磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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海舟余波-わが読史余滴

2010年01月08日 | 読書日記など
『海舟余波-わが読史余滴 文春文庫366-1』
   江藤淳・著/文芸春秋1984年

「あとがき」より。下「」引用。

「これは、もともと「文學界」昭和四十五年八月号から昭和四十七年十一月号にかけて、二十一回にわたって断続的に連載したものである。-略-」



咸臨丸で渡米中、熱病だった海舟。下「」引用。

「「気分が悪いよう」なのも道理で、実は海舟はこのとき病気をおして咸臨丸に乗組んでいたのであ。『氷川清話』にいうり。
《ちやうどそのころ、おれは熱病を煩つて居たけれども、畳の上で犬死をするよりは、同じく軍艦のカナで死ぬるがましだと思つたから、頭痛でうんうんいつて居るをも構はず、かねつ通知しておいた出帆日も迫つたから、妻にちよつと品川まで船を見に行くといひ残して、向ふ鉢巻きですぐ咸臨丸へ乗りこんだヨ。それから横浜へいつて石炭を積み、いよいよ東へ向ふ鉢巻ですぐ咸臨丸へ乗りこんだヨ。それから横浜へいつて石炭を積み、いよいよ東へ向かつて日本の地を離れたのだ》」

上の記録が正しいのなら、福沢諭吉の記録は正確ではない。

index

寝込む海舟、日本人水夫たちに憤激するブルック。

日本の海軍を「改革」したのは、ブルックでもなければ中浜万次郎でもなく勝海舟だったという。

海舟が回復すると……。下「」引用。

「その翌日、ブルックはふたたび艦長に「スープとブドウ酒を贈」り、「又朝食として生玉子とブドウ酒を贈」-略-っている。海舟がキャビンから姿を現すのはその翌日(二月七日)、甲板に出てブルックと言葉をかわし、ワシントンまで生きたいものだと希望を明らかにするのは翌八日のことであ。この直後から勝艦長はその本来の面目をあらわしはじめたらしい。事件のブルック側からの報告は次のようなものである。-略-海舟はキャビンにこもり、熱に悩み血を吐きながら出帆依頼二十数日間この癇癪を醸成していたのである。ブルックが本当の病気と信じているものを、木村が政治的病気と思いこんでいるのも面白いが、あるいはこの仮借も一半の真実をうがっているのかも知れない。海舟はひょっとすると悶々と病に伏しながら、癇癪を爆発させるべき「機」の到来をうかがっていたもか知れないからである。」

幕府の人間たちは、身分格式をそのまま咸臨丸におしきせていたという。

父・勝小吉のことも書かれてあった……。

西郷と海舟の会談を「きつね」と「たぬき」の化かしあいと著者は考えているようだ。

いろいろなものを背負っていたとは考えないうようだ……。







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