磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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東京大森海岸ぼくの戦争

2009年10月01日 | 読書日記など
『東京大森海岸ぼくの戦争』
   小関智弘・著/筑摩書房2005年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「少年が暮らした戦時下の東京、そして戦後に見た外国の軍隊とは?」
「東京湾と人々の成果つが深くかかかわっていた時代、大森海岸からほど近いところに住んでいた小関一家。秀才の兄、文字の苦手な母、魚屋の父、質屋の叔父、さまざまな仕事や商売をいとなむ町の人たちと、その日々の暮らし。やがて戦争による疎開、空襲、捕虜の姿など少年が見た光景とは? さらに敗戦、進駐軍、パンパンガール、メーデー事件と激変する社会に、思春期から青年になろうとする著者はなにを感じたのか? 戦中戦後を生きた庶民の日常を、時代と共に子どもから大人へと成長する著者自身の視点で描いた書下ろし。」



愛称・赤トンボという小型飛行機の組み立てをやらされたという。下「」引用。

「エンジンの組立てが終わって、飛行機が完成しますと、わたしが兵隊さんのところに報告に行かされるんです。試運転をお願いしますとね。すると飛行士が、お前は道具箱を持って乗れって言うんです。十三歳のときですよ。飛行士はパラシュートをつけていますが、こちらはパラシュートなんてないんです。道具箱だけです。それでエンジンを調整しろというわけです。-略-」

4回も軍隊生活をした著者の父。下「」引用。

「数え二十歳の徴兵にはじまって、四十三歳の敗戦直前までに四回も軍隊生活を余儀なくされ、その都度に顧客を他の魚屋に取られたことも、羽振りを失った大きな理由ではなかったかと、わたしには思える。-略-」

工業の時代と質屋の叔母にいわれ魚屋の父は、著者に家業をつがせなかった。

「日本の軍隊と夜店のバナナ、勝った(買った)勝ったで、負けてゆく負けてゆく」

馬糞パン……。下「」引用。

「ある日学校で配給になった丸くて黄土色のパンを、わたしが「馬糞(まぐそ)パンだ」と言うと、それはたちまち教室じゅうに拡がって、-略-」

先生はしかる! 下「」引用。

「「天皇陛下が下ったパンを、馬糞パンとはなにごとですか」

「一、捕虜収容所」 下「」引用。

「昭和十九(一九四四)年七月、平和島一丁目の品川京浜運河建設所第一臨海寮に、アメリカ・イギリス・オーストラリア軍捕虜を収容する。(『大田区史』年表より)」

カトリックで……。下「」引用。

「カトリック(教会)やお寺(密厳院)で、みんなの死骸を焼いたんだよ。焼いたってね、みんな生焼けだよ。火葬場で焼いたように、あんなにきれいに焼けませんよ。石油なんて売ってませんものね」

慰安所。下「」引用。

「昭和十九年三月に政府は決戦非常時措置要綱に基づく戦時体制を強化して、女学生のみならず娼妓や芸妓たちも女子挺身隊に組織した。穴守町は、風光明媚な地の利、江戸前の魚介類にも恵まれてたくさんの料亭や待合があった。戦前には芸者の数だけでも二百人は下らなかったという土地柄であった。戦争が激化して、その芸者たちも軍需工場で働らかされた。社史に「いっときの工場のなかが彼女たちの嬌声で華やいだ」と記述する工場がいくつもある。そのさなかに、洲崎と羽田につくった。
『蒲田警察署五十年誌』の次の記録がある。
 昭和二十年六月。穴守の慰安施設特別許可なる。穴守町七五○番地付近六五○○坪を、産業戦士に対する慰安施設として臨時私娼黙認地域を許可。-略-
 ちなみに、羽田穴守町の慰安所は-略-羽田の飛行場を占領した米軍によって壊された。-略-九月二十一日のことであった。」







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