磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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生きる-被爆者の自分史-第二集

2008年05月02日 | 読書日記など
『生きる-被爆者の自分史-第二集』
   被爆者の自分史編集委員・著/
     被爆者の自分史編集委員2000年

被爆された方たちの体験だけでなく、それ以前も以後も書かれてあります。この本の多くの方が語り部をされています……。

もくじ



鈴木勉「原爆被爆者相談の会」代表が一冊の本を取り上げています。下「」引用。

「小峰秀孝さんの『じいちゃんその足どんげんしたと』(新風書房)があります。一番印象に残っているのは、三人の子を残して妻に去られた後の小峰さんの荒れた心象風景です。きっと書きたくなかった部分でしょう。最初に書き下ろした時には、触れられなかったところだったとお聞きしました。彼をよく知る人たちに、なぜ書き落としたかと問われ、辛い思いに耐えて書き加えたそうです。」

嫌いなものも、配給されたことでしょうね……。下「」引用。

「ちょうどそのころ被服廠と兵器廠に勤めとった夫の弟二人が、たまたま夏みかんの配給が一人一○個ずつあったというて持って帰ってきました。私はもう矢も楯もたまらんで、すぐに人に食べられんうちに思うてね、一○個を二円で買うことにしたの。弟たちは「こがあな苦い酸いものはいらん」いうてね。私は大助かり。」

六○年ぶりのふるさと。なつかしさなどなかったという。下「」引用。

「一九九四年に生まれ故郷の京都を訪ねました。六○年ぶりで浦島太郎でした。懐かしかったです。建物もみな近代的になっているでしょ。そして昔うちの家がここにあって、ここの坂をちょっと下りたら散髪屋さんがあって、この横を通ってこの下の川で大根を洗うたり、ネギ洗うたり、ずいぶん私冷たい目をしたのになどと思うところはもうないでしょ。小学校も門柱だけになっている。」

--子守りを仕事にしていた人は、芸妓さんの家へ。
舞妓さんたちを、お嫁さんだと思っていたという。
--むかしの結婚の衣装は今とは異なる。晴れ着で、特に変わったものではなかったようです。
ボクの母の結婚式の写真もそうです……。

京都はあぶないというので、広島に疎開。

--ハワイからやって来て、戦争と原爆にあったという方の文章がありました。

「榎町「吉久(よしきゅう)商店」溝口久子・著では町の様子が書かれてありました。下「」引用。

「原爆で広島は壊滅してしまったが、八月六日までの榎町は、旧市(きゅういち)が近くにあり午前三時 ごろから田舎から野菜をつんだ大八車や自転車の人々で終日賑わっていた。吉田の家は、榎町の表通りから裏の通りへ抜けの家で、表通りへ、昔は馬車が入り、戦時中は車が入り、材料のこんにゃく玉が入った俵、糸こんにゃくをつくる精粉、オガクズを倉庫に入れるのに都合よかった。私の家の右隣りは麩屋で、店いっぱいに麩の製品がそろっていて、奥の方は大きな樽に、日常の食事に使う麩、焼き麩、生麩を職人さんが次から次へと作って店先に並べていた。先隣りは宮本菓子店だった。この店も婿養子夫婦がやっていた。中広町の鶏舎で鶏を飼い、榎町の店で卵を使い菓子を作っていた。裏の方へ行くとチョコレートとキャラメルを作るところがあった。
 和菓子屋、乾物屋、おもちゃ屋、荒物屋、榎町界隈は全部商家で、給料取りの家は一軒もなかった。」

何かの会に入られて語り部をされる人が多いようです。下「」引用。

「初めて被爆体験を話した二、三カ月後、気管支炎のため入院することになった。二週間程の入院だったが、点滴を受けながら職員に被爆体験を話し、勧められて退院と同時に「広島医療生協原爆被害者の会」の会員となった。それ以来毎年八月五日には会員の人たちと、全国各地から広島に訪れる人々に被爆証言をつづけている。昭和五八(一九八三)年には、この会が毎年発行している小冊子「ピカに灼かれ」第七集に被爆体験記を載せた。昭和六○(一九八五)年から平成一○(一九九八)年まで一四年間にいろいろな人に話を聞いてもらったが、先年男性が「私もあなたと同じ年ですが酷い体験をされましたね。今年初めて孫を連れ、午前中碑めぐりと原爆資料館を見てからこの会場に来ました。どうか体に気を付けて被爆体験を伝えてください」と励ましてくださった。」

「原爆被害者証言のつどい」のメンバーとなり修学旅行生に語られている人もおられます。

赤線地帯の記述があるのは珍しいです。下「」引用。

「毎月一度、女子従業員の健康診断が行われていた。この頃のように、工場の前にレントゲン車が横付けというわけではなく、全員トラックに乗せられて保健所へ行くのであった。戦後赤線地帯というのがあって、性病の検査を強制的に受けさせられていた女の人たちも、やはりトラックで連れられてきていので、私たちまでその人たちと間違えれて、道行く人が振り返ったり、男の人たちは面白がってはやしたてたり、大声でやじるので、トラックに乗ることは気の進まないことだったが、働く人の中には胸を病む人が多く出ていたので、会社側も、従業員も、健康面には大変気を使っていた。入社後、数か月経った頃、その健康診断で、私の右肺上部が真白くレントゲンに写し出されて、肋膜炎と診断された。」

このようなものが、従軍慰安婦の下地だったのでしようね。
--今も、「英雄色を好む」などといい、性差別的発言をする政治家や文化人がいますね……。
モラル無き力の信仰、別の言い方をすれば愛なき欲望の虜が、このような国際的非難をうける対象をつくってしまったと思います。

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