『岩波書店834 死の灰と闘う科学者』
三宅泰雄・著/岩波書店1972年
もしも、政治家や軍にいいなりの学者だけだったら、この地球に死の灰はもっとふりそそいでいて、ボクも君もガンになっていたかもしれない……。それとも、この世にはもういなかったかもしれない……。
核兵器を持つ社会はやはり恐ろしいと思う。下「」引用。
「核兵器競争でたちおくれたアメリカでは、国内に多くの混乱を生じた。たとえば、原子力スパイのかどでローゼンバーグ博士夫妻が死刑を執行された(一九五三年六月一九日)。また、原子力委員会の指導者オッペンハイマー博士は、故意に水爆の開発をおくらせたとして、責任をとわれていた。一九五四年(昭和二九)五月二七日に彼は共産党に関係した危険人物と認定され、原子力委員会を追放された。」
ローゼンバーグ事件【goo wikipedia】
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アメリカの水素爆弾独占期は短く。
そして、戦略的価値の高い軽量水爆は、ソ連が先。
アメリカがソ連においついたのは、レッドウィング(つぐみ作戦)であり、いちじるしく海洋汚染をもたらしたという。
ビキニ海域の第五福竜丸についても書かれてありました。
福竜丸事件のころの技術力。下「」引用。
「そのころは、まだ簡単な放射線測定きかいすら入手しにくいころであった。厚生省では科学研究所の器械をかりたり、メーカーの所有の器械をかきあつめたりして、ようやく一二台の器械をととのえ、五つの指定港に配布した。専門の技術者もいなかったので、科学研究所の山崎研究室、立教大学田島英三教授(理学部、物理学)の研究室の人たちが、現場で測定をしてり、測定の指導をした。」
危険区域を八倍の面積にしたアメリカ。下「」引用。
「第五福竜丸が被災したために、アメリカ原子力委員会は航行禁止の危険区域をいっきょに、面積にして八倍にひろげた。」
西ドイツの核兵器反対。下「」引用。
「一九五七年には西独の核武装計画に反対し、ハイゼンベルク博士をはじめとする一八人の科学者が、原子兵器の製造、実験、使用に絶対に参加しないという宣言を出した(ゲッチンゲン宣言、一九五七年四月)。このなかに核分裂の発見者オットー・ハーン博士の名前を見出すことは、化学者にとってはきわめて印象ぶかいことである。」
広島長崎の調査のことも書かれてありました。
俊鶻丸によって調査。下「」引用。
「わが国の科学者の欠点といわれてきた閉鎖性や狭小性が、ここでは徐々にとりはらわれつつあった。俊鶻丸は科学のあたらしい実験場であり、浮かぶ研究所でもあった。専門分野のわくをこえ、団員たちが船上で得た相互理解は、のちに日本放射線影響学会という、まったくあたらしい型の学会に発展するのである(一九五九年)。」
その調査が正しいか、アメリカは「トロール作戦」で検証しようとした。
その年の核爆発の総回数は27回。
「東西両陣営による放射能影響国際学術懇談会」が開かれたという。下「」引用。
「一九五五年五月三○日から、東京で開かれた「放射能影響国際学術懇談会」は、放射線影響の研究者にとって、重要なできごとであった。この会議は、都築正男博士(日赤病院長)や隈部英雄博士(結核予防会専務理事)らの医学者によって、計画されたものであった。」
日本の原子力発電をつくろうとはじめられた時の異常さが、この本でも書かれてあります。
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三宅泰雄・著/岩波書店1972年
もしも、政治家や軍にいいなりの学者だけだったら、この地球に死の灰はもっとふりそそいでいて、ボクも君もガンになっていたかもしれない……。それとも、この世にはもういなかったかもしれない……。
核兵器を持つ社会はやはり恐ろしいと思う。下「」引用。
「核兵器競争でたちおくれたアメリカでは、国内に多くの混乱を生じた。たとえば、原子力スパイのかどでローゼンバーグ博士夫妻が死刑を執行された(一九五三年六月一九日)。また、原子力委員会の指導者オッペンハイマー博士は、故意に水爆の開発をおくらせたとして、責任をとわれていた。一九五四年(昭和二九)五月二七日に彼は共産党に関係した危険人物と認定され、原子力委員会を追放された。」
ローゼンバーグ事件【goo wikipedia】
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アメリカの水素爆弾独占期は短く。
そして、戦略的価値の高い軽量水爆は、ソ連が先。
アメリカがソ連においついたのは、レッドウィング(つぐみ作戦)であり、いちじるしく海洋汚染をもたらしたという。
ビキニ海域の第五福竜丸についても書かれてありました。
福竜丸事件のころの技術力。下「」引用。
「そのころは、まだ簡単な放射線測定きかいすら入手しにくいころであった。厚生省では科学研究所の器械をかりたり、メーカーの所有の器械をかきあつめたりして、ようやく一二台の器械をととのえ、五つの指定港に配布した。専門の技術者もいなかったので、科学研究所の山崎研究室、立教大学田島英三教授(理学部、物理学)の研究室の人たちが、現場で測定をしてり、測定の指導をした。」
危険区域を八倍の面積にしたアメリカ。下「」引用。
「第五福竜丸が被災したために、アメリカ原子力委員会は航行禁止の危険区域をいっきょに、面積にして八倍にひろげた。」
西ドイツの核兵器反対。下「」引用。
「一九五七年には西独の核武装計画に反対し、ハイゼンベルク博士をはじめとする一八人の科学者が、原子兵器の製造、実験、使用に絶対に参加しないという宣言を出した(ゲッチンゲン宣言、一九五七年四月)。このなかに核分裂の発見者オットー・ハーン博士の名前を見出すことは、化学者にとってはきわめて印象ぶかいことである。」
広島長崎の調査のことも書かれてありました。
俊鶻丸によって調査。下「」引用。
「わが国の科学者の欠点といわれてきた閉鎖性や狭小性が、ここでは徐々にとりはらわれつつあった。俊鶻丸は科学のあたらしい実験場であり、浮かぶ研究所でもあった。専門分野のわくをこえ、団員たちが船上で得た相互理解は、のちに日本放射線影響学会という、まったくあたらしい型の学会に発展するのである(一九五九年)。」
その調査が正しいか、アメリカは「トロール作戦」で検証しようとした。
その年の核爆発の総回数は27回。
「東西両陣営による放射能影響国際学術懇談会」が開かれたという。下「」引用。
「一九五五年五月三○日から、東京で開かれた「放射能影響国際学術懇談会」は、放射線影響の研究者にとって、重要なできごとであった。この会議は、都築正男博士(日赤病院長)や隈部英雄博士(結核予防会専務理事)らの医学者によって、計画されたものであった。」
日本の原子力発電をつくろうとはじめられた時の異常さが、この本でも書かれてあります。
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