『シリーズ・戦争の証言19
ヒロシマの夜の病棟 被爆者日記抄』
田村慶子・著/太平出版社1977年、1978年3刷
被爆者が入院されたときつけられていた日記。
そのままを出版されたという感じです。
吉永小百合さんのことも書かれてありました。下「」引用。
「吉永小百合、渡哲也が来て病院中ごったがえす。」
「吉永小百合にサインをしてもらった。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/f8/a43227a07fc27ee769655092933528c6.jpg)
この文章を読んでいて、まるで看護記録だなあと思いました。
同じ患者に閉口したり、子どもがうるさいことなどの悩みが書かれてあります。
また、病院食がまずいとか、今の病院もかかえる問題を書かれている。
別に広島の被爆者特有でないことでも、やはり被爆者も悩んでおられたのだと思いました。
折鶴の会のことがよく出てきます。写真をとったのをもってきてもらったとか。七夕の日など行事でも関われておられたし、折鶴の会の河本さんからお花をもらったと書いてあったり、手紙を書いたりしておられたようである。
また、永井隆の本を二冊よんでおられたようである。
雪村いづみや、吉永小百合、渡哲也が病院に来たりしている。そこは、一般の病院にはないことだろうとも思う。吉永小百合と渡哲也は映画撮影のため来院。
【映画】愛と死の記録
この時代には看護婦の通信教育があったようである。月謝は六千円。スクーリングに行かれて、退院されて後に資格をとられたようである。
「学院に月謝〔看護婦通信教育費六○○○エン〕とレポートを送った。」
また、他の本にもこの著者のことは書かれているという。下「」引用。
「『ヒロシマ-愛と死』の本〔竹内達著。編者が取材して慶子さんのこともでている〕が発行されたらしい。」
この時代にも、出張舞妓があったのでしょうか?
祗園の舞妓さんのことも書かれてありました。下「」引用。
「主人が京都に行く。午後一時ころ、祗園の舞子さん六人が見舞いに来た。」
これは1965年11月11日のことらしいです。
看護婦資格をとられても、原爆症で看護婦として働けなかったようです……。
index
Index
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ヒロシマの夜の病棟 被爆者日記抄』
田村慶子・著/太平出版社1977年、1978年3刷
被爆者が入院されたときつけられていた日記。
そのままを出版されたという感じです。
吉永小百合さんのことも書かれてありました。下「」引用。
「吉永小百合、渡哲也が来て病院中ごったがえす。」
「吉永小百合にサインをしてもらった。」
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この文章を読んでいて、まるで看護記録だなあと思いました。
同じ患者に閉口したり、子どもがうるさいことなどの悩みが書かれてあります。
また、病院食がまずいとか、今の病院もかかえる問題を書かれている。
別に広島の被爆者特有でないことでも、やはり被爆者も悩んでおられたのだと思いました。
折鶴の会のことがよく出てきます。写真をとったのをもってきてもらったとか。七夕の日など行事でも関われておられたし、折鶴の会の河本さんからお花をもらったと書いてあったり、手紙を書いたりしておられたようである。
また、永井隆の本を二冊よんでおられたようである。
雪村いづみや、吉永小百合、渡哲也が病院に来たりしている。そこは、一般の病院にはないことだろうとも思う。吉永小百合と渡哲也は映画撮影のため来院。
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この時代には看護婦の通信教育があったようである。月謝は六千円。スクーリングに行かれて、退院されて後に資格をとられたようである。
「学院に月謝〔看護婦通信教育費六○○○エン〕とレポートを送った。」
また、他の本にもこの著者のことは書かれているという。下「」引用。
「『ヒロシマ-愛と死』の本〔竹内達著。編者が取材して慶子さんのこともでている〕が発行されたらしい。」
この時代にも、出張舞妓があったのでしょうか?
祗園の舞妓さんのことも書かれてありました。下「」引用。
「主人が京都に行く。午後一時ころ、祗園の舞子さん六人が見舞いに来た。」
これは1965年11月11日のことらしいです。
看護婦資格をとられても、原爆症で看護婦として働けなかったようです……。
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