磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

【復刻版】絶後の記録-----亡き妻への手紙-』

2008年01月05日 | 読書日記など
『【復刻版】絶後の記録-亡き妻への手紙-』
   広島文理科大学助教授 小倉豊文・著/
     中央社1948年、1949年6版

無惨な戦争……。原爆を受けて妻も教え子もなくされた……。遠い地点から、思い起こしたものではありません……。*旧字や送り仮名は直してあります。



序文は高村光太郎が書いています。下「」引用。

「平和への燈(再版に序して)
 -略-この多くの無惨の死者が、もし平和への人類の進みに高く燈をかかげるものとならなかったら、どう為よう。この記録を読んだら、どんな政治家でも、軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであろう。今後、せめて所謂冷たい戦争だけで戦争は終るようになってくれなければこの沢山の日本人は犬死になる。この本を読んで世界の人々へ考えてもらいたい。
  一九四九年二月  高村光太郎」

占領下における書物ですね。下「」引用。

「ひいては敗戦日本の懺悔録として、読みとっていただければ幸いである。-略-今日は、あの世紀の一瞬から数えて、満三周年のその日である。爆心地慈仙寺鼻の平和塔前では、第三回戦災者供養と第二回平和祭が行なわれた。そしてアメリカに起こった平和運動「ノー・モア・ヒロシマズ」の日本最初の声があげられ、マッカーサー元帥のメッセージも発表せられた。このゆかりの日に、この「はしがき」のペンをとった私の感慨は、ひとしお深いものがある。
 一九四八・八・六 假寓にて 著者」

これは個人的なことを書かれた本でもあります。下「」引用。

「「ピカッと、とてもみ巨(おお)きな稲妻が光つたと思ったの、それから、なんにもわからなくなっちゃったの、福屋の前で--」
 文子--
 八月七日の夜、奇跡的にまだ生きているお前とめぐりあった時、お前はとぎれとぎれにそういったね。」

四ざる主義になっていたという。下「」引用。

「大体、俺は歩くに従ってますます頑固に「見ざる聞かざる話さざる」の「三ざる主義」になりさがり、人に会ってもいっさい話しをききもしなかったが、あの山口町のさきの電車の桟橋の西詰で女の死体に手を触れてからは、もう一つ「触らざる」を追加した「四ざる主義者」にまでなってしまっていた。」

--さがしたが見つからない妻。
その時、学生のN君から「先生、奥さんが府中国民学校におられます」と聞き、驚く著者。
府中と船入では5、6キロあるという。
N 君の制服をみて、妻は声をかけたという。
しかし、N君は知らない学生だったが、わざわざ知らせに来てくれたという。

戦時中は学徒動員に関する仕事をされていたようだ。下「」引用。

「十一日からは毎日工場にでた。俺の付添の学生は多少出入りはあったが、やっぱり十名内外だけだった。前からこの工場にきていた派遣隊長のY教授は、工場の高級幹部のような位置にすわっていて、この工場にきている大学、高専、中等学校すべての「学徒動員」隊の総取締みたいな仕事をしていたようだ。前からきている学生は、中学校や女学校の、生徒のそれぞれの隊の隊長みたいな役をしていた。それらの人々は、俺といっしょにいった学生の出席率の「不成績」を大分不満に思っているようだった。」

学生に謝った著者。下「」引用。

「それで、この四月、敗戦後はじめて講壇にあがった時、俺は心から学生にあやまった。しかしその時は、もう教壇を去る覚悟をして、教室主任のK教授の承認も得ていたのだ。その後、子供らのことや、その他の準備で今日まで広島にいてしまったが、もう子供は安心だし、俺の新しい生活への準備もほぼできた。今月の十九日、お前の一周忌にはもうここにはいないだろう。新しい生活の報告は、また改めてゆっくりと書くとする。」
これは、1946年8月6日に記されたもの。

そして翌年の10月10日追記。下「」引用。

「教室が破綻に瀕するようになり、俺は再び教壇に立たねばならなくなってしまったのだ。-略-学校も、九月に江田島のバラックから焼跡の本館に帰って、まがりならりにも講義をはじめている。」

広島原爆の手記-亡き妻への手紙-







index





エンタメ@BlogRanking



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。