日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのひきいる四隻の黒船が三浦半島の浦賀沖に来航、幕府に開国和親をせまったのであった。」

目次

江川太郎左衛門と測量。下「」引用。

「小五郎は幕府の命をうけての品川砲台築造にあたった韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門への接近というかたちで表明する。斎藤弥九郎は江川に臣事したことのある旧知の仲であった。この伝手(つて)をつうじて、小五郎は江川の従事というかたちをとり、武蔵・伊豆・相模などの海岸測量について歩いた。そして、つぶさに地勢を探索したのち、あらためて江川に砲術修業のための入門を申しいれたという。」

座標軸としての横井小楠……。下「」引用。

「-略-ここでの主人公の桂小五郎にしても、坂本龍馬にしても、勝海舟にしても、高杉晋作にしても、西郷隆盛、大久保利通、すべて横井小楠という座標軸なしに、自己の軌跡をえがくことができたかどうか。そして、その横井が座標軸でありえたのは、かれだけが富国強兵とか勤王とか万邦対峙とか、そういった変革の当面の目標をはるかにのりこえた究極の目標として実現されるべき国家構想をもっており、しかもその国家構想が、人民的とはいえないにしもて、少なくとも権力者の立場でない、人間的立場に立って発想されていたことによる。」

悲劇の出発点……。下「」引用。

「しかし木戸は、しょせんは、みずからの理念を確立し、遠大な国家理想をかかげ、国家構想をねりあげる思想家ではなかった。その木戸があえてイデオローグの役割を果たさねばならなかったところに、明治新国家の悲劇的な出発点があり、その理念の次元の低さ、気宇のせまさがあった。それを木戸の責任に帰することはできないにしても、木戸が少なくとも横井小楠の歴史的役割を継ぎえないものであったことは明らかであろう。思想性のない先見性の悲劇を木戸に見出すならば、先見性のない行動性の悲劇を西郷に見出すことができる。そして、着実な実務性のゆえに、大久保が新政権の独裁者の地位についたことに近代日本の国家理想の欠如を見ることができよう。」

横井小楠-その思想と行動-







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