『シリーズ・戦争の証言14 ぼくら墨ぬり少国民-戦争と子どもと教師-』
和田多七郎・著/太平出版社1974年、1987年7刷
教師として……。
--それを考えて書かれた本のようです。
しかし、戦争や平和についても学ばないと、書けないこともあるのではないでしょうか?
「I 戦争責任--教師はどう生きればよかったか」 下「」引用。
「忘れることは罪ではないのか
毎年、夏になると戦争のころを思い出す。
毎年、夏になると戦争のころの教科書と教師と教育を思い出す。
いま自分が教師であるせいなのか、ことさら強く、「あのころ教科書って、教師って、教育っていったいなんだったろう--いったい、教師はどうすればよかったのだろうか。そして、これからはどうすれば……」とわたしはくりかえして思う。
年々多くなる農村からの出稼ぎ。それも冬季だけではなくなった。学校でわたしたちは親子のつながりを保ち、育てるために、出稼ぎ先の父母や兄に手紙を書け、と教えている。
働き盛りの男のいない村、父や兄に書かせる手紙、都会の子が公害から逃れて田舎に疎開、教科書に登場する神話……。
こうした事象は、戦争のあのころに似てはいないか。赤紙で出征してしまった。男のいない銃後の村に、戦地の兵隊サンに書き送った慰問文に。空襲から逃れるための田舎への学童疎開に。世界にただ一つ、「日本は神のつくり給ふた神の国なり」と教えられた国定五期の教科書に。」
今も変らない国のかたちですね。
そして、さらに悪いことには自覚できないようにする闇教育が……。下「」引用。
「くわえて、時の流れに流されておのれを持たない教師たちが。日に日に強まる管理体制が。あまりにも戦争のあのころに似ていないか……。」
戦争が終わって……。下「」引用。
「それが、戦争が終わったら、「教科書を開くまえに一度教科書におじぎしないと罰が当たるよ」とまで教えてくれた同じ教師の命令で、わたしたちは教科書に墨をぬったのである。
村に軍人はいない。軍人と教師のどちらが偉いのかわからなかったが、とにかく軍人のいない村に、教師以上の偉い人はいない。教師のいうことは、子どもにとってはもちろん、親にとっても絶対であった。
それゆえにこそ、教師に説得されると、数え年一五のわが子を軍隊や満州に送り出していたのである。その教師が、こともあろうに教科書のかなでも特別に力をいれて教えた部分こそよけいに濃く墨をぬらせたのである。
教科書に墨をぬる--ということは、それまでの教育をまっこから否定することではないのか。それまでの教育を否定したのであれば、それまでとは異なった意識で以後の教育にあたらねばならないのではなかったのか。、
このことを、生徒も教師も忘れていいのか、忘れることが許されるのか。そのときから四半世紀も過ぎ去ったからといって忘れていいのか。ほんとうは、忘れることは罪ではないのか……。」
互いにいがみあうシステム……。下「」引用。
「隣り近所、お互いの監視がきびしくなって、お互いが敵愾心をもちあわせ、いがみ合うようになって、たとえ、保有米の隠し米がある家でも、子どもがかたみの狭い思いをしないように、わざと混じりものの多い弁当をつくって持たせる家もあった。」
「花岡事件」についても書かれてあった……。下「」引用。
「一九四四(昭和一九)年八月八日から、秋田県北秋田郡花岡町の鉱山--ここは戦場であった。いや、一方の異民族にはなに一つ武器がなく、日本人監督のあごの動き一つで動かされ、ののしられ蹴られ、死者がつぎつぎとふえていったのであるから、戦場ではなくして、一方的な殺戮の場とでもいったほうが、より正確であろう。-略-」
「あとがき」 下「」引用。
「教師の仕事は、恐ろしい仕事である。戦争中、少年航空兵や満蒙開拓青少年義勇軍に志願させた教え子に死なれたある教師は、その教え子の親にこういわれた。
「うちのむすこを返してくれ」と。「先生は子どもをだましたのだ」といわんばかりの表情で……。
また、義勇軍から生きて帰った教え子にはつぎのようにいわれた。-略-」
いわれるよりも、困難にある人たちの方が大変だろう……。
今も似たようなものですね……。
もくじ
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もくじ
和田多七郎・著/太平出版社1974年、1987年7刷
教師として……。
--それを考えて書かれた本のようです。
しかし、戦争や平和についても学ばないと、書けないこともあるのではないでしょうか?
「I 戦争責任--教師はどう生きればよかったか」 下「」引用。
「忘れることは罪ではないのか
毎年、夏になると戦争のころを思い出す。
毎年、夏になると戦争のころの教科書と教師と教育を思い出す。
いま自分が教師であるせいなのか、ことさら強く、「あのころ教科書って、教師って、教育っていったいなんだったろう--いったい、教師はどうすればよかったのだろうか。そして、これからはどうすれば……」とわたしはくりかえして思う。
年々多くなる農村からの出稼ぎ。それも冬季だけではなくなった。学校でわたしたちは親子のつながりを保ち、育てるために、出稼ぎ先の父母や兄に手紙を書け、と教えている。
働き盛りの男のいない村、父や兄に書かせる手紙、都会の子が公害から逃れて田舎に疎開、教科書に登場する神話……。
こうした事象は、戦争のあのころに似てはいないか。赤紙で出征してしまった。男のいない銃後の村に、戦地の兵隊サンに書き送った慰問文に。空襲から逃れるための田舎への学童疎開に。世界にただ一つ、「日本は神のつくり給ふた神の国なり」と教えられた国定五期の教科書に。」
今も変らない国のかたちですね。
そして、さらに悪いことには自覚できないようにする闇教育が……。下「」引用。
「くわえて、時の流れに流されておのれを持たない教師たちが。日に日に強まる管理体制が。あまりにも戦争のあのころに似ていないか……。」
戦争が終わって……。下「」引用。
「それが、戦争が終わったら、「教科書を開くまえに一度教科書におじぎしないと罰が当たるよ」とまで教えてくれた同じ教師の命令で、わたしたちは教科書に墨をぬったのである。
村に軍人はいない。軍人と教師のどちらが偉いのかわからなかったが、とにかく軍人のいない村に、教師以上の偉い人はいない。教師のいうことは、子どもにとってはもちろん、親にとっても絶対であった。
それゆえにこそ、教師に説得されると、数え年一五のわが子を軍隊や満州に送り出していたのである。その教師が、こともあろうに教科書のかなでも特別に力をいれて教えた部分こそよけいに濃く墨をぬらせたのである。
教科書に墨をぬる--ということは、それまでの教育をまっこから否定することではないのか。それまでの教育を否定したのであれば、それまでとは異なった意識で以後の教育にあたらねばならないのではなかったのか。、
このことを、生徒も教師も忘れていいのか、忘れることが許されるのか。そのときから四半世紀も過ぎ去ったからといって忘れていいのか。ほんとうは、忘れることは罪ではないのか……。」
互いにいがみあうシステム……。下「」引用。
「隣り近所、お互いの監視がきびしくなって、お互いが敵愾心をもちあわせ、いがみ合うようになって、たとえ、保有米の隠し米がある家でも、子どもがかたみの狭い思いをしないように、わざと混じりものの多い弁当をつくって持たせる家もあった。」
「花岡事件」についても書かれてあった……。下「」引用。
「一九四四(昭和一九)年八月八日から、秋田県北秋田郡花岡町の鉱山--ここは戦場であった。いや、一方の異民族にはなに一つ武器がなく、日本人監督のあごの動き一つで動かされ、ののしられ蹴られ、死者がつぎつぎとふえていったのであるから、戦場ではなくして、一方的な殺戮の場とでもいったほうが、より正確であろう。-略-」
「あとがき」 下「」引用。
「教師の仕事は、恐ろしい仕事である。戦争中、少年航空兵や満蒙開拓青少年義勇軍に志願させた教え子に死なれたある教師は、その教え子の親にこういわれた。
「うちのむすこを返してくれ」と。「先生は子どもをだましたのだ」といわんばかりの表情で……。
また、義勇軍から生きて帰った教え子にはつぎのようにいわれた。-略-」
いわれるよりも、困難にある人たちの方が大変だろう……。
今も似たようなものですね……。
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