磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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河出新書(文芸)106 或る目ざめ

2008年02月21日 | 読書日記など
『河出新書(文芸)106 或る目ざめ』
   川上宗薫(かわかみむねしげ)・著/河出書房1956年

この本ではまだ、本名を使っているようです。後に著者は語ったという。【goo wikipedia】下「」引用。

「原爆で3人の家族を喪ったにもかかわらず、原爆体験についてほとんど何も書かなかった。「ああいうことを売りものにしたくないんだ」

しかし、はじめての出版は原爆、水爆がテーマだったようだ……。



■目次■

夏の末  6
怒りの顚末  53
傾斜面  97
或る目ざめ  141
企み  173
 あとがき  200

牧師というのが何度か出てくる。下「」引用。

「紀彦の父の加山はプロテスタントの牧師だった。原子爆弾被災の牧師は世界でも珍しい。そのせいか、アメリカの方々の教会から、月に二つは小包みが送られてくる。罐詰や衣類が主で、衣類の半分は加山の手で食糧に変えられる。占領軍の牧師からも時々メリケン粉の大袋が届けられる。食糧事情の逼迫している時勢に、紀彦の家だけはそれほどのこともなかった。加山の所属教会は、戦時中に軍に接収され、とりこわされた。それで、加山は、友人の牧師の教会で、その友人と交替に日曜礼拝の説教を受けもっていた。しかし、加山は牧師として生計をたてているわけではなかった。占領軍の通訳としてかなりの高給を得ていたのである。家事は女学校の専門部に通う百合子が切り廻していた。」

実際あったのだろうか? 下「」引用。

「そこのプロテスタントのメソジスト派の牧師を父がやっていた。その教会は、スコットというアメリカ人の宣教師夫妻が、失った愛児の記念教会として建てたもので、後に太平洋戦争も敗色濃い頃に軍部の命令によって接収され、壊されてしまったが、その頃では、長崎のプロテスタントの教会で一番落着いた感じのよい灰色の二階建の教会だった。」

巡査と朝鮮人のことも書かれてありました。下「」引用。

「私の家から石段を下りると、そこは丁字路になっていて、そこに交番があった。その交番には、ひどく殴る癖のある巡査がいた。彼は四十年輩で、いつも笑ったような陽気な顔に見えるのだが、一旦殴るとなると見境がなくなる風であった。朝鮮人なんかの場合には特にひどかった。見物人の観ている前で、靴で蹴ったり、木の陰で殴るのだった。その時も、殴られているのは朝鮮人だった。」

「或る目覚め」では、水爆とビショップの輪を話題にしている。

或る目ざめとはこのことだと思います……。下「」引用。

「福竜丸の乗組員の運命は我々の運命なんだね」
「そうだよ、ほんとうに」」


もう少し検索しました。下「」引用。
「1945年8月9日、母と2人の妹を長崎原爆で喪う。このため父は棄教。宗薫は退院の手続きが偶然遅れたために被爆を免れた。」
  『川上 宗薫(かわかみ そうくん)【wapedia】』より

父は牧師であったようですね。

そして原爆で妻子を失い、棄教。

永井隆博士たちは、「神の摂理」……。

西南学院九州大学卒業。

カトリックの海星高等学校で教鞭をとったという。

【他の原爆関連作品】

昭和43年 「ナガサキ・母と妹は炎と燃え」を「婦人公論」8月号に発表(44歳)

昭和45年 原爆投下前の長崎での中学時代をつづった自伝「傾斜面」発表(46歳)

昭和49年 「三十年目にナガサキは死んだ」を「潮」8月号に発表(50歳)

   『川上宗薫(かわかみそうくん)』より

いろいろスキャンダルのあった人のようでもあるようです。

傾斜面 

牧師の涙-あれから六十五年老いた被爆者-







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