『じいちゃんその足どんげんしたと
ある被爆者の戦後史』
小峰秀孝・著/新風書房1997年
当時、長崎青年乙女の会・事務局長をされていた方が書かれた本です。
表紙絵「長崎医科大学の廃墟」小峰秀孝
この本をかかれたのは娘さんから言われたことからだったようです。下「」引用。
「私は中学しか出ていない。したがって教養も知恵もない。漢字も満足に知らないが、でも素直に「自分史」に取組んでみようと思う。次女(里美)の「父さんの人生は波瀾万丈の人生やっけん、書いてみんね」、この一言が私に決心させた。」
ここでも、栗原貞子さんは努力されています。下「」引用。
「自費出版した本があっという間になくなったが、栗原さんのお世話で大阪の新風書房から出版していただくことになった。福山琢磨社長は自分史の推進唱者で、私の本を読み「出版したい」と栗原さんに電話されたそうだ。思いもかけぬ展開に驚くとともに、心から感謝している。」
ABCCについても書かれておられます。下「」引用。
「いつものように、窓から皆んなが進んでいる姿を見ていると、進駐軍のジープが生徒を追い払うように走ってくる。またか、自分ではないように思っていると、「小峰、ABCCが迎えに来たぞ。早う行け」。ABCC、裸同然の恰好にされられ、注射を何本も打たれて血液を吸い取られる。このABCC行きは中学まで続いたが、最後は私の意志で行くのをやめた。」
index
ABCCのおかげでということは、まだ一度も読んだことはありません。
しかし、彼らの自画自賛はすごいものですね。
この本の最初に、足の写真があります。痛そうです。
こういうことも起きたの理解できます。下「」引用。
「三年になって、ある日、休み時間廊下を横歩きに歩いているとK先生(男)とすれ違った。背後から「小峰、お前なんか、真っ直ぐ歩くけんとか、まるでガネ(カニ)のごたっやっか」。私にとっては絶対に聞こえてはいけない言葉だ。どんなに惨めな言葉だろうか。」
「差別といじめに抗して」と小見出しがありました。
暴力では勝ったが精神的「いじめ」に。
こんなことも思われてたこともあったようです。下「」引用。
「この頃の私は、相変わらず学校では他人の目を気に掛け、一人で過ごすことの方が良かった。自分で解らなくって、「どうせ、おいなんか、いてもいなくてもいい人間さ。」人間の優しさ、思いやり、親切心とか、助け合う心なんて、本当に人間はそんなものを持ち合わせているのだろうか、などと考える。人間不信もここまで来ると一種の病気だ。」
そんな著者ではあったが、谷口稜曄の働きかけがあったという。下「」引用。
「昭和三十一年から青年乙女の会へは顔を出したことは一度もないが、谷口稜曄(すみてる)さんからはことあるごとに便りをいただいた。偉い人だと思いつつ行ってみようとは思わなかった。」
そして会へ。
語り部をされる……。
1996年、自費出版した自分史、第2回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞受賞。
平和・協同ジャーナリスト基金
長崎原爆被爆者小峰秀孝さん講演会
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目 次
ある被爆者の戦後史』
小峰秀孝・著/新風書房1997年
当時、長崎青年乙女の会・事務局長をされていた方が書かれた本です。
表紙絵「長崎医科大学の廃墟」小峰秀孝
この本をかかれたのは娘さんから言われたことからだったようです。下「」引用。
「私は中学しか出ていない。したがって教養も知恵もない。漢字も満足に知らないが、でも素直に「自分史」に取組んでみようと思う。次女(里美)の「父さんの人生は波瀾万丈の人生やっけん、書いてみんね」、この一言が私に決心させた。」
ここでも、栗原貞子さんは努力されています。下「」引用。
「自費出版した本があっという間になくなったが、栗原さんのお世話で大阪の新風書房から出版していただくことになった。福山琢磨社長は自分史の推進唱者で、私の本を読み「出版したい」と栗原さんに電話されたそうだ。思いもかけぬ展開に驚くとともに、心から感謝している。」
ABCCについても書かれておられます。下「」引用。
「いつものように、窓から皆んなが進んでいる姿を見ていると、進駐軍のジープが生徒を追い払うように走ってくる。またか、自分ではないように思っていると、「小峰、ABCCが迎えに来たぞ。早う行け」。ABCC、裸同然の恰好にされられ、注射を何本も打たれて血液を吸い取られる。このABCC行きは中学まで続いたが、最後は私の意志で行くのをやめた。」
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ABCCのおかげでということは、まだ一度も読んだことはありません。
しかし、彼らの自画自賛はすごいものですね。
この本の最初に、足の写真があります。痛そうです。
こういうことも起きたの理解できます。下「」引用。
「三年になって、ある日、休み時間廊下を横歩きに歩いているとK先生(男)とすれ違った。背後から「小峰、お前なんか、真っ直ぐ歩くけんとか、まるでガネ(カニ)のごたっやっか」。私にとっては絶対に聞こえてはいけない言葉だ。どんなに惨めな言葉だろうか。」
「差別といじめに抗して」と小見出しがありました。
暴力では勝ったが精神的「いじめ」に。
こんなことも思われてたこともあったようです。下「」引用。
「この頃の私は、相変わらず学校では他人の目を気に掛け、一人で過ごすことの方が良かった。自分で解らなくって、「どうせ、おいなんか、いてもいなくてもいい人間さ。」人間の優しさ、思いやり、親切心とか、助け合う心なんて、本当に人間はそんなものを持ち合わせているのだろうか、などと考える。人間不信もここまで来ると一種の病気だ。」
そんな著者ではあったが、谷口稜曄の働きかけがあったという。下「」引用。
「昭和三十一年から青年乙女の会へは顔を出したことは一度もないが、谷口稜曄(すみてる)さんからはことあるごとに便りをいただいた。偉い人だと思いつつ行ってみようとは思わなかった。」
そして会へ。
語り部をされる……。
1996年、自費出版した自分史、第2回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞受賞。
平和・協同ジャーナリスト基金
長崎原爆被爆者小峰秀孝さん講演会
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