磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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お菓子放浪記 3冊

2008年12月07日 | 読書日記など
『お菓子放浪記』
   西村滋・作/八木康夫・絵/理論社1994年

かつてTBS「人間の歌」で放映され人気を博した名作の18年ぶりの復刊。

この本が、原爆関連の本とあるのは、全般ではなく、一部に書かれてある……。

戦中と終戦を生きた自伝的作品だろうと思われます……。

主人公は感化院にいたのですが、やはり「戦争は究極の差別」です。下「」引用。

「だから学院に寄付したそうだ。ほんとか嘘か知らないけど、そういえばいつかもヘンなことがあった。えらい軍人の息子だという子が入ってきたけれど、その子も車で迎えがきて、帰っていった。それから……」

また、ミドリという少年の花売りがいたという。下「」引用。

「街頭で花を売っているミドリという少女は、ほんとは男の子だった。
 駅の便所の中で、母親らしい女が化粧をしてやっているところを見てしまった。
 母親は母親で、ミドリくんの弟の四つになる坊やをひっぱって、なんだかエロチックな秘密写真をアメリカ兵に売りつけているらしい。」

広島にいた富永先生。生きていて喜ぶ主人公。下「」引用。

「死んでいると思ったのね? 原爆の日の三日前、上京したのよ。親せきの家に不幸があって……それでそのまま広島へ帰れなくなってしまったの」



『お菓子放浪記 続』
   西村滋作・作/朝倉美恵子・絵/理論社1994年

「埴生の宿」とはそう意味だったんだあー。下「」引用。

「「埴生(はにゅう)の宿」について辞書には、「土の上にムシロを敷いただけの粗末な小屋」とあります。そんな粗末な小屋でも、わが愛する家ということなのでしょう、-略-」

富永先生……。下「」引用。

「戦争中、わたしは報徳学院を辞めて広島へ帰り、結婚しました。シゲルくんは、ずいぶん淋しがってくれたようでした。
 やがて原爆が落され、ダンナさまは亡くなりました。わたしの実家の両親や兄妹も死にました。-略-」

そして、永井隆が登場する。下「」引用。

「……巡業の途中、わたしが浦上天主堂(長崎)へゆく気になったのは、その天主堂で、東京の劇団薔薇座の公演があるかことを知ったからでした。しかも永井隆のベストセラー「長崎の鐘」の劇化上演です。五月七日、この日、原作者は横臥(おうが)のまま観劇。
 わたしは、どうしてもこのことを広島の富永先生に報告したいと思ったのです。
 薔薇座は、戦後演劇復興の花盛りの中にあって、あからさまなアジ演劇や、貴族などが出てくる外国物の古典とは一線をひいて、創作オンリーで健闘している劇団でした。日本の作家が、日本の現実(つまり敗戦後の)にとりくみ、舞台には、スタアではない役者たちが、汗をしたたらせて、今日の巷に生きている人間を生きるのです。
 戦火のため減少した劇場は既成の劇団に専有され、芝居をするための設備などゼロにひとしい舞台に全力投球する「演劇の青春」は、あの、水族館で見た真いわしの一尾を思わせ、敗戦後の日本という舞台に生きるわたし自身の青春でもあったのです。
 千の秋が実る(浦上天主堂)で、「長崎の鐘」を上演。いかにも薔薇座らしい快挙でした。」

Index

天皇が早く終戦してくれたら、こんなことにならなかったという。

しかし、和平を伸ばして、米軍が原爆投下することを決定していた。

それはソ連を恫喝するため……。

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「赤旗」に連載されたという。下「」引用。

「この作品は一九九三年二月から一九九四年六月まで「赤旗」日曜版に連載されたものです。」




『理論社の大長編シリーズ お菓子放浪記』
    西村滋・作/八木康夫・絵/理論社1976年3刷

この作者は10歳で孤児になり放浪生活。
戦後、戦争孤児施設の補導員など……。
この本は戦争孤児のお話といっていいかと思います……。



お菓子がないと、困ってしまう人がいるんですね。下「」引用。

「家の中に菓子がない……おおげさな言い方をすると、これは、わたしにとって大事件なのです。」
「そんなわたしを、キミたちは「おかしなおとうさん」だと思っているらしい。そう思われても仕方がありません。」

お菓子以上のお菓子? 下「」引用。

「わたしにとって、お菓子は食べるたけのものではないのです。それはお菓子以上のなにかなのです。では、きいてください。これはおとうさんの物語です。」


少年審判所でのことなども書かれています。

孤児院に入ると、ホワイト・サタン(白い悪魔)と呼ばれる指導員がいたそうです。

福祉はやさしい人がする仕事?

それは嘘ですね。実際は他の世界とそう変わらないとボクは思います。

でも、素敵な人もいますね。この話では、富永先生です。歌も教えてくださいました。下「」引用。

「お菓子の好きなパリ娘
ふたりそろえば いそいそと
角の菓子屋へボンジュール
よるまもおそし エクレール
腰もかけずにムシャムシャと
食べて口ふく パリ娘
      …………

富永先生のレパートリイの中で、わたしはこの歌がもっとも愛しました。」


孤児院でお菓子がでるのは年に二回だったそうです。
お正月と創立記念日だけだったそうです。

東京が大空襲でひどいさまになったことが書かれてあります。

富永先生は励ましてくれます。下「」引用。

「富永先生は、きっぱりというのです。
「そう、いまの世の中に美しいお菓子がないのなら、キミがそのお菓子になるの。ひとを励ましたりなぐさめたり、生きていることをおいしがらせたりするお菓子になるのよ、キミ自身が……」


その言葉を大切にされたようです。








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