磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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きのこぐも

2009年02月13日 | 読書日記など
『きのこぐも』
   嘉屋文子・編/嘉屋文子1963年

嘉屋文子・編であって、いろいろな人が書かれています。



「すいせんのことば」 下「」引用。

「昭和二十年八月六日、世紀の悲惨事が広島市民の頭上に炸裂した。原子爆弾の投下である。
 救護の任に当るべき医療関係の多くの人々も、一般市民と全くかわることなく、悲惨な犠牲者として、むなしく生命を断たれていったのである。
 嘉屋女子は河原町の県立健康相談所勤務の若い女医さんであった。幸運にも数少ない生き残った人達の中の一人であって、広島県庁で当時の衛生課関係で、現在活動しつづけている唯一の方である。女史はその後も研究に精進して先年学位もとられたが、常に心を離れないものは、当時机を並べていて、犠牲となられた人達の霊を何とかして弔いたいと云うことであった。寸暇もさいては生存せる人々は云うまでもないが、遺族の人達に捜し求めた。
 この度ようやく集った県医療関係者の被爆状況、その他の資料を自費上梓されるのである。心のこもったこの企てはまことに有難いことだと思う。ここに女史の熱意とその努力とに満腔の敬意をささげたい。
  昭和三十八年一月十五日
    広島県豊田郡河内町にて
        大原博夫」

「序にかえて」 下「」引用。

「あの恐ろしい原子爆弾が、広島市に投下されてから既に満十七年を経過した。当時共に勤務していた多くの先輩同僚の方々の殆どが尊い犠牲者となられ、私は数少ない生き残りの一人として今日なお勤務させてもらっていることが何か不思議のように思われる。
 一瞬にして亡くなられた方々の追悼--せめて当時の模様などを記録して冥福をお祈りすることが、自分に与えられた責任のように考えられてはならない。
 市の中心部の記録は数多く見うけられるが、私の本籍地大竹市小方町(爆心地より三十数キロ離れて入る)のあるでは、男子が全員義勇隊として、広島市内に奉仕作業に出ていた為に、青年男子の全部を失った所もあり、それらの記録をも加えて、今はなき犠牲者の方々の冥福を祈り、そして二度とこの地球上とこの地球上にこのような悲惨事の起きないことを、心から祈念するものである。
  昭和三十八年一月
    広島県庁にて
      医学博士 嘉屋文子」

母親と思っていたが、男性だったようだ。下「」引用。

「「シュッ」と、いう異様な音と共に「ピカッ」と物凄く光った。幾千条の銀線がギラギラ光りながら、すごい速さてど襲って来た。瞬間、長蛇の列を作って市内電車を待ち合わせていた私達は、一斉に大地に伏した。私は直ぐ前に並んでいる長男重雄--当時九才--を、ねぢ伏せるように地面にしゃがませて、その上におおいかぶさるように四つばいになった。とたん、すさまじい爆風が来た。しばらくして立ち上がったが物凄いほこりで一寸先も見えない。足元だけが見えるのをたよりに、やっと国鉄己斐駅貨物プラットホームまで逃れた。-略-」

お国のためと思っても、お国は国民のことを考えてくれたのだろうか……。下「」引用。

「この世に生れ、あの当時の教育方針で、お国の為と満足して死んでいった息子の事を思うと可哀想でならない。
 只、戦争に勝つために、「原爆を」と選んだ米国首脳部を、米国民は喜んでいるであろうか。もしそうであったら、彼等や彼等の子供の頭上に原水爆を落したら……。そしたら初めて我々被爆者と同じように原水爆を呪うことであろう。
      (筆者は元小方村長)」








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