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福島県の百年 県民100年史 7

2011年04月12日 | 読書日記など
『福島県の百年 県民100年史 7』
   大石嘉一郎・編/山川出版社1992年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「福島県は明治初年の福島事件以来、生田の政治的波瀾を経過し、また、農業・繊維産業から石炭・電力産業・電子工業にいたる緒産業を立地させてきた。本件は日本近現代史研究の最も興味深い対象のひとつと言える。-略-」



自由民権運動。下「」引用。

「しかし、近代の開幕である明治維新のころの福島県は、けつして後進県ではなく、独自の近代化の道を歩みはじめつつあった。たとえば、中通り北部、とくに信達(信夫・伊達二郡)地方は、蚕糸業の発達において全国的にみても先進地であったし、中通り南部、とくに田村・石川二郡と会津地方および浜通り北部にまたがった自由民権運動の高揚は、情報発信地ちしての様相を示していた。」

合併して今の福島県に。下「」引用。

「いまの福島県の県域がほぼかたるものは、明治九年(一八七六)八月、旧福島県・若松県・磐前(いわさき)県の三県が合併し新福島県ができてからである。陸奥国(むつのくに)が明治初年に陸奥・陸中・陸前・岩代(いわしろ)・磐城(いわき)の五国(五州、それに羽前(うぜん)・羽後(うご)を加えて東北七州という)に分けられたが、福島県はそのなかのほぼ岩代・磐城二国二国(岩磐二州)を占めることになった。-略-」

「信達の世直し一揆」 下「」引用。

「慶応2年(1866)6月の信達(信夫・伊達2郡)の百姓一揆は、一揆参加農民が数万人ともいわれ、打ちこわしを受けた豪商・豪農は186軒にのぼった。-略-」

「アメリカ軍と進駐」 下「」引用。

「アメリカ第八軍一四師団は九月上旬、仙台を拠点に東北地方への進駐をはじめた。本県にも九月十六日、ウォルター=スコット大佐がひきいるニューヨーク歩兵第一○五連隊が進駐し、福島市に連隊主力、郡山市に一個大隊を配置した。会津若松市にも若干名が進駐した。-略-」

レッドパージの嵐。下「」引用。

「朝鮮戦争下、レッド・パージの嵐は福島県内にも吹き荒れた。産別会議加盟の福島県労働組合会議(県労会議)は昭和二十三年(一九四八)当時では九万人の組織だった。しかし、松川事件や行政整理ののちその勢力は急減し、二十四年末では四九九○人にまでなった。その約八割の三八九五人が日本的産業労働組合(電産)の福島県支部で、その九つの分会のうち一番大きいのが猪苗代分会一二○○人だった。レッド・パージはここに集中し、ここだけで一三二人が追放された。電産のパージの特色は、実際にはまず労働組合が「アカのリストをつくり、会社がこれを利用して解雇をおこなった点にあった。」

「日本一の原発基地」 下「」引用。

「昭和四十八年(一九七三)の石油危機以降、エネルギーの転換がさけばれ、石油にかわるエネルギー源として原子力が注目されてきた。そのかなで福島県の双葉郡および相馬郡の太平洋沿岸地域は、東京電力ならびに東北電力の原子力発電所(原発)の建設がつぎつぎとすすめられて、日本一の原発基地になろうとしている。-略-」

福島の反原発。下「」引用。

「原発に関しては安全性の問題がでている。昭和四十八年(一九七三)六月、運転中の東電福島原発一号炉で、放射性廃液がもれる事故が発生し、住民の安全性への不安を高めた。県はこの年の六月、現地に原子力対策駐在員事務所を設置し、原発建設計画を積極的に推進してくる。これに対し地元住民などは安全性に不安をもち、反対の動きもひろがり、原発・火発反対県連絡会議が結成された。また、この年の九月十八、十九日には、福島市で全国初の原子炉設置にかかわる公聴会が開かれ、原発の安全性について論議がかわされた。四十九年一月、原発・火発反対県連絡会議は、海面埋立て許可取消しの行政訴訟をおこし、五十一年にはさらに東京電力福島第二原発一号炉の設置取消しの訴訟をおこした。県は四十九年四月に大熊町に原子力センターを設置し、原発周辺の放射線監視にのりだしが、昭和五十四年(一九七九)アメリカのスリーマイル島の原発事故、さらに昭和六十一年(一九八六)には、ソ連のチェルノブイリの事故もあり、安全性への不安は消えない。」

事故。下「」引用。

「平成元年(一九八九)一月、東電第二原発三号機に原子炉再循環ポンプの破損事故が発生し、運転を中止した。事故後不安が高まり、地元立地町はあいついで東電に説明をもとめ、町議会に安全対策特別委員会を設置した。県も原子力対策室も安全対策課に昇格させて対策を強化した。一方、事故をめぐり東電と反原発グループとの公開討論会などもおこなわれた。」

賛成派のメリット……。下「」引用。

「原発基地化される以前の双葉郡は、農業以外にはこれといった産業もなく、稲作・養蚕・葉タバコ耕作が中心の純農山村であった。それが原発建設以後大きく変化してきている。大熊町の場合、電源三法による交付金が四十九年(一九七四)から五十三年までの五年間に約一二億円八○○○万円あまり交付され、それに固定資産税、電力会社の協力金なども加わり、財政収入は飛躍的に増大した。昭和四十八の歳入合計一億一○○○万円が一○年後の五十年には二一億と二○倍にも急増した。そして道路や上水道が整備され、デラックスな学校や公民館、総合スポーツセンターどがつきつぎと建設されている。」

矛盾と歪み……。下「」引用。

「しかし一方では、地域にさまざまな矛盾や歪みをもたらしている。大熊町の電源三法交付金は五十八年(一九八三)で終りとなり、固定資産税も五十五年がピークで以後減少してくる。町の財政収入の膨張は長続きはせず、交付金によって建設された諸施設の維持管理費が町財政を圧迫することはさけられない。産業構造の面では、大熊町の場合、農家戸数が昭和四十年の九九○戸から五十年の九一七戸へと七三戸も減り、兼業農家が激増し、全戸の七○%が原発関係に就労している。それは下請けの臨時的な労働であり、放射能を浴びる危険性を有している。原発ジプシーとよばれる労働者が約一万人全国から福島原発にきているといわれる。労働者の大量流入が地域におよぼす社会的影響も無視できない。大熊町では四十一年にわずか一二軒の飲食店がほそぼそと営業していたのが、五十一年には四十二軒に増え、ネオンの色でまばゆい歓楽街ができあがった。都市化現象のなかで犯罪や交通事故もふえ、家庭の崩壊や子どもの非行などの社会問題もうまれてきている。」








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