磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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追憶-國民學校入学一期生が綴る戦中・戦後体験記

2009年12月01日 | 読書日記など
『追憶-國民學校入学一期生が綴る戦中・戦後体験記
  平和への切なる願いを込めて-』
    広島県立呉三津田高等学校四回生・編/
      広島県立呉三津田高等学校四回生2009年

新聞にこの本が書かれてあった……。下「」引用。

「毎日新聞 呉・東広島 2009年10月9日金曜日
戦争体験記99人が寄稿 三津田高の同期生ら 600部作成 平和訴える-略-」



原爆のことも書かれてありました……。下「」引用。

「-略-さらに、世界で最初に広島に投下された原子爆弾についても広島に近いこともあって、私達の中にも自分も被爆したり、肉親や親戚の人を失った人がかなりいる。また、私たちもほとんどの者が呉や疎開先で原爆の閃光ときのこ雲を目撃しているし、逃れてきた被災者から惨状を実感した者もいる。」

「「父は沖縄で死んだ」を著した大田英雄君のこと」

戦艦大和。下「」引用。

「大和は一説によると当時の国家予算の4割程度を使ったという記述もあるから、山本五十六はじめ多くの建造反対論があったのは当然のことであろう。-略-」

先生は昭和19年トラック島で戦死された。

「「ピカッ」と「ドーン」の間」 下「」引用。

「我が家と原爆投下地点(原爆ドーム)は約18km離れている。「ビカッ」と光ってから「ドーン」の音が着くまでものすごく時間があったと思ったが、音速から計算すると50秒位たって聞こえた事になる。」

このことは、雷といっしょですね。もちろん、エネルギーの大きさが異なりますが……。

連行される米兵捕虜。下「」引用。

「日時は記憶には無いが、中国憲兵隊司令部の分隊(我が家裏の江田島高等女学校の中に設営されていた)より両目の部分だけに穴をあけた新聞紙で顔を覆い(戦時でも武士道は地に落ちていなかった)後ろ手に捕縄された1人が1人の憲兵に徒歩で押送されて行く場面に遭遇した。多分呉か広島へ護送すべく小用港へと急いでいたものと思われた。」

--「原爆と父」
原爆投下から3日間、親戚の安否をたずねて、自転車で広島へいった著者の父。
前身焼けただれた女生徒を助け、自転車の荷台にくくりつけ、女生徒の家へ。立派な桃をもらったという。

「残留孤児になりかかった自分」

「チョコレート・ワン・サービス」 下「」引用。

「そのころ近所の年上の悪がきが、情報を仕込んできた。アメリカ軍のキャンプへ行けば、食べ物をくれるという話である。早速5、6人で集団をつくり、1時間くらい歩いてキャンプまで出かけた。入口には銃を持った番兵がいて、大人は入れないようにしていたが、子供はフリーパスだった。宿舎の建物(当時はカマボコ兵舎と呼んでいた)の中まで入ると、非番の米兵がベッドで、本を読んだりして休息していた。「サービス・サービス」と言ってねだると、菓子や軍用缶詰を気前良くくれた。その一巡りが終わると、ごみ捨場漁りである。今の飽食日本と同じように、食べ残しが一杯捨ててあり、食べれそうなものを拾い集めて、意気揚々と帰り、戦利品を平等に山分けした。-略-」


「学童疎開」のことも書かれてあった。

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