磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

激動二十年-長崎県の戦後史

2008年04月09日 | 読書日記など
『激動二十年-長崎県の戦後史』
   三原浩良・著/毎日新聞西部本社1994年復刊

復刊……。下「」引用。

「*本書は、昭和40年8月15日初版発行の『激動二十年 長崎県の戦後史』(毎日新聞西部本社刊)を復刻したものです。」



毎日新聞らしい、いい記事が多いと思います。

でも、活字がすごく読みづらいです。

花柳界も戦争の影響が。下「」引用。

「三味・芸妓の鑑札返上で、全国の料・飲食店は一せいに休業状態にはいったが、軍都・佐世保の場合はちょっとおもむきが変わっていた。-略-軍の指令で芸者は演妓と改められ、置き屋は集会所と呼ばれるようになった。そして演妓の姿といえば、モンペに防空ズキンと救急袋を斜めに背負い、頭はすき流しか、パーマばかり。」

怪文書もあったという。下「」引用。

「もう一つは、二十年一月有明海に撃墜し、捕虜にしたB29搭乗員三人の処分の問題。当時としては彼らに対する迫害の恐れもあった。そこで柴田文六司令(故人)は、ひそかに司令室に軟禁して優遇した。ところが、戦後大村署に“捕虜三人を飛行場で斬首した。村田が事情を知っている”という投書があり、村田も調べを受けた。真相を知っていた村田は「そんな事実はなかった」といいきって、ケリをつけたが、この怪文書の主はいまだにナゾとされている。」

原爆投下のとき、ナガサキでも高射砲が使われたという。
それを見た人は爆風で飛ばされたが、一人は助かったという。下「」引用。

「あとでわかったことだが、原爆が空中で爆発した瞬間、空気が四方にとび散って(爆風)爆心には巨大な真空状態が発生する。そこへこんどは逆に周囲の空気が流れ込んで、真空を埋めようと猛烈な上昇気流(これがキノコ雲の原因)が生まれる。戦後の調査結果によると、この上昇気流は木造家屋を空中に持ち上げたほど強力なものだった--というわけで、このラッキーな大工は、いったん爆風ではね飛ばされ、接地寸前に上昇気流にうまく乗って、ふんわりと着地したものらしい。五メートルと二十メートルの差が生死を分けたのだ。」

二重被爆のことも書かれてありました。下「」引用。

「二度も原爆の洗礼-というショッキングな体験をした人がいる。ハタ(タコ)作りの名人、森本繁義=長崎市八坂町=がその人。一発目は徴用先の広島で、二発目は、長崎に帰りついたその日。おまけに“この貴重な体験”には、戦争末期に登場した“珍兵器”の一つ“タコ飛行機”作りがからんでいた。そのころ、日本本土を焦土と化したB29の向こうを張って、アメリカ本土攻撃を敢行した秘密兵器があった。いまではかなり知られている“風船爆弾”である。地球の自転にともなって日本の高空を吹いている偏西風にヒントを得たもの。」

index

index

「原爆こぼれ話」でソ連機のことも書かれてありました。

玉音放送がおわっても戦争を続けようと人たちのことも書かれてありました。

天皇の勅使があったという。下「」引用。

「古屋野は「原爆投下の直後は、天皇の特使として久松侍従が医大を訪れ、一日も早く復興に努力するようというおことばがあった。当時私は、このおことばは天皇のご命令であると心に刻み、復興だけを考えていただけに、むりとわかっていても復興に関してはがんばった。-略-」

車両工場になった造船所。下「」引用。

「「三菱重工長崎造船所幸町車両工場」--新しい看板の下に続々とスタッフが集ってきたる軍艦造りには“世界一”の腕をほこったが、機関車の修理は生まれて初めての人ばかり……。-略-“日本の復興はまず輸送車両から”“国は占領されても頭脳と技術は奪えない”--口から口へと伝えられる合い言葉に、造船マンのほこりが、ふたたび激しく燃えあがった。」

1946年5月13日、ヤミ市を手入れ、その報復に警官などが襲われたという。
--花岡巡査は二日後死亡。

昭和24年3月6日、原爆市長(元長崎市長・岡田寿吉(当時63歳)姿を消す。
昭和10年には三菱マン、16年、長崎市長に。昭和21年、公職追放。
昭和31年11月18日、白骨体で発見されたという。

昭和20年4月、長崎市駒場町、爆心地に近い焼野原に市営競輪場ができた。

永井隆博士のことも何カ所かで書かれてありました。下「」引用。

「永井は生家が貧しかったので、学校では苦学でとおした。医大では家庭教師の収入二十円也。月のうち半分は昼食ぬき。バスケットの選手をしていたので腹がへる。水を飲んでは図書室で本を読んだ、。そのがんばりに学生仲間は“オックス”というあだ名をつけた。」

Index

川南騒動についても書かれてありました。下「」引用。

「川南工業の紛争と崩壊ほど多くの話題を提供、また六千人の失業者、膨大な負債など社会に迷惑をかけたところも少なくない。同社は、川南豊作という人物の独力でつくられ、そしてまたこの人物のために崩壊した。」

革命

--昭和31年9月25日、李丙舜(44)と李真衝(23)、偽造で密航。
李父子は、元華族、祖父は日韓合併当時の総理大臣、父は京大卒。“朝鮮を日本に売り渡した逆賊の子孫”と民族反逆罪に問われ、不遇な生活を送っていた。父子は「刑務所でもいい、日本に置いて下さい」と話したという。

index









目 次





エンタメ@BlogRanking


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。