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NHKブックス998 戦場の精神史-武士道という幻影-

2009年02月22日 | 読書日記など
『NHKブックス998 戦場の精神史-武士道という幻影-』
   佐伯真一・著/日本放送出版協会2004年

武士道にもいろいろあるものだとわかりました……。
--ただ、武士道といわれて、それで喜んでいる愚かな人たちになっていてはいけないと思う……。



表の裏に書かれてあります。下「」引用。

「[武士道は、日本人固有の精神的伝統なのか?]
武士道が唱える武士の潔癖な倫理・道徳。
だが、武士は本当に正々堂々と戦い。
卑怯な行いを嫌ったのだろうか。
『平家物語』「越中前司最期」や
『太平記』「阿呆・秋山河原軍の事」をはじめとする、
数多くのだまし討ちシーンを分析することから、
謀略と虚偽を肯定する
戦場独特の倫理感覚を明らかにする。
「武士道」の虚像を剥ぐ画期的論考。」

「非戦闘員は保護されたのか」 下「」引用。

「また、後の時代の加筆であるにせよ、「敵を討つことはしかたがないが、自分に刃向かう者以外の人間を必要もなく殺すべきではない」という倫理観が、中世に存在していたことは確かだろう。」

例外もある……。下「」引用。

「しかし、『将門記』の焼き討ち場面や『平治物語』の三条殿焼き打ちなどでは、多くの罪のない男女が焼き殺されるさまが描かれてもいる。-略-」

武士とヤクザを重ねる……。下「」引用。

「武士とヤクザを重ねる議論は、とっぴなものに聞こえるかもしれないが、別段目新しいものではない。古くは、陸奥国泉藩主で藩政改革に努めたことで知られる本多忠籌(一七三九~一八一二)の『匡正論』が、「武道」を唱える武士たちを描いた表現の中に、「今士の武道なりと称せるところ侠客の気ありて、勇を尚(たっと)び、死を厭(いと)はず」(『武士道叢書』による)云々と、「武道」と「侠客の気」を重ねた例がある。-略-」

津田左右吉は、新渡戸稲造『武士道』を批判的に書評しているという。

「武士道」=「ごろつきの道徳」 下「」引用。

「さらにその後、折口信夫「ごろつきの話」(昭和三年=一九二八)は、武士を漂泊民の系譜に立つ存在と考え、山鹿素行(やまがそこう)以前の「武士道」を「ごろつきの道徳」だと言い切っている。」

政治家の武士道とは、事実をみれば、これだろう……。

マルクス主義者たちも……。下「」引用。

「さらに、第二次世界大戦後はマルクス主義的な歴史観のもとで、勃興期の武士は、腐敗した貴族階級を打ち倒してゆく、歴史の進歩を担った階級と位置づけられ、やはり肯定的に扱われた。歴史観そのものは戦前とまったく違うのだが、素朴で力強く健康、質実剛健というように描き出された武士像は、一面では戦前の「武士道」論に近いともいえよう。-略-」

キリスト教徒も……。下「」引用。

「植村正久は、封建社会が倒れると共に仏教も儒教も倒れ、武士道も姿を消してしまったと嘆き、「社会をして武士道の昔に帰らしめよ。否むしろ吾輩が欲する所の者は洗礼を受けたる武士道なり」と、キリスト教と「武士道」を融合させた倫理の発展を説いている。(「基督教と武士道」明治二七年=一八九四)。同じようにキリスト教徒として「武士道」を称揚した者に、片岡健吉・新渡戸稲造・内村鑑三などがあることは著名だろう。大まかにひとくくりすることが許されるならば、これらも、今はなき武士の克己禁欲の精神に、キリスト教と「武士道」の接点を見出したものと思われる。」

新渡戸稲造は……。下「」引用。

「どうも新渡戸は、キリスト教文化に比べて、日本の武士の道徳は、正直という徳においてやや劣ると感じていたのではないだろうか。その感覚の由来について解き明かすことは筆者の手にあまるが、新渡戸『武士道』は、日本の武士と「フェア・プレイ」と結びつけた書であるとしても、その点では案外控えめであるこしとは確認しておきたい。」

外国もまた、正直のわけがない。









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