磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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広島の記録2 炎の日から20年

2008年03月31日 | 読書日記など
『広島の記録2 炎の日から20年』
  中國新聞社・編/未来社1966年

20年間のさまざまなことが書かれてありました。わりに、あからさまに書いておられるような感じを受けました……。



原爆孤児の問題……。下「」引用。

「八月八日午後二時ごろ、広島市収入役の黒瀬斉氏が自転車を踏んで、焼失を免れた比治山国民学校にやって来た。出迎えた石田正巳校長に、黒瀬氏は汗をふきながら「親に死なれた子供たちがたくさんいる。ぜひこちらで預ってほしい」と切り出すのだった。それから二時間後、黒瀬氏は三、四歳の子供をひとり自転車に乗せて、再び比治山校に現われた。こうして翌日から、肉親を失って焼け野原にほうり出された子供たちがぞくぞくと送りこまれてきた。年齢は乳児から小学校一、二年生くらいまで。四教室を被災児収容のために使い、比治山戦災孤児収容所として石田校長や女子職員たちの不眠不休の活動が始まった。」

さらに、気にしている人たちがいた……。下「」引用。

「このような孤児を救おうと立ち上がった人たちがいた。軍属として九州で敗戦を迎え復員した仏教者の山下義信氏は、原爆孤児救済に乗り出す決意を固め、「佐伯郡五日市町の元農事試験場を払い下げてほしい」と楠瀬知事に陳情していた。
 このころ広島市立第一青年学校長だった秋山豪爾郎氏も、比治山収容所の被災児を何とかしなければならぬと奔走していた。また広島市幟町国民学校訓導の斗枡正氏は、文部省の指令で被災児童たちの教育施設を広島湾の似島に造ろうとしていた。秋山、斗枡両氏は山下氏の計画を聞いて、力を合わせようということになり、三つの流れは一本にまとまった。
 原爆で身寄りを失った子供たちの数は、内務省調査では二千人以上に達したと推定された(市当局のその後の推定では六千五百人)が、親せきや知人に引きとられた者を除くと、一部は比治山国民学校に収容され、一部は疎開先で立ち往生し、残りは浮浪児となって散って行ったようだ。」

この数は後に調べられた本ではもっと数が多くなっている……。


そして、日本人たちの運動もあった……。下「」引用。

「長田教授と相談した結果、広島市在住の教育、文化関係者の協力を求めることになり、二月二十二日に広島子どもを守る会が誕生した。会長森滝市郎氏(広大教授)、副会長山口勇子(主婦)土屋厳郎(医師)両氏という顔ぶれであった。」



この時、「おこりじぞう」の作者は、主婦となっていますね……。

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「折りヅルの願い」と題して、佐々木禎子さんやその友人たちのことが書かれてありました。

もくじ


「丹下構想とドーム」というタイトルの文章がありました。下「」引用。

「当時、広島市のり復興顧問だったジャピー少佐は、記念碑として“五重の塔”のような鐘塔を提案したが、丹下氏は強く反対した。中島町一帯の公園化について、浜井市長から相談を受けた丹下氏は「広島市民の有効に利用しうる中心的なコミュニティーセンターになりうるもの、しかもそれが世界的に何らかの機能的役割りを果たしうるものでなければならない。単なる記念碑では絶対にダメだ」と強調した。」

これは、NHKの番組でも取り上げられていましたね。

後に政治家になる山口淑子さんの名前も出てくる。下「」引用。

「広島復興審議会専門委員からモノいいがついた。「アメリカ人の作った橋を渡るのはともかく、そんなやつの作った碑を拝めるか」というわけだ。しかし、表面の理由は「公園全体を丹下構想で統一する」だった。-略-当時野口夫人だった女優の山口淑子は、ハズの面目まるつぶれにカンカン。浜井市長に英語で語るご主人、イサム氏の語調はわりに穏やかなのだが、淑子通訳を通ると強談判になった。二時間もしゃべりまくられた。「市は直接契約していないのだから…」と逃げを打つほかない。」

中国文化連盟結成……。下「」引用。

「二十年を暮れようとする十二月十六日午後一時から、広島県安佐郡祇園町の山本国民学校で、広島県山県郡に疎開していた作家の細田民樹氏を迎えて、中国文化聯盟結成大会が開かれた。広島在住の文学同行者が手をとり合って、戦後日本の文化を再建しようという趣旨である。-略-発起人は栗原唯一・貞子夫妻、保田勝馬、山本康夫・紀代子夫妻ら十氏。」

正田篠枝のことも、あちらこちらで書かれてありました。下「」引用。

「「生きのこったことをよろこんだ広島の人たちは、実は死刑の宣告が少し長びいただけのことだったように、次々と発病し、次々に死んで行かなければならないのでありました」
 原水禁広島母の会機関誌『ひろしまの河』にこう書いた正田篠枝さんは、四十年六月十五日、原爆放射能による乳ガンでなくなった。」

原爆ドームについても……。下「」引用。

「正田さんは、四十年春、死の床で「私にはね、死んだあのころの町で、産業奨励館のドームだけが、怒っているようにも、泣いているようにも見えたのよ。いっぱい焼けたビルがあったのにね」と語っていた。」

占領下で、深川宗俊氏を中心とする短歌の有志、『反戦詩歌集1』を七百部発行。

『ひろしまの河』について書かれてありました。下「」引用。

「三十六年六月、原水禁広島母の会(事務局長、前田とみ子さん)の機関誌『ひろしまの河』が市民の前に姿を現わした。母の会は三十四年に広島で開かれた第五回原水禁世界大会の安保をめぐる討議に触発されてできた組織、原水禁運動を年一回の大会行事だけに終わらせず、日常的な学習や活動を行なおうというのが目標である。安保のときには市内の八婦人団体に呼びかけて、母親の立ち場からビラをくばり勇気を出してデモ行進に参加した。
 『ひろしまの河』はこうした母親たちの平和活動のなかから生まれてきた。」

この表現はおかしいと思う……。下「」引用。

「「原爆症なんて病気はありませんよ」ということもできる。」

原爆【病】という病気はありませんよなら理解できる……。
原爆による症状のことを原爆症というと思う……。病気のことではない。

原田東岷を委員長に。下「」引用。

「放射線とガンの関係を重視した広島市医師会は三十二年一月に総会を開き、シュヨウ(腫瘍)患者の登録制度を設置、同年五月一日から開始した。登録業務は医師会内に設置された統計委員会がやり、研究は国立予研広島支局とABCCがすることになった。これは日本で初めての登録制度で委員長に原田東岷氏(広島市、開業医)が選ばれてスタートした。」

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もちろん、広島市名誉市民のバーバラのことも、書かれてありました。

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日本の原爆記録10







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