『◎戦争はいや、差別はいやです 被爆朝鮮・韓国人の証言』
鎌田定夫・編/朝日新聞社1982年
「戦争は究極の差別」、積極的な平和は「構造的差別」をなくしていくこと……。このことは重要なことだとボクも思います。
十五年かかったという編者。下「」引用。
「私が朝鮮・韓国人の被爆問題にかかわりはじめて十五年になる。これはそのまま私が参加してきた「長崎の証言」運動の歴史と重なる。積年の願いがかなって、今回やっと被爆朝鮮・韓国人の証言集を編むことになった。
しかし、すでに戦後三十七年が過ぎた。あまりにも遅すぎる、とお叱りを受けるかもしれない。」
でも、『長崎の証言』『季刊・長崎の証言」に掲載したものもあるという……。
日本ルーテルの会に参加した著者。下「」引用。
「日本ルーテル教会の岡正治牧師や西村豊行氏らの呼びかけで、「原爆被災白書をすすめる長崎市民の会」の結成に参加したのもこの頃である。」
長崎で被爆しただけでなく、関東大震災にあった方が書かれていました。下「」引用。
「上野公園に逃げた朝鮮人に、消防団なんかがきて、「おまえ朝鮮人だろう」と竹槍を突き出して訊問したらしかです。その人が「ちがう」と言うたら、お寺の坊さんを呼んで、「お経を読め」と言われたそうです。沖縄の人なんか、ことばがどもったりして殺された人も多かったようです。
国府台には十月末か十一月はじめ頃まで捕まっていたが、その後、品川駅から汽車に乗せられ朝鮮に帰されました。たくさんの朝鮮人がむりやりにですね。あの時は、払い下げてもろうた軍隊服を着て、下駄はいただけで、なにひとつ持たんままですよ。」
「あの頃、朝鮮じゃ米の飯はめったに食えなかった。」という文章がありました。
--それはそうだろうなあーと思います。
『原爆モニュメント物語』より
慰霊碑をたてたことが書かれてありました。下「」引用。
「原爆ドームの近くに韓国人犠牲者の碑があるでしょう。私らで建てたんです。八月に原爆死没者の名を奉安して花を捧げるでしょう。そのとき韓国や朝鮮人の場合、どこにも慰霊碑がないので、みんなで募金して、やっと公園のわきの方に建てたんです。外国人被爆者が招待受けた最初の祈念式のときは、韓国側から私が一人出て、北朝鮮から一人出て、花を捧げました。あの頃はずうっと民団の婦人会長させられて、同胞の世話やいたり、平和運動に参加したりしてきました。」
「敗戦--長男出産、小頭症の苦しみ」朴化玉(当時30歳、朝鮮籍)・著
冷たいお役所……。それは日本人にとっても同様です……。下「」引用。
「私が今いちばん心配しとるのは、長男のことですよ。私たちは夫婦と長女の三人は特別被爆者手帳をもらえたが、長男は胎内被爆なのにもらえんかったとです。私が朝鮮人なので朝鮮籍に入れといたが、市役所では「日本の籍に入れた方がよか」というので、昭和二十三年頃、女房の籍(宮崎姓)に入れたとです。それが「養子」となっとるため、あとで何回出産証明書を持って行っても「実子」として認められんので、被爆者手帳ももらえず、困っとったとです。やっと最近になって認められたが、なんでお役所はこう冷たかとでしょうかね。」
入院についても、ボクの父も母も同様でした。両親とも日本人ですが……。下「」引用。
「もう治らないから自宅療養をしてこれ以上悪くならんようにしろ、入院してもむだだと言われとります。風邪をひくと危なくなるんです。今でもずっと通院ばしとります。」
「学徒兵として高射砲陣地で」金貞賢(金毘羅山で被爆、当時28歳)・著。
小倉では高射砲の攻撃があり、長崎に向かったという。下「」引用。
「金比羅山にある西部第八○六四部隊第四中隊の観測班として着任しました。昭和十九年(一九四四年)一月二十一日のことでした。-略- 「B29だ!」白い機体が見える。高度一万メートル、-略-シャーシャーとものすごい爆弾の落下音を耳にした。その一瞬、もう私は気絶していました。そのとき閃光が光ったかどうかわからない。意識がもどったときは三メートルほど外へ飛ばされ、頭はボーッとし、血は出ないが、体はペラペラして真っ白い肉だけが見えました。」
「ビドルギ団」をつくっているという。下「」引用。
「韓国で原爆被害者二世の会「ビドルギ団」が結成されたのは一九七○年である。ビドルギとは平和の象徴、ハトのことである。」
index
目 次
鎌田定夫・編/朝日新聞社1982年
「戦争は究極の差別」、積極的な平和は「構造的差別」をなくしていくこと……。このことは重要なことだとボクも思います。
十五年かかったという編者。下「」引用。
「私が朝鮮・韓国人の被爆問題にかかわりはじめて十五年になる。これはそのまま私が参加してきた「長崎の証言」運動の歴史と重なる。積年の願いがかなって、今回やっと被爆朝鮮・韓国人の証言集を編むことになった。
しかし、すでに戦後三十七年が過ぎた。あまりにも遅すぎる、とお叱りを受けるかもしれない。」
でも、『長崎の証言』『季刊・長崎の証言」に掲載したものもあるという……。
日本ルーテルの会に参加した著者。下「」引用。
「日本ルーテル教会の岡正治牧師や西村豊行氏らの呼びかけで、「原爆被災白書をすすめる長崎市民の会」の結成に参加したのもこの頃である。」
長崎で被爆しただけでなく、関東大震災にあった方が書かれていました。下「」引用。
「上野公園に逃げた朝鮮人に、消防団なんかがきて、「おまえ朝鮮人だろう」と竹槍を突き出して訊問したらしかです。その人が「ちがう」と言うたら、お寺の坊さんを呼んで、「お経を読め」と言われたそうです。沖縄の人なんか、ことばがどもったりして殺された人も多かったようです。
国府台には十月末か十一月はじめ頃まで捕まっていたが、その後、品川駅から汽車に乗せられ朝鮮に帰されました。たくさんの朝鮮人がむりやりにですね。あの時は、払い下げてもろうた軍隊服を着て、下駄はいただけで、なにひとつ持たんままですよ。」
「あの頃、朝鮮じゃ米の飯はめったに食えなかった。」という文章がありました。
--それはそうだろうなあーと思います。
『原爆モニュメント物語』より
慰霊碑をたてたことが書かれてありました。下「」引用。
「原爆ドームの近くに韓国人犠牲者の碑があるでしょう。私らで建てたんです。八月に原爆死没者の名を奉安して花を捧げるでしょう。そのとき韓国や朝鮮人の場合、どこにも慰霊碑がないので、みんなで募金して、やっと公園のわきの方に建てたんです。外国人被爆者が招待受けた最初の祈念式のときは、韓国側から私が一人出て、北朝鮮から一人出て、花を捧げました。あの頃はずうっと民団の婦人会長させられて、同胞の世話やいたり、平和運動に参加したりしてきました。」
「敗戦--長男出産、小頭症の苦しみ」朴化玉(当時30歳、朝鮮籍)・著
冷たいお役所……。それは日本人にとっても同様です……。下「」引用。
「私が今いちばん心配しとるのは、長男のことですよ。私たちは夫婦と長女の三人は特別被爆者手帳をもらえたが、長男は胎内被爆なのにもらえんかったとです。私が朝鮮人なので朝鮮籍に入れといたが、市役所では「日本の籍に入れた方がよか」というので、昭和二十三年頃、女房の籍(宮崎姓)に入れたとです。それが「養子」となっとるため、あとで何回出産証明書を持って行っても「実子」として認められんので、被爆者手帳ももらえず、困っとったとです。やっと最近になって認められたが、なんでお役所はこう冷たかとでしょうかね。」
入院についても、ボクの父も母も同様でした。両親とも日本人ですが……。下「」引用。
「もう治らないから自宅療養をしてこれ以上悪くならんようにしろ、入院してもむだだと言われとります。風邪をひくと危なくなるんです。今でもずっと通院ばしとります。」
「学徒兵として高射砲陣地で」金貞賢(金毘羅山で被爆、当時28歳)・著。
小倉では高射砲の攻撃があり、長崎に向かったという。下「」引用。
「金比羅山にある西部第八○六四部隊第四中隊の観測班として着任しました。昭和十九年(一九四四年)一月二十一日のことでした。-略- 「B29だ!」白い機体が見える。高度一万メートル、-略-シャーシャーとものすごい爆弾の落下音を耳にした。その一瞬、もう私は気絶していました。そのとき閃光が光ったかどうかわからない。意識がもどったときは三メートルほど外へ飛ばされ、頭はボーッとし、血は出ないが、体はペラペラして真っ白い肉だけが見えました。」
「ビドルギ団」をつくっているという。下「」引用。
「韓国で原爆被害者二世の会「ビドルギ団」が結成されたのは一九七○年である。ビドルギとは平和の象徴、ハトのことである。」
index
目 次