磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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別冊中央公論2 親が子に残す戦争の記録 再び戦争を起さないための遺書

2008年09月07日 | 読書日記など
『別冊中央公論2 親が子に残す戦争の記録
   再び戦争を起さないための遺書』
     高橋善郎・編/中央公論社1971年

親という感じではありませんでした……。もちろん、戦争のことを伝える感じは受けました……。



「終りに見た街」山田太一・著。下「」引用。

「私も芋や米は、なるべく人にやりたくなかった。なにより食糧は貴重だった。それに、鍋だって、何ヶ所かへこんではいたが、戦前のい頃の鍋だし、長いこと大切に使っていたものだ。」

戦争でなくても、食料難になれば当然そうなるでしょうね……。

買い出し列車というのはアジアの国の人たちのようです。下「」引用。

「機関車まで鈴なりの買出し列車(昭和21年8月)」

もちろん、日本もアジアですが……。
今はこのような光景は見られませんね。

武道の授業があったという。下「」引用。

「国民学校初等科五年生以上になると、男生徒は武道の時間に柔道と剣道を必修科目として授業を受けることになっていました。」

ボクのころは、中学の体育で柔道、高校で剣道だった……。

農作業もしていたという。下「」引用。

「戦時中の農村地帯の国民学校では、生徒たちにいろいろの作業が課せられました。
 まず学校での農作業があります。学校は、牛、豚、山羊、ニワトリなどの家畜を飼育し、学校田に米や麦を作っていましたし、学校内の空地はむろんのこと、学校横の川の土手にも畑を作り、更にまた二~三キロ離れた場所にも畑がありました。山間の水の便のまったくない畑にさつま芋を植えるため、二人一組になって肥桶をかついで長い道のりを歩いたことがあります。」

「大村海軍病院--夫の死をみつめて」というのがあった。下「」引用。

「戦地からのり便りが途絶え、毎日のラジオの戦況に一喜一憂しているとき、思いがけない「海軍病院検閲済」のスタンプ付きの良人からの封書が受け取ったのが、五日前である。
「長崎大村久原郷大村海軍病院十一病棟三号室」くわしく書かれた地名は、その夜、九州全土地図を拡げた私に、気が遠くなりまそうな遠さに思われる。」

これは、昭和18年のころと思われる。

「子宝の表彰状-当時、子どもをたくさん産み育てた人に贈られた(昭和16年11月)」

国会議事堂の前も芋畑があったという。




「言いたいことが、言えなかった時代」で、左幸子と北山修の対談。下「」引用。

「左 -略-ああ、何たる不謹慎なことを母はいうんだろうと、まず思ってしまったからなんです。東條英樹と呼び捨てにすることすら、たいへんなことでしたから。
北山 子どものほうがそういう教育を受けちゃっているものだから、親のそういった態度に批判的になるんですね。」

教育者は軍国主義の教育をしたことを反省されている人はあまりいないとボクは思う……。教育も戦時システムを続けているという人たちもいる……。



絵本でヒトラー……。







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