『みずき芽吹くとき』
山口勇子・著/新日本出版社1984年
「おこりじぞう」の作者の山口勇子さんの大人向けの小説です。
帯に書かれてあります。下「」引用。
「原爆は、人間のからだと心を焼きつくした!
広島に原爆が落とされたあの日、幼い秋代は母に背負われて炎の中を駆けぬけたが、母はこと切れた……。原爆孤児・故老の悲しみが切々と伝わる感動の書。」
ぼくは感動しなかった。むしろ悩んだ……。
幼児の記憶について。下「」引用。
「父は最初の妻、つまり佐平の兄と佐平の生みの母を原爆に奪われたのだ。当時、佐平はまだ学齢前の幼児だったから、母に手を引かれて広島の焼け跡を父をさがして歩いたときの記憶は、ぼんやりと残っている。村を出るときは、荷車で峠を三つばかり越えた地点までは、大勢ひとかたまりで行った。一団となって、広島に夫をさがしに行く女たちで、あとを追って離れないそれぞれの幼い子どもらを荷車に乗せ、というよりも積みあげて、母たちは代る代る荷車をひいた。母たちは誰もほとんど口をきかず、幼児たちはその気迫に押されたのか、日頃に似ずみなおとなしく荷車にゆられていたような気がする」
善玉か悪玉か……。これはゼロサム・ゲームではないかと思いました。下「」引用。
「なかでも第九回原水爆禁止世界大会を中心に、巨大な渦がまきおこって、佐平もその渦の末端の一部分になったからだ。その頃佐平のまわりをとりまいていた友人たちの地図は、一挙にぬりわけられてしまい、あいつはイエスといった。こいつはノー。果ては善玉か悪玉か、とまで発展しかねないクレヨンのぬりわけだった。そのおかしなぬりわけごっこは、しかしそのときは大まじめで、第九回大会閉会直後から若い佐平を苦しめたものだ。」
とても平和的にはボクには思えません。
--多様化など求めておられないと思います……。
「なんでもない日」はなんでもない日ではないですね。下「」引用。
「それは佐平の子ども時代のことだ。佐平の家では八月六日を「なんでもない日」として過ごしてきた。父も義母も、この日に決して原爆のことは口にしなかったから、佐平も、佐平の兄も、それにならった。父の無言が一家を支配し、たたみに転がってひるねをしていると、外の炎天が煮えたぎるようで、せみしぐれが特別身にしみた。あの無言の一日は、かなしみと祈りに通じていたのだ。」
「祈り」と「怒り」をとりあげていた著者……。
--その時の意見と、この表現をどう思われるのでしょうか?
目次
怒りも、「煽動」につなげる恐ろしいものもある……。
--そして、人殺しまではじめた人たちもいるのではないか?
それは平和などとはいえないはずだ!
--人を迫害、疎外するような人たちが、平和主義とはボクには思えない。
ラサの革命展覧館の泥人形。「女性農奴の怒り」
『チベット その歴史と現在』より
「赤旗」日曜版1982年7月~1983年7月連載された作品であるようです。
index
もくじ
山口勇子・著/新日本出版社1984年
「おこりじぞう」の作者の山口勇子さんの大人向けの小説です。
帯に書かれてあります。下「」引用。
「原爆は、人間のからだと心を焼きつくした!
広島に原爆が落とされたあの日、幼い秋代は母に背負われて炎の中を駆けぬけたが、母はこと切れた……。原爆孤児・故老の悲しみが切々と伝わる感動の書。」
ぼくは感動しなかった。むしろ悩んだ……。
幼児の記憶について。下「」引用。
「父は最初の妻、つまり佐平の兄と佐平の生みの母を原爆に奪われたのだ。当時、佐平はまだ学齢前の幼児だったから、母に手を引かれて広島の焼け跡を父をさがして歩いたときの記憶は、ぼんやりと残っている。村を出るときは、荷車で峠を三つばかり越えた地点までは、大勢ひとかたまりで行った。一団となって、広島に夫をさがしに行く女たちで、あとを追って離れないそれぞれの幼い子どもらを荷車に乗せ、というよりも積みあげて、母たちは代る代る荷車をひいた。母たちは誰もほとんど口をきかず、幼児たちはその気迫に押されたのか、日頃に似ずみなおとなしく荷車にゆられていたような気がする」
善玉か悪玉か……。これはゼロサム・ゲームではないかと思いました。下「」引用。
「なかでも第九回原水爆禁止世界大会を中心に、巨大な渦がまきおこって、佐平もその渦の末端の一部分になったからだ。その頃佐平のまわりをとりまいていた友人たちの地図は、一挙にぬりわけられてしまい、あいつはイエスといった。こいつはノー。果ては善玉か悪玉か、とまで発展しかねないクレヨンのぬりわけだった。そのおかしなぬりわけごっこは、しかしそのときは大まじめで、第九回大会閉会直後から若い佐平を苦しめたものだ。」
とても平和的にはボクには思えません。
--多様化など求めておられないと思います……。
「なんでもない日」はなんでもない日ではないですね。下「」引用。
「それは佐平の子ども時代のことだ。佐平の家では八月六日を「なんでもない日」として過ごしてきた。父も義母も、この日に決して原爆のことは口にしなかったから、佐平も、佐平の兄も、それにならった。父の無言が一家を支配し、たたみに転がってひるねをしていると、外の炎天が煮えたぎるようで、せみしぐれが特別身にしみた。あの無言の一日は、かなしみと祈りに通じていたのだ。」
「祈り」と「怒り」をとりあげていた著者……。
--その時の意見と、この表現をどう思われるのでしょうか?
目次
怒りも、「煽動」につなげる恐ろしいものもある……。
--そして、人殺しまではじめた人たちもいるのではないか?
それは平和などとはいえないはずだ!
--人を迫害、疎外するような人たちが、平和主義とはボクには思えない。
ラサの革命展覧館の泥人形。「女性農奴の怒り」
『チベット その歴史と現在』より
「赤旗」日曜版1982年7月~1983年7月連載された作品であるようです。
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