『広島が滅んだ日-27年目の真実-』
宍戸幸輔・著/読売新聞社1972年
戦後YMCA理事であり、原爆投下当時、少尉であった人が書かれた本です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/94/bbbb8308deaf434b6d78fe8fbc2b4554.jpg)
ウエルス先生と懇意にされていたようです。下「」引用。
「野田神社の前の通りを路地にはいったところに、明星幼稚園がある。その広い敷き地の隣に建てられてある木造二階建ての西洋館の前まで来ると、急に私の足は止まり八年前のことを想い浮かべずにはおられない。それは、この西洋館の玄関で、新任少尉の私の右手を、温かい両手で抱くようにしながら目に涙をいっぱいためて、「私は、いつもあなたのことをおぼえていて、神様にお祈りをしていましたが、今後もなお一生懸命につつげましょう」と声を震わせながら別れを惜しんで下さった。アメリカ・ミッションから四十五年前に日本伝道のために派遣された、七十三歳の老婦人宣教師、ミス・リリアン・ウエルスのことである。」
何かあったら、ウエルス先生の所へ行ったという。
そして、自分の子供のように思い祈っていたという先生。
戦後のウエルス先生。下「」引用。
「(注) リリアン・ウエルス先生は戦争終了後、直に捕虜収容所から彼女の心の故郷である山口に帰り、昔からの温かい友情に包まれて戦前と同様に山口市民の尊敬を受けつつ、熱心な宣教生活を継続された。その後高齢と健康状態のため、後任にすべてを託して四十年の山口生活にピリオドを打たれたのであるが、その際山口市より、「名誉市民」の称号を送られている。」
日赤病院周辺のこと……。下「」引用。
「日赤病院に近づくにつれて、道路の状態もますます悪くなり、電柱は根もとからへし折られ、麻の如く乱れた電線の中に、大量の瓦礫や焼けトタン、それにどこから飛んできたのか、燃えている材木類まで散乱している。そのジャングルのような中を、三々五々お互いを助け合うようにして猛火の中から逃げてくる重傷者の群れと、次々に出合うのであるが、残念ながらその中には恭子ちゃんの姿を発見することできなかった。
--「ヘイタイサン、ホカニ病院ハナイデスカ」
--「ヘイタイサン、水ガホシイ、苦シイ」
--「ヘイタイサン、宇品ノ方ハ大丈夫デスカ?」等々悲惨(ひさん)な問いかけを受けるたびに、私の心は痛みつづけるのである。
彼らの負傷程度は今さら書くまでもなく、実にひどいものであり、気の毒なことに彼らが今何を求めているかについても、すべてはっきりしたある種のパターンにまとめることができる。かわいそうなことに、やっとの思いで日赤病院までたどりついたのであるが、患者としてはいりこむだけの余地がないので、はみ出し、漠然とした望みを抱いてさまよい歩いているのであろう。」
これで医療が責務を果たしたとはやはり言えないでしょう……。
しかし、こんな状態では誰も責務を果たせないでしょう……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/98/0a608f88b3a78aca2ec767300baef5eb.jpg)
そして、この本とは大きくトーンが異なる本。
広島原爆の疑問点-このまま黙っていたら大変な事になる-
広島・軍司令部壊滅-昭和20年8月6日-
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宍戸幸輔・著/読売新聞社1972年
戦後YMCA理事であり、原爆投下当時、少尉であった人が書かれた本です。
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ウエルス先生と懇意にされていたようです。下「」引用。
「野田神社の前の通りを路地にはいったところに、明星幼稚園がある。その広い敷き地の隣に建てられてある木造二階建ての西洋館の前まで来ると、急に私の足は止まり八年前のことを想い浮かべずにはおられない。それは、この西洋館の玄関で、新任少尉の私の右手を、温かい両手で抱くようにしながら目に涙をいっぱいためて、「私は、いつもあなたのことをおぼえていて、神様にお祈りをしていましたが、今後もなお一生懸命につつげましょう」と声を震わせながら別れを惜しんで下さった。アメリカ・ミッションから四十五年前に日本伝道のために派遣された、七十三歳の老婦人宣教師、ミス・リリアン・ウエルスのことである。」
何かあったら、ウエルス先生の所へ行ったという。
そして、自分の子供のように思い祈っていたという先生。
戦後のウエルス先生。下「」引用。
「(注) リリアン・ウエルス先生は戦争終了後、直に捕虜収容所から彼女の心の故郷である山口に帰り、昔からの温かい友情に包まれて戦前と同様に山口市民の尊敬を受けつつ、熱心な宣教生活を継続された。その後高齢と健康状態のため、後任にすべてを託して四十年の山口生活にピリオドを打たれたのであるが、その際山口市より、「名誉市民」の称号を送られている。」
日赤病院周辺のこと……。下「」引用。
「日赤病院に近づくにつれて、道路の状態もますます悪くなり、電柱は根もとからへし折られ、麻の如く乱れた電線の中に、大量の瓦礫や焼けトタン、それにどこから飛んできたのか、燃えている材木類まで散乱している。そのジャングルのような中を、三々五々お互いを助け合うようにして猛火の中から逃げてくる重傷者の群れと、次々に出合うのであるが、残念ながらその中には恭子ちゃんの姿を発見することできなかった。
--「ヘイタイサン、ホカニ病院ハナイデスカ」
--「ヘイタイサン、水ガホシイ、苦シイ」
--「ヘイタイサン、宇品ノ方ハ大丈夫デスカ?」等々悲惨(ひさん)な問いかけを受けるたびに、私の心は痛みつづけるのである。
彼らの負傷程度は今さら書くまでもなく、実にひどいものであり、気の毒なことに彼らが今何を求めているかについても、すべてはっきりしたある種のパターンにまとめることができる。かわいそうなことに、やっとの思いで日赤病院までたどりついたのであるが、患者としてはいりこむだけの余地がないので、はみ出し、漠然とした望みを抱いてさまよい歩いているのであろう。」
これで医療が責務を果たしたとはやはり言えないでしょう……。
しかし、こんな状態では誰も責務を果たせないでしょう……。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/98/0a608f88b3a78aca2ec767300baef5eb.jpg)
そして、この本とは大きくトーンが異なる本。
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