磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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似島原爆日誌 若き軍医の回想録

2007年03月06日 | 読書日記など
『似島原爆日誌 若き軍医の回想録』
       錫村満・著/汐文社1986年

戦後40年にして、あのときのことを書かれました。愛する子たちや孫たちに語りかけづにはいらないという……。



似島は広島市宇品港から南方約三キロメートルのところにあるという。

この島に被爆した人たちが送られていったのでした。

そこにいたのは、若き著者、軍医。服装は軍服ではなかったようです。下「」引用。

「 カーキ色の半袖シャツと半ズボンを身にまとい、胸にそれぞれの階級をしめす襟章と、船舶兵の印を縫いつけたラシャ切れを安全ピンでとめていなければ、一般の港湾労働者や船員たちとまったく見分けのつかない平凡な青年たちであった。
 彼らのつけている階級章の緑に、緑色の細い線が加えられているのは、この一団が衛生部の下士官や兵から成っている特殊な部隊に属していることをしめしていた。」


このころには、もうソ連を仲介して、連合軍に降伏を申し入れていたことを知っていたという。


原爆は秘密兵器であったし、どのようなものかわからないから、現場の人も理解できなかったようです。

日焼けに似た火傷という表現もありました。

クレゾール石鹸液を何度もかえたという。それだけ、すごかったろうと思う……。

映画をみていて当時のことを思い出されたという。下「」引用。

「藤村がその中尉のことを思いだしたのは、戦後つくられた「原爆の子」という映画を見たときであった。広島で孤児となった浮浪児たちが似島に渡り、洞窟にしのびこんで人骨を掘るシーンがあったが、その場所が中尉のうずくまっていた場所とそっくりだったので、藤村は“ハッ”としてその中尉のことをすっかり忘れていた自分に気がついたのであった。」

また、終戦直後、占領軍支配下では自由に行動がとれなかったことも書かれています。下「」引用。

「昭和三十五年秋、私は戦後はじめて広島を訪ねることができたが、その年の二月には同市で開かれた農村医学会で都築正男教授がはじめて原子爆弾症について講演をしていられる記念すべき年でもあった。それまで日本は米軍に支配されていて満足にものもいえなかったのである。一方で日本の高度成長を謳歌しはじめた時代でもあった。」



永井隆博士も原爆救護報告はすぐには出版することはできず、万博の年に出版されたようです。








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