磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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証言は消えない 広島の記録1

2006年06月28日 | 読書日記など
『証言は消えない 広島の記録1』
   中國新聞社・編/未来社刊1966年、1975年6刷

いろいろなことが証言されています。
それにしても貧乏な人がほとんどで、
お金持ちで活動されていた方はおられたのでしょうか?

いはりました。
吉永小百合さん、美空ひばりさん……。



テレビ結婚がきっかけで原爆孤児の方が結婚されたそうです。

いわゆる原爆乙女といわれる方のことが書かれてありました。下「」引用。

「帰国後、「アメリカへ行けてよかったね」「行くとき恐ろしくなかった?」とよく聞かれた。呉市に占領軍が進駐になしてきたとき「アメリカの鬼がくる」と逃げ回った小屋浦での記憶。アメリカを憎み、原爆をのろった当時の恐怖と、自分の渡米は、どうつながっているのだろう--「なおりたい一心で、恐怖や不安まで考えるゆとりがなかった」と述懐する。“行けてよかったね”という問いには答えない。苦しみを理解してもらえない断層を悲しむだけだ。
 美智子さんは帰国後の三十二年から洋裁学校の教師として勤めている。「あだ名は“ゲンバク”というんです」と笑う。もう別に気もしめない。宿命だと思うから。「結婚は、とうにはあきらめています。それより母の病気や生活のほうが心配です」という。」


社会事業大学で学ばれた方のことが書かれてありました。


被爆直後の方がよかったという意見も書かれてありました。下「」引用。

「ケロイドの娘さんは「被爆直後のほうが暮らしやすかった」と言った。そのころは戦争で傷付いたもの同士の思いやり、いたわりがあった。同じ被爆者という連帯感があった。だが二十年の歳月は、立ち直った被爆者と、取り残されたは被爆者の断層をつくった。」

「平和運動の方法がわからぬ」と切腹自殺を図った方もおられたようです。

“原爆1号”といわれた吉川さんは、広島電鉄の職員のときに被爆されたようです。
「原爆乙女の会」の母体となった「原爆被害者援護会」や「原爆被爆の会」を創設に加わるが、意見があわずに離れてゆかれたという。
昭和34年8月の『週刊文春』は「平和屋三人男、原爆を売り物にするな」と特集記事で書かれたという。



「折り鶴の会」というば河本夫妻であるが、かなり貧乏されたようです。二人とも被爆者であり、河本は電力会社に勤務してられて失対事業の肉体労働者になられたようです。妻は内職をされていたそうで、冬の日に“折り鶴の会”のビラをつくるために、ボロ布団を質屋に入れたこともあったそうです。ずいぶんひどい噂をする人もいたようです。

栗原貞子のことも書かれてありました。
原水爆禁止広島母の会の栗原貞子(四十八歳)は詩人。広島市外の祇園町に住む家庭の主婦。夫は社会党の県議だったそうです。

佐々木禎子の一家も貧しく、広島では食べていけなかったので、九州に引越しされたそうです。それで陰口を叩く人もいたようですね。

クラインゾルゲ神父が帰化されたことが書かれてありました。ユーモアを感じました。下「」引用。

「取材の前日、向原カトリック教会(広島県高田郡向原町)に電話した。「クラインゾルゲ神父はおられますか」「ソンナ人ハ存在シマセン」との返事。そこで「日本名、高倉神父ですが……」「ハイ私デス」ときた。」

ひの目を見なかった作文もあったそうです。それは、『原爆の子』より前の作文であったようです。
なぜ、発表できなかったは、会社が倒産したことと、集めた広島大学の教授も亡くなられたからだそうです。

沖縄の被爆者のことも書かれてありました。



日本の原爆記録10









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