磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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昭和二十年の絵手紙 私の八月十五日

2007年07月04日 | 読書日記など
『昭和二十年の絵手紙 私の八月十五日』
      私の八月十五日の会2004年

いろいな有名人の方が八月十五日について書かれています。絵とともに文章があり、大きな本です。



いろいろな方が書かれています。知っている方もあれば、そうでない方もいます。

有名というだけでは、後の人(未来の人たち)は読んでくれそうにありませんね……。


北朝鮮の新義州にいた方は、
天皇のラジオ放送を境に、状況は一変。
その日のうちに「日の丸」は消えたという。


落語の林家木久蔵・師匠も書かれています。下「」引用。

「ラジオの前で 林家木久蔵
 昭和二十年八月十五日の正午、私は杉並区立桃井第三国民学校の校庭にいて天皇陛下みずからの終戦の玉音放送を聞いていた。国民学校一年生八歳だった。
 住んでいた日本橋久松町の家は焼けてしまい一家は縁故を頼って中央線西荻窪駅のそばに移り住んでいた。
 家にはラジオはなかった。昼からとても大切な放送があると言うので早目の昼食を食べてモンペ姿の母にせかされて、区立桃井第三国民学校の校庭の朝礼用の台座の上に設置されたラジオの前で直立不動で立っている近所の人達と一緒に、ラジオを凝視していた。-略-」


「ファシスト」というのを森本清彦さんが書かれていました。下「」引用。

「翌年遅くまた大嫌いな学校に顔を出すと、そこに待ちかまえていたものは「栄養失調」だの「ヒョロ助け」だのと傷つけて喜ぶ、つやつや栄養のいい自称教師どものガン首だった。くるりと一八○度転向の彼らは、暴力体質のコアだけ残した民主主義のマスクをかぶり、今度はアメリカさんへと愛想笑いを振りまき、平然と今まで洗脳の道具で崇めさせた軍国版テキストに墨を塗らせ、有無を云わせず野球練習に駆り立てていった。」

そういう見方をする人がいても、おかしくはないとボクは思います。
この本には書かれてありませんが、徴兵制でも、教師や師範学校の方は、特別扱い。服装も食事も違ったそうです。
--そして、軍隊はよいところと、教えていたそうです。



奉天市内にいた6歳のちばてつや、事の重大さはわからなかったという。
中国人街で爆竹が鳴り、それが暴動となり日本人の住む所へ。
それから一年間、地獄の旅が続く。
ソ連に襲われ、零下20度から30度の場所へ。
24万人の日本人が亡くなったという。

『紙の砦』手塚治虫・作。掲載。
1974年9月、手塚の戦争体験をモデルにかいたという。
空襲で顔にひどい火傷(やけど)をおった宝塚音楽学校の生徒……。










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